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「私が、お見送りを?」 「ええ。あの席にいらした高貴な筋のお客様の願いでね」 女将に伝えられて、ゆきは驚いてしまった。 不快だと怒られるのだろうか。斬られてしまったらと、一瞬、考えてしまう。 だが、直ぐにそれはないと思い直せた。 それがどうしてかは解らないが、とにかく、そう思えた。 「ゆき、粗相がないように」 「はい」 ゆきもそれだけは肝に銘じていた。 玄関先で、提灯を点けて、ゆきはお見送りをする。 「おおきに。またお越しやす」 見よう見まねで挨拶をし、ゆきが頭を深々と下げて見送ると、ふと男が歩みを止める。 とても艶のある香りがしたので、直ぐに先ほどの男だというのが解った。 「顔を上げなさい」 透明な雪解け水のような清潔な声に導かれるように、ゆきは顔を上げた。 男と目が合う。 なんて冷たい美貌を持つ男なのだろうかと思う。ゆきは、魂が奪われるように見つめた。 「あなた、名前は?」 「ゆきです」 「ゆき、くん、ね。また、来させて貰うことにするよ」 男はそれだけを言うと、静かに料亭を出る。 ゆきはその背中を見送りながら、幻だと思わずにはいられなかった。 美しい幻影に。 それが、ゆきと小松の邂逅だった。 数日後、ゆきはお茶屋の女将に呼び出された。 てっきり、今日の仕事について呼び出されたと思った。 「ゆき、湯あみをして、今からお姉さんにお化粧してもらいなはれ。今夜は御座敷に上がって貰うさかい」 「え? お座敷ですか?私……舞いも出来ないですし、どう振る舞ったら良いか、分からないですし……」 ゆきはいきなりの言い渡しに、困惑するしかなかった。 「それでもええ。とにかく、早よう、湯あみして、仕度しなはれ」 「はい」 ゆきは何が起こっているのかが、全く分からなくて、困惑を取ることが出来なかった。 早い時間にお風呂に入れて貰えるなんて思わなかった。 ゆきは、湯あみをしながら、溜め息を溢す。 これから自分はどうなってしまうのだろうか。 そればかりを気にしてしまう。 ふと鈴の音が聞こえる。 このまま、先に進むようにと、囁かれているような気になる。 気持ちが緩やかに落ち着いてきた。 このまま、先に進んで大丈夫だと、鈴の音が教えてくれているような気がした。 湯あみの後、ゆきは、舞妓と同じ化粧をされ、立派な美しい着物を着る。 髪は結うには短いので、かつらを使った。 まるで人形のように綺麗に飾り立てられる。 「お座敷に上がったら、何もせんでええから。ただ、そこにいたらええ」 「はい……」 そんなことを望む客がいるのだろうか。ゆきは、そんなことを考えながら、女将を見上げた。 「今日は下働きは何もせんでええから。ただ、旦那はんについておけば、ええから」 「はい」 本当に、何をしなければならないのか、ゆきは益々困惑せずにはいられなくなる。何をするも、分からない。 直ぐに帳は下りて、“旦那はん”が来る時間になってしまった。 ゆきは緊張の余りに身体が固くなる。 「ほんま、あんさんは、もう少し小さい頃にうちにきとったら、さぞかしええ舞妓、芸妓になったやろうになあ……。そこまできれいやとは、あの旦那はんに見初められるだけはあるわ」 女将は、ゆきを見つめながら、溜め息を吐いた。 「あんさんが、舞妓やないことは、旦那はんもご存知やから、安心しなはれ。けれど、このお茶屋を、これからも贔屓してくれはる方やからね」 「はい」 下働きの者が、“旦那はん”が到着したことを伝えてくる。 「……さあ。行くえ、ゆき」 「はい」 ゆきは、女将に連れられて、静かに部屋に向かう。 「さあ、ここどす。三つ指ついて、ゆきでございますと、ご挨拶すればええから」 「はい」 ゆきは緊張し過ぎてしまい、ドキドキして喉がカラカラになってしまう。ドキドキし過ぎて、どうしようもなくなる。 「……ゆき、でございます」 ゆきは震える声で言うと、静かに障子戸が開かれる。顔を上げると、そこにはあの男が座っていた。 「中に入って、ゆきくん。畏まらなくて良いから」 「はい」 ゆきは恐縮しながら部屋に入った。 部屋には、男しかいない。 この間のように大勢いるわけではない。 「緊張しているようだね」 男はクスリと笑いながら、ゆきを見つめた。 「ゆきくん、もう少し近づいて」 「はい」 ゆきはぎこちなく男に近づいた。 「私の名前は、小松清廉帯刀。あなたを水揚げし、身請けしたいと考えている。……あなたは、舞妓ではないから、正確に言うと、そういうことにはならないけれど、あなたは置屋にいるからね。その規則は従う」 小松は淡々と事実のみをゆきに伝えてくる。 小松が何を言っているのか、ゆきは明確には分からなかった。 意味が分からなくて、ゆきがきょとんとしていると、小松は呆れるように溜め息を吐いた。 「ゆきくん、意味が分からないの?」 小松の言葉に、ゆきは素直に頷いた。 すると、小松は困惑したような顔をする。 綺麗な容姿をしているから、困ったような表情も魅力的だ。 「……分からないです……。私……、自分の名前以外に記憶がないので……、聞いたことはあるかもしれないですが、今は、分かりません」 ゆきは、誤魔化すことは止めて、素直に自分の状況を伝えた。 「……記憶がない……。なるほど……。だから、女将は、“拾った子”と言ったのか……」 小松はひとりごちると、納得したようだった。 「ゆきくん、水揚げというのは、君が私の指名を優先的に受けるということ。私が君と懇意になるということ。身請けは、文字どおり、君がお茶屋から出て、舞妓を辞めて、私に保護されること。私だけのものになるということ。島原ほどあからさまではないけれど、祇園にもあるからね」 小松は遠回しには言わず、キッパリしていた。婉曲ではあるが、とても分かりやすかった。 要は目の前の小松清廉帯刀に抱かれるということなのだ。 ゆきはすぐに理解し、身体を震わせた。 嫌と言うよりは、未知のことへの恐怖が先立っていた。 暫くは、小松を見つめることしか出来ない。 怜悧な眼差し。その奥に優しい温もりが宿っていると、ゆきは感じずにはいられない。 冷静さと優しさを併せ持ったひとだと、直感する。 ゆきは本能で感じる。 このひとは、大丈夫だと。 このひとに、ついて行けば、大丈夫だと。 |