後編
優等生で、品行方正を絵に描いたような蓮が、まさかこんなことをするとは思えなかった。 手をしっかりと繋ぎ合わせたままで、お互いに無言を貫いている。 心臓がおかしくなるぐらいに、嫌な音を立てている。 駅まで来たところで、香穂子は蓮を見上げた。蓮を見る瞳に不安や心配が宿る。 「蓮くん…、いいの?」 「…香穂子、君は何も心配しなくて良いんだ」 「うん」 香穂子が小さく頷くと、蓮は握り締める手に更に力を込める。 「君は何も心配しなくて良いんだ。何があっても俺が守る」 「うん、有り難う」 蓮とふたりで切符を買い、繁華街へと向かうために電車に乗り込んだ。 緩やかに揺れる電車に乗っている間も、ずっと手を離さずにただ真っ直ぐと車窓を見つめる。 景色を見つめているのではなく、不透明な未来を見つめているような気がしていた。 電車を降り立ち、足が自然と向いたのはやはり楽器街だった。 ショーウィンドウに飾られているヴァイオリンを見つめては、つい微笑んでしまっていた。 「…俺たちは結局、音楽がらみが楽しいらしいな」 蓮は苦笑いを浮かべると、香穂子を見つめた。 「そうだね。やっぱり音楽で私たちは強く結び付いているんだなって思うよ」 「そうだな…」 蓮は優しい笑みを浮かべると、香穂子を引っ張りながら楽器店のなかに入っていった。 「何が見たい?」 「やっぱりヴァイオリンかな?」 やはりどんな苦しいことがあっても、ヴァイオリンが好きなのだ。音楽を愛して止まないのだ。何があっても…。 香穂子は今更ながらに音楽の素晴らしさを痛感する。 この音楽のお陰で、蓮に出会うことが出来た。初めてひとを好きになるということを実感することが出来た。 だからこそ、音楽と愛情を天秤になんてかけることなんて出来ない。 どちらも大切で掛け替えのない、何物とも比べることなど勿論出来ない、香穂子の大切な宝物なのだから。 だから言えない。 きっとこの世界で、蓮のことを最も理解をしているのは自分だということを、香穂子は誰よりも解っているから。 選べるはずのないものを選べだなんて、そんな傲慢な台詞を言えるはずもないし、強要出来るはずもないのだから。 「蓮くん、このヴァイオリン、とても良い音が出そうだよね。私もこういうヴァイオリンで、スカッと弾いてみたいな! きっと深みのある音が出るよね!」 香穂子がにっこりと笑いながら横にいる蓮を見つめると、優しい笑みを浮かべてくれた。 「君ならスカッとした音を奏でることが出来るだろう。綺麗な日の光に包まれた風の渡る草原のような音を」 「有り難う…。だけど、もっともっと練習しないとねっ!」 香穂子が屈託なく笑うと、不意に蓮が髪を優しく撫でてくれた。 「音楽科に転科する予定は?」 「今は大学で頑張って行きたいって思っているんだ。金澤先生は、3年生からの転科を勧めてくれているけれど、色々と考えたいんだ。音楽をずっとやっていくのは変わらないよ。だけど、より温かくて、広い音楽をやるには色々な経験も必要だって思うし、その辺りをじっくり考えたいんだ。生涯を左右する問題だからね」 香穂子は力強く頷きながら、決意を秘めたように握り拳を作る。 不意に蓮の視線を熱く感じた。香穂子の表情や横顔を、凝視している。そこにはどこか切なさが混じっていた。 「…あ、れ、蓮くんっ!」 誰が見ているか解らないというのに、蓮は香穂子をそっと抱き寄せる。 「…君はやっぱり俺にとっては得難い女性だ…。君をこのままウィーンに連れていってしまいたいとすら思っている。俺のそばにいてくれたらお互いの音楽はきっと高まるだろう…」 「うん、私も一緒に行きたいか。…だけど、無理だよ…。今は…」 「解っているっ…! そんなことはっ!」 蓮が抱き締めてくる腕に力が籠っている。 こんなにも苦しんでいる蓮を少しでも楽にしてあげたい。 笑顔で後味の良い気分でウィーンへと送り出してあげたい。 それが香穂子の今の小さな願いだった。 「蓮くん、昔の映画のように、想い出を作りに行こうか。この街で、私たちが出会った街で…」 香穂子は蓮に微笑むと、楽器店から連れ出した。 「ゲーセンのユーフォーキャッチャーしようよ! 蓮くん上手だから、縫いぐるみを取ってよ!」 「ああ」 制服姿でゲームセンターだなんて、きっと蓮には考えられないことだろう。だからこそ、沢山の想い出のひとつとして印象的なものを作ってみたかった。 「やった! やっぱり蓮くん上手だね!」 香穂子が欲しかった、可愛いたらこ人形を取ってもらい、上機嫌にギュッと抱き締めた。 蓮が取ってくれたものだから、一生大事にするだろう。 「いつも御守り代りに置いておくよ」 「そうだな」 こうして手を繋いでゲームセンターにいると、ごくふつうのありきたりな高校生の恋人同士に思える。 だが実際には、もうすぐ遠い距離を隔ててしまうふたりなのだ。 ゲームセンターを出た後、香穂子は大好きなアイスクリームパーラーへと入った。ここはフローズン状態のフルーツをその場でソフトクリームにしてくれる。 「俺は普通ので良いが、香穂子は?」 「ストロベリーかなあ」 「相変わらず甘いものが好きだな」 蓮が苦笑いする表情を、香穂子は思わず魅入ってしまう。 いつもクールな蓮が、こうして優しく微笑む表情が、香穂子は好きで好きで堪らなかった。 それがもうすぐ身近で見られなくなってしまう。 胸が痛い。 切ないぐらいに苦しい。 大好きなストロベリーアイスクリームを受け取ったあとも、香穂子の笑顔は冴えなかった。 手を繋いだままで、みなとみらいホールの前にさしかかった。 クラッシック専用ホールとして、最近オープンしたホールだ。 次回の上演予定として、ヴァイオリンのソリストのポスターが掲げられている。 そう遠くない未来に、蓮のポスターがここに掲げられるだろう。それは容易に想像が出来た。 そして今日も、結局は音楽にゆかりのある場所ばかりに来てしまっている。 自分が蓮に中途半端な状態でいられたくないのが、解る。 「…いつか、ソリストとしてここに映っているね、蓮くんは。そんなに時間は掛からないだろうけれど…。案外、ウィーンからの凱旋公演かもしれないね」 にっこりと笑った筈なのに、瞳の奥に熱いものが溢れ出てくる。どうしようもなくて、香穂子は誤魔化すように顔を上げた。 「香穂子…」 「ねえ、観覧車に乗ろうよ!」 香穂子は、切なそうにしている蓮の顔をまともに見ることが出来なくて、わざと躰を観覧車に向けた。 「…そうだな…」 蓮は静かに頷くと、香穂子を無言で観覧車に連れて行ってくれた。 観覧車に乗り込み、完全にふたりだけの空間になる。 手を握りあったままで、ふたりは向かい合って座った。 「ウィーンにも有名な観覧車があるよね」 「ああ。“第三の男”に出て来たやつだ」 「ウィーンだったらザッハトルテが美味しいんだよね。本場のチョコレートケーキ」 「ウィーンに来たら、食べに行くと良い。どちらも案内する」 「うん、そうだね、うん…」 笑おうとしたのに上手く笑えない。今までの切なさが一気に爆発をして、涙がこぼれ落ちた。 「香穂子…」 「ご、ごめん…っ」 「素直になれ、香穂子」 蓮の苦悩に満ちた声が聞こえたかと思うと、思い切り強く抱き締められた。 息が出来ない。 声も出せないぐらいにドキドキした。 「…君を日本に置いてウィーンに行く決断は変えない。…だが、不安じゃないかといわれたら、それは嘘だ。君が俺の側から離れて他のやつのものになったらどうしようだとか…、考えて眠れなかった…。なのに君は俺に笑顔でウィーンに行けと言う。正直、寂しくないんじゃないかって思った…」 「蓮くん…」 「だから君が泣き出した時は、正直、ホッとした…」 更に強く抱き締められて、香穂子のこころは甘く幸せな切なさでいっぱいになった。 「…本当は側にいて欲しいんだよ…。だけどね、音楽を志すものとしては、ウィーンに行って欲しいんだよ」 「香穂子…」 更に甘く強く抱き締められて、香穂子は甘えるように蓮の肩に顔を埋めた。 「必ずウィーンに行くから、留学はダメでも遊びには行くから…だから、待っていてね。観覧車に乗せて、ザッハトルテをご馳走してね」 「ああ、もちろん」 「毎日じゃなくても良いから、メールを下さい…。返事はわりとまめにするから」 「ああ」 「それから、それからね」 「もう…何も言うな…」 蓮は静かに呟くと、香穂子の唇を、独占欲を露わにしながら塞いだ。 「…んっ…!」 甘い旋律が背筋に緩やかに奏でられる。 心地好くて熱いキスに、香穂子はとろとろに蕩けていた。 唇が離されるころ、観覧車はゆっくりと下りて行く。 ながてドアが開けられた。 「お疲れ様でした」 係員に声を掛けられて、手を繋いだままで観覧車を降りた。 ふたりはまた歩き出す。 まるで遊び疲れた身体を引きずるかのように、ゆったりとふたりで家路につく。 夕焼けが瞳に眩しい。 「初めてだなサボったのは…」 「私もだよ…」 「だけどサボって良かったかもな」 蓮は柔らかく微笑むと、香穂子を真っ直ぐと見つめた。 「…今はメールもあるから、遠くないさ、ウィーンなんて」 「そうだね。うん、そうだね」 きっとふたりの想う力が、距離を縮めてくれる。 香穂子はほんの少し、成長したような気がした。 |