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序 その文箱を見たとき、買わなければならないと、ゆきは思った。どうしても買わなければならないと。 その文箱は、ゆきが京都に旅行に行った時、ふらりと入った、祇園の路地にある骨董屋で見かけたものだった。 今思えば、骨董屋自体が不思議な雰囲気に包まれていたのかもしれない。 まるで神秘の塊のようで、その店の周りだけは、時の流れとは別に存在しているような、そんな雰囲気だった。 骨董屋に入った時も、吸い寄せられたような、そんな気持ちになっていた。 ほこり臭いアンティークな香りと、どこか謎めいたロマンスが秘めているような、店の佇まいだった。 そこで、あの文箱を見つけたのだ。 艶のある細工がされたとても美しい文箱にもかかわらず、ゆきの小遣いで買える程度の値段で売られていた。 しっかりしている造りであったし、しかも塗りも何重もされていて、かなりの一品であるのは、素人目で見ても解った。だが、破格の金額だった。 思わず手に取ると、直ぐに会計をして、ゆきは抱きしめて、ホテルまで持って帰った。 つい走ってホテルまで向かったのは、誰にもその文箱を渡したくはないと、本能で思っていたからかもしれない。 文箱を持っているだけで、妙に興奮してしまう。 デザインが美しいのと、どこか重厚感があったから惹かれたのだと、その時は思っていた。 本当に掘り出しものだったと、ほくほくした気持ちで、文箱を持ち帰った。 学校のプリントなどを入れるのに、とても良さそうだったし、何よりも部屋に飾ると雰囲気が良さそうなのも、気にいった。 実用とインテリアが兼ねられる、とても良いものを買ったと、思っていた。 その夜は、両親や、瞬、祟に、どれほどこの文箱が素晴らしいか、ゆきは語って聞かせた。 そんなに良いものがある骨董屋ならばと、家族も全員が興味を引かれて、翌日、骨董屋に立ち寄ることになった。 京都は道路が碁盤の目でとても解りやすいはずなのに、骨董屋は見つからなかった。 いま思えば、ゆきと文箱を引き合わせる為にあった骨董屋ではなかったかと、ロマンティックにも考えてしまう始末だ。 東京に帰るまでの新幹線の中でも、ゆきは後生大事に文箱を抱えていた。 家に戻った後、ゆきは、文箱を大切に自室へと運んだ。 文箱を開けると、ゆきは隅々までよく観察をする。すると、下敷きの板が僅かにずれていることに、ゆきは気付いた。 何か隠しめいた香りがする。隠されたものには、ロマンを感じるのは、老若男女誰でもだ。 アンティークにロマンスを求めて気持ちを高鳴らせ上がら、ゆきは文箱を逆さにしてみた。 「え……?」 下板がかすかに動き、ゆきは瞳を大きく見開く。ひょっとして期待するようなロマンスが発見出来るかもしれない。 ゆきはカタカタと音を立てながら、文箱を何度も振ってみた。すると、下板が明らかに浮きあがっているのに気付いた。 この下には何かがある。ゆきはそう確信をすると、浮きあがった下板を慎重に外すことにした。 器用な瞬を呼ぼうとも思ったが、ここは踏みとどまって自分でやることにした。瞬を呼んではいけないような気がしたのだ。 父親の精密ドライバーを借りてきて、ゆきは下板を外しにかかった。 慎重に、かつ静かに外す。緊張のあまり指先に変な力が入ってしまい、上手くいかない。しかも、ついつい息を止めてしまうものだから、本当にばかげていると、ゆきは思わずにはいられなかった。 「……もうちょっと、もうちょっと」 つい目を細めて、顔をしかめながら、外してゆく。顔の表情なんて全く関係がないのに、つい、つい、そうしてしまう。 壊さないように慎重に外してゆく。相手はとても古いだろう文箱だから、扱いもつい慎重になってしまう。 ゆきはゆっくり、ゆっくり、板を外した。 下板は綺麗に外れて、ゆきは達成感に思わず笑顔になった。嬉しさの余りに精密ドライバーを投げそうになり、慌てて思いとどまる。 「お父さんのだから、こんなことをしたら、ダメダメ」 ゆきが下板を外すと、そこには、黄ばんだ半紙が出てきた。かなり時間が経っているのか、触るとごわごわとしていて、今すぐにでもバラバラになってしまいそうなぐらいに、脆いものだった。 また、慎重にならざるをえない。 ゆきが、ゆっくりと半紙を取り出してみると、そこには、とても几帳面で美しく、どこかしっかりとした文字が書かれていた。 男性の手によるものだということは、なんとなく解った。墨で書かれた字は、今書かれたかのように、瑞々しい。 龍神の神子殿 小松清廉帯刀 「龍神の神子……?」 聞いたことのない言葉に、神職をしている女性への恋文だろうかとゆきは思った。 恋文ならば、読むのは憚られてしまう。だが、好奇心が勝って、読みたくなってしまう。 こんなものを見つけるなんて、ロマンティックなんだろうかと、思わずにはいられない。 この文箱には、どのような甘いロマンスが詰まっているのだろうか。まるで、恋愛小説を読むような高揚感に、ゆきは期待せずにはいられなかった。 龍神の神子と呼ばれた女性と、この小松帯刀という男性とは、どのようなロマンスがあったのだろうか。 小松帯刀 その名前をどこかで聞いたことがあったような気がした。ひょっとすると、歴史上の人物かもしれない。それならば、もっとドラマティックな発見になるかもしれない。流石は京都の骨董屋にあった文箱だと思いながら、ゆきは、半紙を開いてみることにした。 そこには、達筆で書かれた文字が、優雅にそして力強く流れるように存在していた。 龍神の神子殿 君をこのように呼ぶのは、本意ではない。君のことは名前で呼びたい。だが、時空を隔ててしまった今となっては、それも虚しいだけだ。 君に今すぐ逢いたいと願っても、それはもう届かない。 今、命を終えようとしている間際で、先ず君のことを考えてしまう。新しき国造りのことでもなく、薩摩の未来でもなく、藩士たちの未来でもなく。ただ、君のことだけ。 命の終わりに思ったのは、君のことだけだ。 御維新が成った暁には、静かに身を引くつもりだったから、政には、些かの未練もない。 この先は、若い、志が高いものが進めれば良い。 私のような役職の者が出張る時代ではもうない。 なのに君についてだけは、未練がましくなる。 君は、今、どうしているのだろうか。 私は君が幸せであれば構わない。それは心からの気持ちだ。 君は、この国の行く末を救ってくれたのだから。 それ以上のことを望めない。だから、私は君から離れた。こうなった以上は、これで良かったのだと思っている。 私はよく生きた。生き急いだと言っても、良いのかもしれない。 もう、なんの恨みも後悔もないのに、今、死の床に着いて、ひとつだけ後悔していることがある。 君に、愛していると、言えなかったこと。 だから、私は、この文に、自分の気持ちを記す。願わくば、この文が君に届くことを期待する。この文箱に忍ばせれば、不思議な君はいつか見つけて、気付いてくれるかもしれない。 その時は、どうか私を思い出してほしい。 君を永遠に愛している。 明治参年 文月 大坂医学校病院 小松清廉帯刀。 綺麗な文字ではあったが、何分、書かれてからはかなりの月日が経っていることや、まるで古文読んでいるような崩し方で、読み下すのに苦労した。だが、読み取ると、とても素敵な恋文だった。 手紙を読みながら、ゆきは切なくなってしまい、瞳から大粒の涙を溢した。 こんなにも切ない手紙は他にはない。 この手紙を、“龍神の神子”殿に届けたい。強く思ってしまう。だが、 日付を見ると、とうに百を超えているだろう龍神の神子には、この手紙を届けるのは不可能だろう。恐らく、彼が恋をした”龍神の神子”は、既に亡くなっているだろうから。 本人には届けてあげられない。それがとても可愛そうだった。 せめて、この文を、龍神の神子の仏前か墓前に飾りたいと、ゆきは思った。 |