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春と言われても、ゆきには全く実感が湧かない。それもそのはずで、外を歩くだけで身震いしてしまうからだ。 ゆきは、身震いをしながら、小松の会社に向かった。 耳が痛いぐらいに寒い。 早く、小松の会社に到着すれば良いのにと、ついつい考えてしまう。 通いなれた道程ではあるが、寒いといつもよりもかなり長く感じられた。 長い、長い、道程。 ふと、途中でどこか、温かな場所に立ち寄りたいとすら思った。 少しでも良いから、身体を温めたかった。 ここで温まれば、気分はかなり良くなる。 ゆきは、目に入った花屋にふらりと立ち寄ることにした。 花屋の中は、立春に相応しく、まるで春がそこだけ先んじてやってきたように思える。 それぐらいに、春を感じられた。 ふと、梅の花を見つける。 そんな季節なのだ。 ゆきは、可憐に咲く梅の花を見つめながら、心が清んでゆくのを感じる。 清流のような清らかさに、ゆきは甘い感情を抱かずにはいられなかった。 小松が梅の花を見たら、優しい清らかな気持ちになってくれるだろうか。 春の訪れを感じてくれるだろうか。 今日は、折角の立春なのだから、ふたりで一足早い春を感じるのにはふさわしい日だろう。 ゆきは、梅の花を買い求める。 小松と春を先取り出来るなんて、なんて素敵なのだろうかと、ゆきは思う。 素敵な時間になる。 そう確信した。 梅の花を持っていると、不思議と足取りが軽くなる。先程まで長いと思っていた道程がとても短く感じる。 先程と同じ寒さにも関わらずである。 やはり、ほっこりと温かな気持ちになっているからかもしれない。 気持ちが暖かいだけで、こんなにも感じる温かさが違うのだと思うと、ゆきは不思議でならなかった。 歩いている途中に、また、春を告げる店を見つけた。 和菓子屋には、桜餅の文字が踊っている。 春だと、ゆきはつい誘われて、中に入る。 小松にこの話をしたら、『花より団子』と言われるかもしれない。 ゆきは、焼かないタイプの道明寺粉を使った、京風の桜餅を探す。 小松はそちらのほうが好きなのだ。 ゆきはどちらも好きだが、今回は小松に春を届けたいから、京風の桜餅が良かった。 店には、京風の桜餅があり、ゆきはそれを買い求めることにした。 その横には、梅風味のアレンジがされたお茶が置いてあった。 こちらも春の足音を感じるものだ。 立春のお茶にはぴったりだと思った。 ゆきは、少しも迷うことはなく、春のお菓子である桜餅とお茶を買い求める。 今日はいつもよりも春を感じられる。 これ以上ないほどに楽しいのは、確かだった。 更に、春を持って、ゆきは小松の会社に向かう。 小松の会社に到着すると、直ぐに部屋へと通して貰った。 小松の仕事部屋である、CEO室にノックをして入る。 小松は、相変わらず熱心に仕事をしていた。 「ゆき、少しかかるから、待っていて」 「はい」 小松が仕事をしている間、梅の花を活ければ良い。 仕事で忙しい小松に、少しでも心に温かさが生まれたら、ゆきはそれで嬉しい。 小松とふたりで、一緒に春を感じられたら、それで良いと思った。 ゆきは梅の花を活けたあと、買ってきたお茶と桜餅を準備する。 小松に楽しんで貰いたい。 ただそれだけだ。 ゆきは準備が終わると、梅の花を花瓶に活け、桜餅とお茶を持って行く。 これだけを見ていると、今が一番寒い時期で、二月であることを忘れてしまう。 一月は先行しているのではないかと、ゆきは思う。 CEO室だけは、一足早く三月になっていた。 ゆきが、小松の横にそっと、桜餅とお茶を置く。すると小松は、フッと顔をあげた。 「君が来たときに、春を背負っているように見えたのは、こういうことだったんだね」 小松はフッと笑うと、ゆきを見つめた。 「君が春をつれてきてくれたということかな?」 小松はとっておきの甘い表情をゆきに向ける。 小松の表情こそ、ゆきには眩しい春だった。 温かな素晴らしい春だ。 小松が、ゆきの常春の君なのだ。 ゆきはしみじみとそれを感じ、ついにっこりと微笑んだ。 「仕事はこれぐらいで切り上げるよ。春が来たのに、仕事をし続けるなんて、不粋でしょ?」 小松は粋に微笑むと、素早く仕事を片付けてしまう。 「帯刀さん、仕事を途中で止めてしまって、大丈夫なのですか!?」 ゆきは、多忙な小松の仕事を邪魔してしまったのではないかと思い、つい焦った。 だが、小松はクールに微笑むと、ゆきの唇に艶やかに人差し指を置いた。 「そんなことは考えないの。仕事は、一足早く進んだよ。君との約束が人参になってね。だから、そんなには気にしないように」 「……はい」 小松は気にしないようにと言ってくれてはいるが、何だか心配になる。 心配性ではないが、小松がからむとついつい心配してしまうのだ。 「さあ、春を堪能してから、冬を堪能しなければならないからね。春をふたりで感じよう」 「有り難うございます」 ゆきは、小松の笑顔に、ようやくホッと笑顔を向ける。 やはり、小松はゆきにとっては、温かな春の日差しそのものなのだ。 お茶を飲んで、桜餅を食べる。 それだけでとっておきの幸せを感じる。 ゆきにとっては、最高に素敵な幸せだ。 春が来た。 重いコートを脱ぎ捨てて、外に飛び出してしまいたくなるほどの、軽やかな春だ。 「ゆき、春を運んできてくれて有り難う。すっかり春の気分になったよ。君のお陰だよ。どうも有り難う」 小松の言葉が嬉しくて、ゆきの心にも温かな春が訪れた。 小松は、梅に視線を向ける。 「梅か……。目でも春だね」 小松は、梅を愛しそうに見つめたあと、ゆきをじっと見つめる。 「ゆき、ここは春だからね。春になったら、君にして欲しいことがあったんだけれど、一足先にかまわないかな?」 小松の言葉に、ゆきは何か分からずにただ頷いた。 すると、小松はゆきの手を取り、来客用のソファに移動する。 「端に座って、ゆき」 「はい」 ソファに座らされたかと思うと、小松はいきなりゆきの膝を枕にして、ソファに寝転がった。 「……!!!」 ゆきは、突然すぎる驚きと、恥ずかしさで目を丸くする。 「少し寝かせて。春と言えば、膝枕でしょ?」 小松はくすりと笑うと、そのまま目を閉じる。 ゆきは、恥ずかしくも、春よりも温かな気持ちになる。 一足早く、春がやってきました。
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