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覚えていたのは、自分の名前だけだった。 蓮水ゆき。 これ以外のことは、一切覚えてはいない。 ぼんやりと、明らかに自分の世界とは違う場所に紛れ込んでしまったことは解った。 何かがクラッシュをした。 それだけは解っている。 それに乗っていた自分も。 だが、それ以外は、何も分からない。 気を失っているところを料亭のようなところで保護をされて、女将の好意で下働きをしている。 舞妓や芸妓になるには、もう遅すぎると言われて、下働きの道しかなかった。 これからどうすれば良いのか。 それは分からない。 だが、時折、弱々しいが温かな鈴の音が聞こえて、ゆきに力を与えてくれた。 『八葉を探して、神子』 どうしてそのような声が聞こえたのかは、分からない。 だが、それはとても弱々しくて、ゆきはどのような意味かが、分からなかった。 それよりも、どのような意味を持つか、なんて、考えることはなかった。 ゆきは、ひたすら、働く。 下働きだから、あくまででしゃばることなく、静かに働く。 今は働くことしか、出来ない。 ゆきは、自分が何者か分からないままで、ただ下働きをしていた。
「ゆき、今日のお客はんは、大変高貴な身分の方々やから、粗相はせんようにね」 「はい、女将はん」 高貴な人。だが、ゆきは、自分には全く関係のない世界のひとだと思った。 ただ、いつも通りにすれば良い。 ゆきは、ひたすら一所懸命働くことにした。 祇園に華やかな灯りがともる頃、高貴な筋のお客様方が入ってきた。 この世界は、『見ざる、言わざる、聞かざる』だ。 ゆきは、どのような場面でも、それを徹底させる。 ここで働いていると、この世界の動きや、しきたりや振る舞いが良く解り、知識として蓄積される。 それは、自分にとって良いものであることが、解っている。 ゆきは、少しでもここで吸収して、それを今後に活かせると確認していた。 ゆきは、宴会場の準備を終えて、狭い、狭い階段を降りる。 「お客様がお見えになりましたよ」 声が聞こえて、ゆきは慌てて階段の隅に身を寄せた。 お客様の顔は決して見ない。 ゆきはうつむきながら、静かに階段を降りる。 ふわり。 誰かが横切り、とても艶やかで、良い匂いがした。ドキドキするのと同時に、安心する香りだ。 その香りに誘われて、 ゆきは、一瞬、顔を上げてしまった。 すると、艶やかな耀く緑の髪の、精緻なまでに整った美貌を持つ男と、目があってしまった。 お客様と目をあわせてはならない。 それは、この小さな世界では鉄則だと言うのに、ゆきは破ってしまった。 だが、男は、ゆきに咎めるような眼差しを向けることはなく、ただ、眼差しを幾分か柔らかくした。 ゆきは、慌てて、仕事に戻る。 恥ずかしさとばつの悪さを抱えながら、ゆきは慌てて仕事に戻った。柔らかな男の眼差しに心臓がバウンドしてしまった。 今日は、男の席の下働きをすることになっているというのに、これでは上手く働けない。 ゆきは緊張しながら、失敗しないように、気持ちを引き締めた。 一目、見たときに、魂が揺さぶられるような気がした。 ただの下働きの娘だ。 舞妓でも、芸妓でもない。 ただ、皿を下げたりするためにいるだけだ。 なのに、心から惹かれる。 これほどまでに、誰かに惹かれたことは、いまだかつてなかった。 それ故に、小松は、どうして良いのやらと思う。 姿だけで、これほどまでに、惹かれるなんて、何か意味があるのだろうかと、思わずにはいられなかった。 気を引き締めなければならないのは解っている。 小松清廉帯刀として、薩摩藩の家老として、何かにうつつを抜かしている暇など、ないというのに。 なのに、強く惹かれる。 今や、あの下働きの娘のこと以外は、何も考えられなくなっている。 今日の会合は、情報収集をするのには、うってつけだというのに。 なるべく話を聞いて、様々な戦略に役立てたい。 あくまで薩摩をまとめあげ、薩摩藩の組織力をもって、新しい世界の一翼を担いたいと思っている。 そのためには、女にうつつを抜かしている暇など、全くないのだ。 あくまで、女は、情報を得るためのひとつの道具に過ぎないと、小松は冷徹に考えていた。 今までは。 だが、今は、今だけは、下働きの娘に、一瞬で、心を奪われている。 小松は、どうしてなのかが、分からなくて、困惑するしかなかった。 遠くで鈴の音が聞こえる。 最近、頻繁になり始めた。 だが、今夜は明らかに強い。 それがどうしてなのか、小松には分からなかった。 ゆきは、ひたすら働く。 あの艶やかでとても良い香りがする、魅力的な男性のことは、なるべく考えないようにした。 だが、余りにも魅力的で、ゆきは意識から完全に追い出してしまうことが出来なかった。 こんなことではいけない。 それは解っているのに、上手くイメージを追い出すことが出来ない。 ゆきは切ない苦しみを感じる。それは、黒い苦しみではないから、余計に苦労してしまう。ピンクの優しい光を持った苦しみだった。 そのような苦しみは、ゆきは経験したことのないことだ。 ゆきは、少しでも忘れようとしたが、徒労に終わるような気がしていた。 ひたすら、ただ男のことを考えずに、ゆきは下働きに徹する。 自分はあくまで下働きなのだ。 舞妓や芸妓のように、華やいだ姿も、振る舞いも出来ない。 ゆきは目立たないように、隅っこで、ひたすら下働きに専念する。本当にそれ以外は出来ない。 ひたすら俯く。 男を視界に入れてしまったら、意識しすぎて、働くことすら出来なくなるだろうと感じていたからだ。 ただひたすら働く。 男たちが何を話していても、『見ざる、言わざる、聞かざる』だ。 ゆきは何も聞いていない、見ていないふりをして、手早く片付けをする。 下働きの者は、空気のような存在でなければならない。ゆきは、それを肝に銘じて、仕事をした。 意識してはならない。 特にあの美貌の高貴な武士は。 どこの誰かは解らないが、ゆきはそれだけを思って、職務に勤しんだ。 話を聞きながら、下働きの娘にばかりに目がいく。 本当に空気のように、働いている。中々、聡い娘なのかもしれないと、小松は本能で思った。 欲しい、あの娘が。 そばに置きたいと、常に思う。 小松は、下働きの娘を、京屋敷に住まわせるために、根回しをすべきだと感じた。 こんなに誰かを心から欲したことはないし、惹かれたたこともなかった。 そもそも、何かに執着しようと、思ったこともない。 いつも自分を律し、殿より拝命した名前の通り、無私に、清廉に生きようと心がけてきた。 だが、今回だけは違う。 小松は熱病にでも冒された気分だった。 |