*名前*


 小松がゆきの世界に来てくれた。

 それだけでゆきは本当に嬉しい。

 この世界で、更にお互いの恋を育むことが出来るのだ。それが本当に幸せだと、ゆきは思わずにはいられない。

 毎日、逢えるわけではないけれど、それでも同じ世界にいられると言うことが、ゆきには幸せだ。

 こうして、デートの約束だって、することが出来るのだ。

 ゆきは、ほんのりとお化粧とお洒落をして、小松との待ち合わせ場所に向かう。

 スキップをしてしまうぐらいに楽しいが、小松は大人だから、そんなことを良しとはしないだろう。

 だからこそ、こうして落ち着いた女性のふりをしてみるのだ。

 かなり背伸びをして。

 それは小松も気付いているだろうと、ゆきは思った。

 待ち合わせ場所に、小松の車がやって来る。

 すっかりこの世界に馴染んでしまっている。ゆきにとっては嬉しくもある。

 小松は、元の世界と同じように切れ者ぶりを発揮していた。

 すっかり敏腕経営者になり、能力さえあれば、それ以外のことは、全く問わない採用方法で、業績を上げている。

 小松の活躍はかなり嬉しいが、ゆきは益々、小松との差が開くような気がして、切なくもある。

 複雑な気持ちだ。

 小松の車がゆきの前に停まり、ドアが開く。

「ゆき、お待たせしたね」

 小松は車から降り立つと、ゆきに艶やかな大人の微笑みを浮かべた。

「こんにちは、小松さん」

 ゆきが笑顔で挨拶をすると、小松は何処か不機嫌な表情になる。

「さ、車に乗って。おしおきはこれからだよ」

「お、お仕置き!?」

 どうしてお仕置きをされるのかが、ゆきには分からなくて、目を丸くする。

 何か悪いことでもしたのかと、不安になった。

 苦しくて切ない気持ちを抱きながら、車に乗り込むと、小松にいきなり抱き締められてしまった。

「え、あ、あの……」

「君はどうして、いつまで経っても私を苗字読みをするの?ね、どうして?そろそろ名前で呼ばないと、後、後、困ったことになるよ?」

 クスリと甘く笑うと、小松はゆきに顔を近付けてくる。くらくらになるぐらいに、小松の笑みは素敵で、ゆきはドキドキし過ぎて、心臓が壊れてしまうのではないかと思ってしまう。

「ゆき。お仕置き……」

 小松は唇を近付けてくると、ゆきの唇を深い角度で奪ってきた。

 甘くて激しい情熱的なキスに、ゆきはこのまま蕩けてしまうのを感じる。

 何度も激しいキスをされて、ゆきはどんどん頭の中が、ぼんやりとしてきた。

 唇が離れた後、小松は耳元に唇を近づけてきた。

「……お仕置きはおしまいだよ。ゆき、私を呼ぶとき、そろそろ名前で呼びなさい?」

「……は、恥ずかしくて……」

 ゆきは顔を真っ赤にさせながら俯いてしまう。

「恥ずかしい……?だけど、君が後から困るだけだよ?」

「後から……?」

 ゆきは、何のことか解らずに、目を丸くしながら、小松を見た。

「……君、分からないの?」

「はい」

「本当に?」

「本当に」

 ゆきはしっかりと頷くと、小松を真剣に見た。

 すると小松は呆れるとばかりに、溜め息を吐いた。

「君ね……、君もいずれは、いや、早いうちに、“小松”になるんでしょ?だったら、いつまでも私を苗字で呼ぶのはおかしいでしょ?」

 小松は淡々と、まるで小さな子供に言い聞かせるように呟く。

「……あ……」

 いつかそうなればと、何となく思ってはいたが、それが現実になれば、これ以上のことはないのだ。

 ゆきにとっては、恥ずかしいけれども、とても嬉しい言葉だった。

「……分かった?」

 小松に諭すように言われて、ゆきは静かに頷いた。

「そう……。君は良い子だ……」

 小松は満足したように言うと、ゆきに顔を更に近づけてきた。

 近すぎてドキドキする。

 ゆきは、心臓がいくつあっても足りないと思う。

「だったら、私を名前で呼びなさい。さ、言ってご覧?」

 小松は、ゆきを服従させるように、甘くて艶のある笑みを浮かべてきた。

「ほら、 早く……」 

 小松に低い声で甘く囁かれると、それだけで、更に鼓動が激しくなってくる。

 小松の息が耳朶にかかる。

 ゆきは背筋が甘く震えるのを感じた。

 それがまた不快な感覚ではないから、始末に終えない。

 ゆきは、緊張し過ぎて、喉から心臓が飛び出てしまうかもしれないと思ってしまう。

「……ほら、ゆき。言えないと、本当に君が困ってしまうんだけれど?」

 小松はからかうように言い、何処か楽しんでいるようにも見える。

 いや、確実に楽しんでいるのだろう。   

「……ほら、言えないの?」

 小松にどんどん追い詰められてしまう。追い詰められると、更に恥ずかしくなり、鼓動が激しくなった。

「ゆき、ほら」

「……帯刀……さん……」

 小さい声でないと、名前を呼ぶことが出来ない。そう思ってしまうぐらいに、ドキドキしてしまう。

「……聞こえないよ。もう一回」

 小松は明らかに聞こえているというのに、こうしてわざと言ってくる。

 小松の声を聞きながら、ゆきは恥ずかしさでどうしようもなくなる。

 だが、呼ばないと、許してはくれないだろう。

 ゆきは浅く深呼吸をしながら、小松の名前を呼ぶ。

「……帯刀さん……」

 もう一度、名前を呼ぶと、小松は満足したように笑顔になる。

「まあ、物足りないけれど、ギリギリ及第点だということだね……」

「……ご、合格?」

「ギリギリね」 

 小松はクスリと笑うと、ゆきの鼻の頭にキスをした。

「これからは、ちゃんと私を名前で呼ぶこと……。良いね」

「……はい」

 ゆきが素直に返事をすると、小松はわざとあやすように抱き締めてくれる。

「……そう。君は良い子だ……」

 小松は低い声で艶やかに呟くと、ゆきの耳元に唇をもって行く。

「……もし、苗字で呼んだら、分かっているね?お仕置き……、だよ?」

 小松の意地悪な言葉にも、ゆきは甘い幸せを感じる。

 失敗しても大丈夫。

 甘いお仕置きなら、いくらでも……。

 ゆきははにかむような笑みを浮かべながら、そっと心の中で囁いた。



マエ