*ルージュな恋*


 吉羅に堂々とお姫様抱っこをされて、香穂子の鼓動は、激しいスポーツをしているかのように跳ねている。
 誰もが好奇な目で見ていると言うのに、吉羅は全く気にも止めていないようだった。
「…き、吉羅しゃん、みんな見ていましゅ!」
「構わない」
「れ、れもっ!」
 回らない呂律ながら、焦って呟く香穂子を尻目に、吉羅は平然としている。
「私が下ろしたら困るのは君だろう? ろくに歩けやしないんだからね」
 キッパリと言い切られてしまい、香穂子は言葉を返すことが出来ない。
 押し黙る香穂子に、吉羅は飽きれたように溜め息を吐いた。
 吉羅が連れていってくれたのは、パーティ会場のホテルの客室。
 大きなダブルベッドの上に寝かされて、香穂子は酔いとは明らかに違う鼓動の激しさを感じた。
「少し横になると良い。暫くじっとしていたら酔いは冷めるだろうからね」
 吉羅はベッドの前のソファに腰を下ろすと、溜め息を唇から吐き出す。
 厳しい吉羅の横顔に、香穂子は唇を噛んだ。
 今度こそは本当に嫌われてしまったのかもしれないと思う。
 これ以上吉羅に嫌われてしまったら、世界が暗くなってしまう。
「…理事長…、今夜は本当に申し訳ありませんでした。折角の代役だったのに…、全くお役に立てなくて…」
 香穂子がしょんぼりとしながら呟くと、吉羅は大きな溜め息をまた吐いた。
「別に私は怒ってはいない。だからそんな顔はしないで欲しい…。それに…、ここでは私を他人行儀に“理事長”だと、呼ぶのは止めてくれないかね? もう少しで良いから、硬くならずに、私にいつも以上に柔らかく接して貰えたら嬉しいが…。せめて、“吉羅さん”と呼んで貰えないかな?」
「…吉羅さん…」
「よく出来ました…、と、言っておこうかな」
 吉羅は薄く笑うと、香穂子の顔を覗きこむ。
「本当にごめんなさい…。いつも吉羅さんに迷惑ばかりを掛けてしまって…」
 香穂子は穴があったら入りたいと思いながら、吉羅から視線を外す。
「…怒ってはいないが、飽きれてはいる…」
「…やっぱり、そうですよね…」
 これだけ吉羅に迷惑をかけてしまったのだから、飽きれられるのは当然だろう。
 香穂子はまともに吉羅を見つめることが出来なくて、小さくなったままだった。
「そうだね。私はどうしようもないほどに飽きれているよ」
「…え…」
 香穂子が息を呑んだ瞬間、吉羅は力強く抱き締めてきた。
「…自分で自分を飽きれている…。君を自分の意志でここに連れて来たというのに、君をちゃんと不快なことから守ってあげられなかった…」
「…吉羅さん…」
 抱き締められると、こころが吉羅のこころに甘えるように寄り添うのを感じる。
 クラシカルで品があるコロンの香りが、香穂子のこころを甘く満たして行く。
 香穂子は男性のコロンは余り好きではなかったが、吉羅の香りだけは至上のもののように感じた。
 吉羅に抱き締められて、香穂子は幸せで泣きそうになる。
 ずっと夢見ていた。
 吉羅にこうして感情溢れる抱擁を受けることを。
 本当に幸せ過ぎて、泣きそうになった。
 香穂子は、おずおずと吉羅の背中に腕を伸ばして抱き締める。吉羅の背中は逞しくて、男性的だった。
「…私こそ…本当にごめんなさい…。吉羅さんに迷惑ばかりかけてしまいました…」
 熱い吐息と共に、アルコールが抜けていくのを感じながら、香穂子は吉羅に躰を寄せて行く。
「…迷惑だなんて思っていないから」
「だけど、吉羅さんはいつも怒ったような顔をしていたから…」
 香穂子が少しだけ声に切なさを滲ませると、吉羅は宥めるように背中を撫で付けてくれた。
 優しいリズムに躰が熱くなる。
 このままずっと抱き締められていたいと思う。
「君が私の想像以上に綺麗で魅力的だったから、自分を自嘲するために冷たくあたった。すまなかった」
「…謝らないで下さい。私だって上手く振る舞うことが出来なかったんですから…」
「君は優しいね」
 吉羅は香穂子の頬に両手を宛てると、顔を上に向けさせる。
「怖いことを教えてあげようか? 私は、君が気にするような“子供”だと、一度も思ったことはないよ。だから、あんなに冷たい態度を取り続けたんだよ…」
「吉羅さん…」
 熱く欲望に満ちたまなざしで見つめられると、躰の芯までもが潤んでくるのが解る。
「…香穂子…」
 愛しいように名前を呼ばれて、背中が震えた。
 呼吸が上手く出来ない程にときめいてしまい、香穂子は全身が潤んで熱くなる。
「…君が好きだ…」
 吉羅は切迫した掠れ声で囁くと、香穂子に深く唇を重ねた。
 甘くて熱い。そして全身が震えてしまう程の官能を感じる。
 吉羅の唇はしっとりと重ねられて、香穂子の唇を吸い上げた。
「…んっ…あっ…」
 甘い声が唇から漏れて、それを塞ぐように吉羅は更に深く重ねられてくる。
 舌が荒々しく入り込み、いつもの吉羅からは考えられないほどに乱暴な舌使いだった。
 香穂子の総てを奪うように、舌先で愛撫をしてくる。
 最初は慣れていなくて、香穂子は全くの受け身の状態であったが、吉羅のリードで少しずつではあるが慣れていく。
 香穂子の舌に舌を絡ませてくる動きに、ぎこちなく応えた。
 すると吉羅は舌の動きを更に激しくしてくる。
「…んっ、あっ…」
 唾液が零れ落ちてきて、何だか冷たい。吉羅は香穂子の唾液を追い掛けて舌先で舐めると、更に深く唇を重ねてきた。
 呼吸も総て吉羅に支配されているというのに、蕩けてしまうほどに気持ちが良い。苦しさも重なっているのに、止めて貰いたくなんてなかった。
 吉羅の歯が口角を甘く噛んだ。
 ピリッとした痛みなのに、背中がザワザワとしてしまうほどに気持ちが良い。
 泣ける程に心地が良くて、このまま全身が蕩けてしまってどうにかなるのではないかと思う程に、気持ちが良かった。
 キスだけでこんなにも気持ちが良いものなのだろうか。
 キスだけでこんなに溺れてしまえるのだろうか。
 いつしか香穂子は、ここが何処で、今は何時で、自分がどのような立場にいるのかさえも、忘れてしまっていた。
 ただ吉羅とキスをしている。
 その事実が頭のなかをぐるぐると回り続けるだけだ。
 もう快楽に引き摺り込まれてしまう。
 このまま意識が途切れてしまうのではないかと思ったところで、吉羅の唇は離れた。
「…香穂子…」
 頭がまだぼんやりとしている。
 愛しげに名前を呼ばれて、ほわほわとした幸せで、香穂子のこころは満たされた。
「…好きだ…」
 シンプルなのに想いが籠った言葉が、吉羅の唇から漏れた。
 吉羅は、香穂子に甘えるかのように躰をすりよせ、その肩に額を置く。
 こんなにも素直な感情をくれたのは初めてで、香穂子は少しくせのある吉羅の髪を緩やかに撫でた。
すっかり酔いはなくなった。
 アルコールが飛んだ代わりに、今度は吉羅に酔っ払ってしまう。
 キスをしたことで、もっともっと夢中になった
 キスをしたことで、もっともっと好きになってしまった。
「…私も、吉羅さんのことが好きです…。誰よりもずっと…」
 香穂子がうっとりとしながら呟くと、吉羅は香穂子を見つめてくれる。
「…綺麗だ、君は…。ルージュをつけた時も綺麗だったが、今はもっと艶やかで綺麗だ。これからは、このセクシィな唇も、綺麗な瞳も、私が独占させて貰うよ? 構わないね?」
「はい。だから私にも吉羅さんを独占させて下さい」
「分かった…」
 吉羅はフッと甘く微笑むと、香穂子を強く抱き締めてくれる。
 これ以上の幸せはないと、香穂子は思わずにはいられなかった。



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