*逃避行*

前編


「そう! おめでとう! 凄いね! 良かったね!」
 なんて、引きつった笑顔で、やけに明るくお祝いしてあげることしか出来なかった。
 本当は泣きたかった。
 素直に「行かないで」と言いたかった。
 なのに、月森の顔を見ていると、それを言い出すことが出来なかった。
 涙が出過ぎておかしくなってしまいそうだ。
 明日、学校で逢ったらちゃんと挨拶をしなければと思いながらも、こんな目を腫らした状態ではきっと上手く行く筈もなくて。
 クッションを強く抱き締めながら、香穂子は涙を絞り出した。
 いっぱい涙を出したりすれば、気持ちは落ち着くと思っていたなんて。なんと単純に自分の恋心を考えていたことだろうか。
 実際にはかなり複雑で深いものだった。
 いつかは海外に行ってしまうとは分かっていた。
 いつかは手の届かない存在になってしまうと。
 だが、それはずっと後のことだと思っていたのだ。
 こんなに早く来るなんて思ってもみなかった。
 素直になりたかった。
 火原のように素直に“寂しい”と言いたかった。
 だが出来ない。
 それは恋人ではないから。
 香穂子と呼んで貰っているのに。
 …なのに、恋人同士じゃない。
 付き合っているわけでもない。ただ、休みの日にたまに一緒に練習をしたり、一緒に学校の行き帰りをしているだけ…。
 これなら小学生だってやっていること。
 “オトモダチ”の延長から抜け出せないでいる。
 泣きそうになりながらも、泣くことができなくて、香穂子は横にあるヴァイオリンをギュッと抱き締めた。
 月森蓮と繋がっている唯一の絆だ。
「…ヴァイオリン…、弾きたいなあ…」
 恋の表現の仕方なんて解らない。好きだと単純に言えるわけじゃない。
 なら出来ることと言えば、こうしてヴァイオリンを奏でるだけだ。音に自分の想いを重ねることしか出来ない。
 音楽を通してしか、月森に告白出来ない不器用な自分に、香穂子は泣きたくなった。
「…どうしたら良いのかな…。蓮くんのためには、行かないでなんて言えないもん…」
 鼻を啜りながら香穂子は、クッションをまた思い切り抱き締めた。

「ウィーンの学校から入学許可が下りたそうよ。良かったわね、蓮」
「はい、有り難うございます」
 喜んで良い筈なのに、こころは重苦しい。どうして良いか分らなくて、月森は困惑している。
 母親は嬉しそうに微笑んでいたが、蓮の様子に眉を寄せた。
「どうしたの? あなたらしくないわよ」
「何でもありません」
 いつもよりも更に硬い声で呟くと、月森はソファから立ち上がろうとした。
「ねぇ蓮、いつも通りの顔をしているけれど、…本当は、ウィーンに行くのを迷っているんじゃないの?」
 母親に真実を指摘されて、思わず息を呑んだ。
「…そんなことは…。それに音楽は俺にとっては最も大切なものです。何があったとしても、音楽が優先されます」
 硬い声で言うと、母親は切なそうに月森を見つめた。
「…蓮、あなたは自分では気付いていないかもしれないけれど、より音楽で自己表現ができるようになったわ。それはあのコンクールのお陰ね。だからこそ、良い影響を与える部分を切ってしまえば、あなたの音楽はまた硬いものに戻ってしまう…。だからこそ、大切にして欲しいの」
 母親は月森の手を取ると、優しいまなざしを向けた。
「一番幸せな結末を迎えられるのはあなたたち次第。何も捨てずに犠牲を払うことはないのよ」
 母親の言葉は、一言、一言に重みがあり、素直に受け入れる。
 恋か音楽----なんてことを二者択一する必要なんてないと。確かにどちらかを手に入れたいとすら思う。
「…そうですね」
「焦らなくて良いのよ。今すべての答えを出す必要はないから。ゆっくりと出せるはずよ。あなたの恋が本物であるなら、離れていても愛を貫くことが出来るでしょう。これは…、あくまで綺麗ごとなのかもしれないけれど、そこまで愛することが出来るならば、あなたにとって最高に成長させてくれる恋になるでしょう」
「…お母さん…」
「…だから、答えを焦らないで。焦ると本当に大切な者を喪ってしまうわ。今、あなたが出来るベストなことをなさい」
「有り難うございます」
 母親は頷き微笑んでくれる。勇気が沢山沸いて来る。
 香穂子を失わないためにも、音楽の夢を失わないためにも、今、出来る限りのことをしようと思う。
 後悔だけはしたくなかったから。

 その夜、月森は珍しく夢を見た。
 華やいだスポットライトの下で、ヴァイオリンを奏でている。ソリストとしての栄冠を勝ち得ているような舞台だった。
 だが、客席を見て、喜びは哀しみへと変化する。
 客席には香穂子がいる。その横には、土浦がいた。ふたりは仲睦まじく微笑んでいる。もう一度目を凝らすと、今度は火原が香穂子の横に座っている。
 見る度に違うパートナーが香穂子の横にいて、月森のこころは激しく揺れ動いた。
「香穂子…っ!」
 声を出して愛おしい者の名前を呼んだ瞬間、心臓が大きく鳴り響き、そのまま闇へと墜落していった。
 感覚が夢から現実へと引き戻された。
 目を閉じたまま、月森は夢であることに感謝しながら、じっとしていた。
 現実には有り得る光景だ。
 いつか香穂子が自分から離れて行き、他の男と結ばれてしまうかもしれない。
 離れていればそれだけのリスクと不安は付きまとってしまうのだ。
「…香穂子…」
 明るい笑顔や、素直で前向きな瞳を思い出すだけで、こころの奥が変に痛む。
 自分は香穂子以外の女性を愛さない自信はあるし、恐らく愛せないだろう。
 だが、香穂子はどうなのだろうか。離れて寂しく思わせている間に、もし他の誰かに恋をしてしまったとしたら…。
 果たして自分は音楽にまだしがみついていられるだろうか。
 月森は、嫌な汗をかいた額を拭いながら、深々と溜め息を吐いた。

 翌朝、いつものように香穂子を迎えに行った。
 いつもに比べると、香穂子がなかなか出て来ないような気がする。
 ようやく玄関ドアが開いたときには、とても嬉しかった。
 姿を表して香穂子は、ずっと俯いている。目がほんのりと腫れぼったくなっていた。
「…お、おはよう、月森くん…」
 何時もなら明るい挨拶をするというのに、今日に限っては目を合わせようともしない。
 まるで小さな子供のように、必死になって堪えようとしているのが解る。
「香穂子、行こうか」
「…うん、月森くん」
 このままだと香穂子は転んでしまうのではないかと思うぐらいに、歩みをおぼつかなくさせている。
 こころが痛い。
 香穂子を置いて行くという下した決断が、今更ながらに重くのしかかってきた。
「…そんな歩き方をしていたら転んでしまう」
 月森は香穂子の手をしっかりと取ると、ギュッと握り締めた。
 柔らかくて繊細な優しさが、温もりを通して感じられる。
 こうしてしっかりと手を繋ぐのは初めてだ。
 自分の鼓動も、香穂子の鼓動もとても速くて、併走しているマラソンランナーのようだ。
「有り難う、月森くん」
 香穂子は一生懸命笑みを浮かべようと必死になっているのが解る。
 意地らしくてこのまま抱き締めたくなった。
「…月森くん、ウィーンなんて凄いよね。なんか、コンクールの仲間がこうして世界に羽ばたいていくのを祝福しなくっちゃねっ! うん」
 わざと笑ってくれているのが解るからこそ、辛い。
「香穂子…」
「もう大丈夫だよ。ちゃんと歩けるから。手を放しても大丈夫だよ」
 香穂子の笑みに月森は堪らなくなる。
 香穂子の手を更に強く握り返すと、月森は学校とは反対方向に歩き出した。
「ちょ、つ、月森くんっ!」
「ふたりで何処かに行こう」
 優等生である月森の意外過ぎる言葉に、香穂子は目を見開いていた。





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