前編
大好きなひとに、もし年に一度しか逢えないとしたら、こんなにも切ないことはないと思う。 ただですら多忙な恋人。同年代の恋人がいる友人とは違って、常に一緒にはいられないのが、時々、辛くなる。 ロマンティックな季節のイベントでなくとも、いつも側にいて欲しい。 職員用の駐車場に漆黒のフェラーリを見つけ、吉羅が学院に来ているのを知った。 最近、余り逢えない。 吉羅の仕事が忙しく、休みが取れないのが原因だ。 本当は寂しくてしょうがないが、わがままなんつ言えるはずもない。 ただでさえ疲労が蓄積された状態の吉羅を、困らせるわけにはいかなかった。 一緒にいたいという、ごく当たり前のことですらも、香穂子はきちんと口にするこてが出来なかった。 昼休み、ドキドキしながら応接室前に通りかかる。 秘密であって秘密でない恋。 秘めやかさと大胆さを合わせ持つ恋は、香穂子を常にドキドキとさせてくれる。 ひとめ逢いたい。 だが、堂々と応接室のドアを叩くことが出来ず、結局は通り過ぎるしかなかった。 カフェテリアに行き、友人たちと昼食を取っていると、不意に雰囲気が変わった。 何処か緊張感が漂い始める。 直ぐに吉羅がカフェテリアを隅に腰を掛けて、食事を始める姿が見られた。 側にいて、一緒に食事が出来れば良いのに。椅子に腰を掛けながらも、香穂子はそわそわとした気分に追いかけられていた。 「香穂、やっぱ理事長が来ると、雰囲気が重い緊張に包まれるよね。若くて、素敵なんだけれど、何か近 寄り難いっていうか。ファンは結構多いだろうけれど、何か、四六時中一緒にいると、きっと緊張し過ぎて、息が詰まりそうになるよね」 友人は何処か憧れと緊張を混じり合わせた溜め息を吐くと、吉羅を見つめた。 「そ、そんなことないと思うよ。つ、冷たそうに見えるけれど、ホントは凄く穏やかな優しさを持っているひとだよ…と、思う」 皆が知らない吉羅の姿を、勿論、香穂子はよく知っている。 優しく穏やかで艶の帯びた微笑みや、大人の男としてリードしてくれているところもあると思えば、どこか甘えたな部分もあったりもする。 大きな優しさを持った可愛いひねくれ男。 香穂子はそんな一面を思い出して、クスリと微笑んだ。 「…だけどさ、やっぱあんなに綺麗に整った顔をしていると、何だか、近寄り難いし、怖いよね。常に緊張しているのなんて私は嫌…」 友人はそこまで話したところで、急に黙り込んでしまった。 少し青ざめた顔色に、極度の緊張が感じられる。 「どうしたの?」 香穂子が小首を傾げて不思議がると、友人は視線で香穂子の斜め上をさした。 そこに視線を合わせて見ると、そこには吉羅暁彦の姿があった。 相変わらずのクールビューティぶりだ。 「日野君、先日伝えておいた、夏休みの音楽フェスティバルの件の詳細が書かれた書類だ。目を通しておくように」 「は、はい。有り難うございます」 吉羅から封筒を受け取ると、香穂子は立ち上がって頭を下げる。 緊張が走る。 オンとオフを完全に分けて考えている吉羅が、いつも凄いと思わずにはいられなかった。 吉羅は一瞬、甘いまなざしを香穂子に浮かべた後、カフェテリアから出て行く。 既に昼食を済ませていた。 「い、今、やっぱり睨まれたよねっ!」 「そんなことはないかと…」 「いや、睨んだよっ。変な緊張があるからなあ、あの理事長殿はっ! 何だか躰から力が抜けてきちゃった!」 どっと疲れてしまったのか、友人は大きな溜め息を吐く。 香穂子はその様子を微笑ましく思いながら、封筒をじっと見つめた。 吉羅が触れていたものだというだけで、どうしてこんなにも愛しくて堪らなくなるのだろうか。 友人たちは気を取り直して、七夕のデートについて話を弾ませている。 七夕デート。 とてもロマンティックではあるが、香穂子には実現出来そうにない。 きっとその夜も、吉羅は忙しくしているだろうから。 何だか甘くて切ない想いに、香穂子は泣きそうになった。 こうして自由にデートも出来ないなんて、切な過ぎる。 七夕の短冊への願いは、“暁彦さんといつも一緒にいられますように”に決定だと、香穂子は内心思っていた。 教室に戻り、吉羅から直接手渡された資料に目を通そうと、香穂子は封筒から取り出した。 「あ…?」 書類にはポストイットが張ってあり、吉羅の達筆で書かれていた。 香穂子へ。 午後から仕事に戻るので、ここに書いておきます。 七夕の日、久し振りに休みが取れたので、うちに遊びに来なさい。 11時に迎えに行く。 暁彦 香穂子の返事が“イエス”であることを前提に、有無言わせないように書かれているのが吉羅らしい。 指先で綺麗に書かれた文字をなぞりながら、幸せが零れ落ちて笑顔になる。 強引だけれども、一番欲しいものをさらりとくれるのが嬉しい。 七夕にお邪魔するのであれば、お土産は笹と七夕飾りセットが良いだろうか。 そんなことをぐるぐると考えるだけで、幸せ過ぎて顔がニヤけてきた。 七夕デート。 ロマンティックに違いない。 だが本当は、大好きなひとのそばにいられれば、いつでもどこでもロマンティックになれる。 香穂子は幸せ過ぎて、先ほどまでの切ない想いが吹き飛んでしまうのを感じていた。 七夕だから楽しく暁彦のそばにいたい。 香穂子は子供向けの七夕セットと笹の葉を購入し、夏らしい葛もちをお土産に持っていくことにした。 サマードレスを着て、髪をアップにして、綺麗にお洒落をした自分を見て貰いたいと、一生懸命準備をした。 メールでもうすぐ着くと連絡を貰い、家の前で待っていると華やかにフェラーリが停車した。 ドアが開いた瞬間、シンデレラにでもなったかのようなときめきが、香穂子のこころを包み込む。 幸せ過ぎて、踊ってしまいそうだ。 「行こうか」 「はい」 香穂子はヴァイオリンや七夕セットといった荷物を持って、バタバタと車に乗り込んで来る。 「凄い荷物だな」 「デートだから気合いを入れてみました」 吉羅がサングラスを掛けていたので、細かい表情までは解らなかったが、華やかに微笑んだのは間違ないようだった。 「今日はうちでゆっくりしようと思っているが、それで構わないか? 出掛けたいと言っても、近場だが」 「ゆっくりしましょう。折角の七夕ですから」 「…そうだな」 こうして一緒にいられれば充分。何もいらない。 車窓から爽やかな夏空を眺めながら、ベイブリッジを渡るのは、なんて贅沢なのだろうと思う。 香穂子は空と吉羅の横顔を交互に見つめながら、にこやかに微笑んだ。 なんてご機嫌な一日なのだろうかと思う。 「今日は晴れて良かったですね」 「そうだな。テラスでゆっくり出来る」 「それもありますが、やっぱり七夕様ですから、雨が降って逢えないのは可愛いそうですから」 「…ロマンティストだな」 吉羅はおかしそうに含み笑いを浮かべている。 「吉羅さんがリアリスト過ぎるんです」 「私はそんなにリアリストではないと、自分では思っているけれどね」 吉羅は期限がすこぶる良さそうに言うと、フッと甘い笑みを零した。 「ランチはパスタを用意しておいたから、食べよう。ミートソースで申し訳ないがね」 「吉羅さんが作ったんですか!?」 吉羅が料理をする姿なんて想像出来なくて、香穂子は思わず声を掛けたあげる。 「…私も料理ぐらいはするよ…」 照れ臭そうに言う吉羅に、香穂子は益々愛しく思う。 「楽しみです」 大人の男が作った料理は、どのように素晴らしいだろうか。香穂子は想像するだけでニッコリと微笑んだ。 |