*ルージュな恋*


 ルージュを取るだけにしては長いキスに、香穂子はどうして良いかが解らないほどに、感覚の総てを奪い取られてしまった。
 キスなのか、それとも吉羅流のルージュの取り方なのかは知らないが、とにかく香穂子には刺激が強過ぎて息が乱れてしまった。
 唇を離された後、崩れ落ちてしまいそうになった香穂子のために、吉羅はしっかりと抱き留めてくれる。
「大丈夫かな? 日野君」
 あんなに濃密なキスをされて大丈夫じゃないと思いながら、香穂子は息を乱すしかない。
「…大丈夫だと…思いますが…」
 瞳を潤ませながら、無言の視線で吉羅を攻撃する。こういう風になってしまったことを、誰のせいだと思っているのだろうか。
「大丈夫だったら構わないがね」
 どうしてこんなにも大人の対応が出来るのだろうか。
 香穂子にはそれが悔しくてしょうがない。
 無言の抗議を瞳で続けると、吉羅の瞳は一瞬陰った。
「…日野くん、パーティ会場では、決して私のそばからは離れないようにしてくれたまえ。後で君を探して面 倒なことになることを、私としては避けたいのでね」
「…解りました…」
 迷子になられても面倒だと、要は言っているだけなのだろう。
 香穂子もまた、吉羅のそばから離れるには些か不安であったからか、頷くしかなかった。
「さてとお嬢さん。ちょうど良い感じに変身をしたところで、会場に行きますか」
「はい、お願いします」
 吉羅は頷いてくれたが、その瞳は笑ってはいなかった。

 吉羅の車でパーティ会場へと向かう。
 セレブリティな世界というのは、なんて面倒な世界なのだろうかと、香穂子は思った。
 人脈を広げる。或いは義理で様々なパーティに参加しなければならないなんて、香穂子はとても出来そうにないと思う。
 吉羅はきっと、パーティ等にも苦にならずに参加出来る女性を選ぶのであろう。そう思うと、ほんの少しだけ寂しくなった。
 決して交わることのない、平行線の世界にいるお互いの立場を思いしらされるような気がした。
 車が緩やかに止まり、香穂子はハッと物思いを止める。
「着いたよ、日野君」
「あ、はい」
 吉羅は浅い溜め息を吐くと、先に運転席から出る。
 香穂子も慌てて後を追うように助手席のドアを開けようとした。すると、吉羅がドアをスマートに開けてくれる。
「あ、あの、有り難うございます」
 吉羅に恐縮しながら車から出ると、香穂子の緊張は息が苦しくなるほどに高まってくる。
 一歩後を着いて歩いていると、吉羅が振り返った。
「私と並んで歩くんだ」
「はいっ」
 吉羅と並んで歩くなんて、唇が震える程にドキドキする。
 子供と思われていたらどうしようだとか。
 釣り合わないイミテーション以下だと思われていたらどうしようだとか。
 そんなことばかり考えてしまう。
 吉羅と一緒にいると、いつも臆病で卑屈になってしまうのは、きっと相手が余りに大人だからだろう。
 香穂子はなるべく卑屈にならないようにと背筋を伸ばすと、堂々と前を向いた。
 俯いて足下を気にするよりも、よほど綺麗に歩ける。
 香穂子はただ前を向いて、吉羅の横を歩いた。
 こうして吉羅と対等に歩くことが出来たら良いのにと、思わずにはいられない。
 対等なパートナーでいられたら、これ程良いことはないと言うのに。
 不意に軽くではあるが香穂子は足下を取られてしまい、一瞬だけふらついてしまう。
「気をつけなさい」
 吉羅は落ち着いた声で言うと、香穂子の腰にしっかりと腕を回してきた。
 吉羅のコロンの香りが鼻腔をくすぐり、苦しいほどのときめきが香穂子のこころを貫く。
 コロンになんて全く詳しくはないが、吉羅によく似合っているセクシィな香りだった。
 こんなに近付いたことなんてなかったから。こんなに密着したことなんてなかったから。
 香穂子の甘い震えは収まることを知らなくて、足下が余計に不安定になってしまった。
「日野君、足下は平気なのか?」
「だ、大丈夫です。足下は本当に大丈夫なんです」
 香穂子は声が震えてしまうのをなんとか抑えて答えるしかなかった。
「足下がおぼつかなくても私がいるから酷く躓くことはないよ。だから、堂々としていなさい」
「…はい」
 吉羅が密着しているからだなんて、とてもでないが言える筈がなかった。
 吉羅はそれを知っているのか、知らないのかは解らないが、薄く笑っているのは事実だった。
 パーティ会場に入って落ち着くまで、吉羅はずっと腰を抱き続けている。
 こんなに香穂子が動揺しているというのに、吉羅はいつもと変わりがなかった。
 食事の時間になり、ようやく吉羅の腕が離れた。
 ホッとしながらも、何だか切ない喪失感を覚えてしまう。
「自由に好きなものを取ってきなさい。但し、私の前から余り離れてはいけないよ」
「はい」
 迷子になったら困るぐらいに思っているのだろう。これ程吉羅らしいことはないと、香穂子は思った。
 食事が並んでいるテーブルを見ると、香穂子は思わず声を上げた。
 こんなに沢山美味しそうなものがあるのに、余りひとは集まってはいない。
 香穂子はチャンスとばかりに、大きなお皿いっぱいに様々な料理を取っていく。
 同じように料理を皿に取っている女性を見ると、そんな少ししか食べないのであれば力が出ないと思ってしまう量しか取ってはいない。
 ヴァイオリンを弾くにもいつも気合いと体力が必要だとばかりに、香穂子はかなりの量を食べる。
 吉羅にヴァイオリンを弾いたご褒美に食事に連れて行って貰った時にも、いつも豪快に食べていた。
 だから、女性たちが食べる量の少なさが、香穂子には信じられないことだった。
 香穂子は沢山の料理を乗せた皿を持っていると、誰かがくすりと笑う声が聞こえた。
「気持ち良いぐらい食べますね。見ていて楽しい」
 顔を上げると、吉羅よりも少しばかり年下の男性が立っている。
 彼もセレブリティなのだろう。物腰が柔らかく洗練されている。
「大食いなんです。沢山食べると元気になりますから」
「私もたっぷり食べる女性は嫌いじゃないですよ」
 こちらがつられて笑ってしまいそうになるぐらいに、爽やかな笑みを浮かべてくる。
「…今日は、連れがいますか?」
「…い、一応、いるんですけれど…」
 香穂子は吉羅を視線で強く追うと、こちらを不機嫌そうに睨み付けてくる。
 あの雰囲気は、こちらに戻ってこいということなのだろう。
 香穂子は男を見ると、改めて笑みを浮かべる。
「ごめんなさい、連れが呼んでいるようですから」
「それは残念だね。君ともう少しだけ話をしたかっただけなんだ」
「お気持ちだけ頂いておきますね。有り難うございます」
 香穂子が吉羅をもう一度見てから、男に頭を下げた。
「…君の連れの男性って、ひょっとして、吉羅さんのことかな?」
「あ、そ、そうなんですけれど…」
「吉羅暁彦さんのね」
 男は、一瞬、吉羅を挑戦的に見た。
「後で話をしませんか?」
「あっ、あの都合が良ければ…」
「そう。待っているよ」
 香穂子は軽く男に会釈をすると、吉羅の元へと向かう。
 吉羅はかなり不機嫌極まりない表情をしていて、香穂子は緊張の余りに身を堅くした。
「私の前から離れないようにと言っている。無駄話は慎むように」
「……解りました」
 こんなにも冷たい吉羅を見たのは初めてかもしれない。
 香穂子はてっきり吉羅が自分の食事の料理が多いから、あきれているのだと思ってしまっていた。



Back Top Next