前編
激務をこなしながら、八葉の務めを果たしてくれているのだから、これ以上わがままなんて言える筈がない。 まして、「ただ一緒にいて欲しい」だなんて、言える筈もない。 最近は、職務が忙しいと、余りゆきのところには顔を出してくれない。 薩摩藩という大きな藩の家老だから、忙しいのは解っている。 だが、ほんの少しでも良いから一緒にいて欲しいと思ってしまう。 恋をすれば、ついわがままになってしまう。 たまの休みだから、逢いたいと思っていても、小松が来る様子はない。 ゆきはひとりで宿屋の片隅でふらふらしていた。 小松に逢いたい。 京屋敷に行けば逢えるだろうが、押しかけていけば、また迷惑をかけてしまう。 また切なくなる。 一方的に自分だけが恋をしている。そんな気がする。 よく鈍感だとか言われてしまうけれど、人を好きになる気持ちはよく解るつもりだ。 恋をしているからだ。 今日はやはり休んでいたほうが良いのだろうか。 そんなことを思っていると、機敏な足音が聞こえた。 「ゆき君、いる? 入るよ」 小松の声が聞こえて、ゆきが返事をする暇などない間に中に入ってきた。 「どうしたの? 物忌みだなんて時代遅れも甚だしいよ」 物忌みとはどういうことだろうか。ゆきが小首を傾げて小松を見つめていると、いきなり手を掴まれてしまった。 「ちょっと君に用があってね、一緒に来てくれる?」 口調は丁寧なのに、何処か焦っているような気すらする。 「さあ、行くよ」 小松はゆきの返事も聞かないままで、そのまま手を引いて、外へと連れ出す。 「こ、小松さん、何処に行くんですか!?」 「私の京屋敷だよ。着いて来て」 思い掛けずに小松に逢うことが出来たのは嬉しいが、いきなり屋敷へと連れ出されるとは思ってもみなかった。 「薩長同盟のことで何かあったんですかっ!?」 「そうじゃないよ。私が個人的に困っている。君に助けて貰いたいんだよ」 小松は本当に困っているとばかりに、深々と溜め息を零している。 「何にお困りなんですか? 私が出来ることならば、協力しますが……」 「ああ。君に協力して貰いたいんだよ」 「解りました。何を協力すれば」 ゆきが小松に答えを請うように見つめると、一瞬、睨まれたような気がした。 「来れば解るよ。とにかく君以外に協力をして貰うのが嫌なの」 小松は真剣なまなざしで言うのに、目の周りがほんのりと真っ赤になっていた。 いったい、小松が何を求めているのかが分からなくて、ゆきはただ小首を傾げることしか出来なかった。 小松の屋敷までは、籠で連れていかれる。 いつもならば辰巳屋からは徒歩で行くのに、今日は騒ぎになってはいけないからと、籠だった。 籠に揺られると、小松邸は直ぐだった。 籠から降ろされると、そのまま屋敷の中に連れていかれる。 「小松さん、まさか陽炎だとかではないですよね」 「陽炎は出てはいないよ。だけど、宰相に陽炎を出されてしまうことぐらいはやっていると思っているけれどね。まさにそれは今だね」 「同盟に関することですか?」 「そうじゃないって、さっき言ったでしょ」 小松はクールに言うと、ゆきを部屋に通した。 そこには立派な反物で仕立てられた豪華な紅い振袖が飾ってある。 成人式の時にこんな着物を着たいと思ってしまうぐらいに綺麗で立派だ。 ゆきはついうっとりと、見つめてしまう。それぐらいに麗しい。 部屋の中にいる女性が、恭しく小松にかしつく。 「彼女にこの着物を着せて欲しいんだ」 「ご家老様、畏まりました」 女性は直ぐにゆきの傍らに来るとにっこりと笑ってくれる。 いったい何が起こるか分からなくて、ゆきは不安になりながら、小松を見上げた。 「その着物を着て貰うことが君にして貰いたいこと」 「わ、解りました」 まさかこんなに綺麗な着物を着られるなんて思ってもいなかった。 「私は忙しいから急ぐよ。君、頼んだよ」 「はい、かしこまりました」 小松は何のフォローをすることもなく、さっさと部屋から出て行った。 「さて、綺麗にしましょうか? ご家老様からのご要望ですから」 女性ににっこりと笑われると、ゆきもまた微笑み返すことしか出来ない。 そのまま成すがままになっていた。 先ずは着物を丁寧に着付けられる。着物をこんなにもきちんと着付けられる経験は、ゆきにはなくて、ドキドキしながら袖を通した。 やはり美しい着物に袖を通すのは、嬉しくてしょうがないことだった。 女性はテキパキと手先を器用にうごかしていて、ゆきを短時間で着付けてしまった。 「まあ! なんてお似合いなんでしょうか! お化粧をするのが本当に楽しみですよ!」 女性は嬉しそうにゆきを見つめてくれている。 温かなまなざしで見つめられると、ゆきはそれ以上は言えなかった。 「後はきれいにお化粧をしましょうね」 「あ、は、はいっ」 化粧なんて殆どしたかったことなんてなかったせいか、ゆきはドキドキしながら化粧をして貰う。 口紅もおしろいも、総て見慣れないものばかりではあるが、それでもとても綺麗だ。 女性はゆきの伸び始めたばかりの髪を丁寧かつ手早く纏めてくれる。 本当に慣れた手つきだ。 「お姫様のお支度もこうしてさせて頂いていたんですよ」 しみじみと言いながらも、女性は何処か嬉しそうだった。 女性は何度もゆきを見て頷きながら確認をすると、そっと手を取る。 「さあ、お嬢様、こちらで確認されて下さいね」 「はい」 手を引かれて鏡台の前に立つ。すると、美しい着物で着飾られた自分がいて、ゆきは驚いてしまった。 思わず惚けた顔をして、鏡台を見つめてしまう。 「お綺麗ですよ。これならご家老様もご満足されますよ」 女性の言葉にゆきは益々恥ずかしくなってしまう。 これほどまでに華麗な和装をしたことがなかったから、ゆきは嬉しいときめきが胸を満たすのを感じた。 「ではお姫様、ご家老様がお待ちですよ」 「はい」 ずっと大人で、女性にもモテる、冷たくて優しいひと。 そのひとが気に入ってくれるだろうか。 ゆきはドキドキしながら、小松が待つ場所へと向かう。 喉がからからになるぐらいに緊張する中、ゆきは小松の待つ部屋へと通された。 島原や吉原の美しい女性を見慣れているかも知れない、大好きなひと。 ゆきは自分がどうしてこんなにも子どもなのだろうかと、泣きそうになった。 「ご家老、お姫様をお連れ致しました」 「入って」 いつもよりも硬くて鋭い声に、ゆきは構えながら、ゆっくりと部屋に入った。 小松がゆっくりとこちらを振り向く。 その仕草の優雅さに、ゆきはドキリとしてしまう。 どうしてこんなにもドキドキしてしまうのだろうか。 頬を真っ赤にさせながら、ゆきは小松の視線を受ける。 こんな格好をさせられたのは、全くの気紛れなのだろうか。 小松なら有り得ることだ。 「有り難う、下がって良いよ」 小松の一言に、一緒に来てくれた女性が下がってしまう。 二人きりにされてしまうなんて、心臓の準備が上手く出来ていない。 しかも小松の様子を見ると、ゆきをクールなまなざしでずっと見つめている。 何だかくすぐったくて恥ずかしくなって、ゆきは強く目を瞑ってしまった。 「ゆき、君には私と一緒に来て貰いたいところがあるから、着いてきて」 言うなり小松はゆきの手を取る。 握り締められた手の力は強かった。 |