後編
吉羅の自宅である高層マンションは、緑に囲まれていて、テラスに出ればとても心地よい。 「昼間の風景も気持ちが良いですね!」 緑の香りがする風にあたりながら、香穂子は思い切り伸びをする。 摩天楼のなかにある癒しの場所のようで、香穂子はのんびりと微笑んだ。 「…君はテラス席で座っていなさい。ランチは私が用意する」 「有り難うございます」 テラスチェアーに腰を掛けたものの、何だか落ち着かない。そわそわとキッチンを何度も見てしまう。 思い切って見に行こうとすると、吉羅がスパークリングウォーターを持ってきた。 「これでも飲んで待っててくれ。すぐ出来るから」 「はい」 見事なぐらいに行動を読まれてしまっている。香穂子は浮上ったお尻を、椅子につけた。 スパークリングウォーターを飲みながら、のんびりと緑が優しい摩天楼を見つめる。 まるで日本ではないように思えた。ニューヨーク、ロンドン、パリ…。洒落た恋愛が似合う街に紛れ込んだようだ。 暫くすると、鼻をくすぐるとっても良いミートソースの香りがして、香穂子の胃を刺激した。 程なく吉羅がやってきて、テラステーブルにミートソースのパスタやサラダを所狭しと並べてくれる。 特別なカフェのランチのようだ。 「有り難うございます! 凄く美味しそうです!」 「女性に食べて貰ったことはないから、どんな味になるかは解らないけれどね」 「だけどとっても美味しそうですよ」 香穂子は歌を歌うように言うと、ナプキンで手を拭いていただきますの仕草をした。 「何だか特別なプレゼントを頂いたみたいで、凄く嬉しいです」 「それは食べてから言いなさい」 吉羅はクリスチャンだからか軽く祈りを捧げる。 「いただきます」 香穂子は先ずパスタから口にする。少し大人な味のパスタは、まるで高級なイタリアンレストランで食べているように美味しかった。 サラダも本格的で、野菜の美味しさが引き立つドレッシングがかかっている。 本当に狡い。料理が上手い男というのはある意味反則だと思う。これで整った顔立ちをしていれば、女は男に溺れるしかない。 「本当に美味しいです! だけど少し悔しい」 香穂子が恨めしそうに言うと、吉羅は不思議そうに眉を上げた。 「どうして?」 「どうしても」 「訳が解らないな」 吉羅は苦笑いをしながら香穂子を見つめ、軽くスパークリングウォーターに口付ける。 些細な仕草なのに香穂子は心臓を鷲掴みにされるほどにドキリとする。 呼吸が上手くいかなくて、溜め息を吐いた。 「理由を教えてくれないのか?」 「それは秘密です」 本当は明確な理由なんてないかもしれない。 ただ悔しい。本当にそれだけなのだ。こんなにめろめろにさせられるなんて、何だか少し癪にさわった。 パスタもサラダも申し分なく美味しかったが、吉羅が用意をした量は半端ではなく、食べきられないほどだった。そこが男の料理といえばそうなのだが。 「もう食べないのか?」 「流石にこの量は食べきられないです」 「男の胃袋を基本に作ってしまったのがいけなかったみたいだね。女性はそんなに食べられるはずはないか。やはり…」 吉羅は苦笑いすると、余ったパスタを片付ける。 「夕食に何か利用するとしよう。パスタスープだとか、グラタンだとか…」 吉羅は食材をじっと眺めると、まるで主婦のようにメニューを考えていた。 「あ、後片付け、手伝います!」 「大丈夫だ。食器洗い乾燥機に任せれば良いから。君はゆっくりしていなさい」 「だけど…」 こんなにもありとあらゆることをやって貰って、香穂子は申し訳なくなる。落ち着かない気分になり、吉羅を見上げた。 「律義だな君は。遠慮はいらないんだ。後で、じゃあお返しを貰おうか」 「はい、それが良いです」 吉羅は華やかに微笑むと、キッチンへと入っていく。その姿を見つめながら、今日はなんて素敵なご褒美を貰ったのかと香穂子は思った。 吉羅が戻ってくると、イタリアンジェラートを出してくれた。 「本当に至れり尽くせりですね」 「今日は家でゆっくりとしたかったからね。これぐらいはしないと」 「疲れていないですか?」 香穂子は吉羅の体調が心配になり、少し泣きそうな気分になった。 大好きなひとが疲れ果てているのは、余り嬉しいことではないから。 「ジェラートを食べたら、私の願いを聴いてくれるか?」 「はい」 「膝枕をして欲しい。三十分ほど眠らせて貰いたいんだ」 膝枕の親密な響きに、香穂子は喉がからからになってしまうほどにドキドキしてしまう。 だが、大好きなひとを癒すためには何でもしてあげたかった。 「解りました」 「あのベンチで横になるから。子守歌代わりに“ジュ・トゥ・ヴ”を弾いて欲しい」 「…はい…」 デザートを楽しんだ後、香穂子はヴァイオリンを持ってベンチに腰を掛け、吉羅は膝を枕にして横になった。 「重かったらいつでも言って欲しい…」 「大丈夫ですから、ゆっくりと休んで下さいね」 「…ああ…」 吉羅はゆっくりと目を閉じると、唇に笑みを浮かべた。 目を閉じると、どこか少年のように見える。香穂子は吉羅の寝顔に穏やかな幸せを感じながら、口角を上げた。 ヴァイオリンを持つと、優しい音色でゆっくりと弾き始める。 ふたりにとって思い出の曲。ふたりにとってはこれほど相応しい曲はないと思う。 吉羅の笑みが穏やかで安らかになるのを感じながら、香穂子はエンドレスで柔らかくヴァイオリンを弾き続けた。 四時過ぎになり、香穂子はテラステーブルに、七夕セットを並べる。 「今日は折角の七夕様ですから、笹の葉を飾りましょう」 「こんなことをするのは、子供の頃以来だな…」 吉羅は遠い切なそうなまなざしを浮かべると、ノスタルジーに溢れた笑みを浮かべた。 「…姉さんとよく、短冊に願いを書いたな。懐かしい」 「吉羅さん」 吉羅の姉のことを想う度に、香穂子のこころは苦しくなる。どうしてこんなにも切なくなるのだろうと、いつも想う。 「君は何を願う?」 「…私は…、良いヴァイオリニストになれますように。それと…」 そこまで言ったところで香穂子は顔を赤くして、短冊を書くふりをした。 「それと?」 「先にヴァイオリンの願いを書かなくっちゃ」 香穂子が誤魔化すように言うと、吉羅は総てをお見通しだとばかりに微笑んだ。 香穂子は先ずは一枚短冊を笹に付け、その後に七夕飾りセットについている折紙の飾りをつけた。 「吉羅さんはどのような願いを書きますか? やっぱり“事業が上手くいくように”?」 「さあね」 含み笑いを浮かべて吉羅は誤魔化すと、香穂子に隠れてこそこそと短冊を書く。 香穂子もそれに倣って、こそこそと願い事を書き綴った。 「さてと、お互いに出来たところで、短冊を吊るして、テラスに飾りましょう」 「ああ」 香穂子も、吉羅も、お互いに見せないように飾る。 「私が飾ろう」 「お願いします」 吉羅は嬉しそうに笹を飾っている。その表情は何処か少年のようだった。 夕食もテラスで取ることになり、テーブルには、吉羅がデリバリーで頼んでくれた料理が並んだ。 お互いにスパークリングウォーターで乾杯をした後、心地よい夕風に吹かれた。 「気持ち良いですね。開放的でロマンティックで…」 「とても楽しい七夕だった。久し振りにな」 「私も楽しかったです。こんなに素敵な七夕は初めてかもしれません」 香穂子は吉羅の短冊の内容が気になってしまい、背伸びをして見ようとしたが届かない。 「狡いっ! 吉羅さんの願い事がこれだと解らないですっ」 「…同じ願い事だ。君と」 落ち着いた笑みとまなざしに、香穂子はときめきながらも口を尖らせる。 「見たのですか?」 「飾る特権だ。当然だろ?」 「…もうっ」 拗ねるふりをすると、そっと背後から吉羅に抱き締められる。 「…本当に同じ願い事だ…。私もずっと君と一緒にいたい…」 「吉羅さん」 強く抱き締められたかと思うと、そのまま唇を奪われる。 きっとふたりが同じ想いを重ねているのなら、願い事は叶うはず。 輝き始めた天の河がそう言ってくれているような気がした。 |