掛け違えたボタン


 突然、将臣に腕を持たれて、望美は訝しげに顔を見た。
 どうして今更こんなことをするのだろうか。腕を持たれて睨まれる覚えなど、望美にはないのに。
「どうしたの? 将臣くん」
 望美は動揺を隠しながら、将臣を見る。笑顔ではいられなかったことは、確かだ。
「お前、最近、ダイビングに来ないな?」
 困ることを突かれて、望美は胸に傷みが走った。
 行かない理由は、将臣と彼女が一緒のところを見たくないだけなのだ。
 だがそんなことは言えない。
「…望美、どうしてだよ?」
「あ、あのね、あんなことがあった後だから、ちょっと微妙に怖くって…。慣れていくのがいいとは思うんだけれど、何だかその気にはなれなくて…」
 望美は言葉を選びながらも、無難な理由を言った。
「そうかよ…。スキンダイビング、嫌いになるなよ?」
「うん、有り難う」
 望美はしっかりと頷くのとは裏腹に、将臣から視線を外す。それが、今のふたりの微妙な関係を表していた。
「また来いよ。コーチしてやる」
「みんなに迷惑かけちゃうよ。将臣くんには余計に」
「また、ふたりだけでやればいいじゃねぇか」
 将臣の思わぬ言葉に、望美は目を見開く。マンツーマンが出来ないと言ったのは、将臣自身なのに。
 どういう風の吹き回しだろうか。
「…大丈夫だよ。将臣くん、気をつかってくれて、有り難うね。優先しなければならないことを、先ずはしなくちゃダメだよ」
 望美が秋の空みたいな笑顔を浮かべると、将臣は余計に厳しい顔になった。
「先輩! 今日は図書館で勉強の日ですよ!」
 将臣と望美の緊張感を撃ち破るように、譲の声が響き渡った。
 焦るような色を湛えている。
「今、行くよ!」
 譲に返事をした後、望美は眉を寄せた。
「ごめん、行かなきゃ」
 席から立ち上がろうとして、将臣に強く腕を取られて、行けなくさせられる。
「ま、将臣くん!」
 焦る望美にお構いなしとばかりに将臣は立ち上がると、二人分の鞄を持ち、望美を引っ張っていく。
 入口にいる譲の横を擦り抜ける。
「望美を借りるから」
「兄さん…! 先輩と俺は今から図書館で勉強するんだ! 勝手なことをするな!」
 非難めいた弟の視線と言葉はこの際無視して、将臣は望美を連れ去る。
「俺の用事は勉強よりも、大切なんだよ!」
 勝手過ぎると思ったのか、弟は将臣にキツイ睨みを利かせるが、そんなものははねのけてしまう。
「ちょっ。どうするのよっ!」
 兄弟の険悪な雰囲気を心配するよりも、望美は、今、自分が置かれた状況の深刻さに眉根を寄せる。
「いいから、来いよ」
「そんなこと、言われてもっ」
 こんなに自分を求める将臣を見ると、望美は切なくなる。諦めきられなくなるではないか。
 将臣に腕を取られたままで、七里が浜に連れて行かれた。
「ちょっと何なのよ、将臣くんっ!」
 将臣は望美の腕を離すと、睨むような目付きで、真剣に見つめてきた。
「…お前…、譲と付き合ってるのか?」
 凶器のような視線の鋭さとは裏腹に、将臣の声はとても柔らかい。そのギャップに、望美は驚く。
「付き合ってはいないよ。どうして?」
「…そうか」
 将臣はホッとしたように息をつくと、望美を切なそうに見つめてきた。
 こんな表情を見せ付けられたら、折角、諦めようとしていた想いが、また頭をもたげてくる。
 恋心が増してしまうではないか。
 泣きそうな気分で、望美は改めて将臣への想いが、消せないものであることを悟った。
 好きなひとに笑顔でいてもらいたくて、一歩引いた”幼なじみ”として見ようとしていたのに、将臣はそれすらもひっくり返してしまう。
「…またダイビングしようぜ? あ、怖いんだったら、一から教えてやる」
 いつもより饒舌な雰囲気で将臣は言う。望美には反論させない雰囲気だった。
「…うん、有り難う」
 望美は複雑な気分で困ったように笑った。
「だけど将臣くん…、余り時間がないんでしょ? だったら無理しなくても大丈夫だよ。将臣くんが一番したいことを優先してくれて大丈夫だしね。卒業するには、最後に溺れちゃって落第だけれど、だけど大丈夫だよ。今は怖くても、自分でまた慣れていけばいいし…」
 望美はしどろもどろになりながらも、一生懸命、将臣に言う。するとどこか不機嫌な幼なじみが出てきた。
「一度溺れた前科のあるヤツは、ひとりど練習をさせるわけにはいかねぇんだよ」
 将臣はどすの利いた低い声で、望美の反論を直ぐに止めてしまう。
「だけど、みんなと合流したって足手まといになるだけだし、それに将臣くんに迷惑や負担が沢山かかるよ? ひとりじゃ潜れないんだったらさ」
 望美は本当の理由を巧みに隠しながら、淡々と話した。
 本当の理由。
 それは将臣と彼女が一緒にいるところを、これ以上見たくはなかったから。
「迷惑じゃねぇ。お前が俺の傍にいて世話をしてくれたらそれでいいんだよ。ギブアンドテイクだよ」
「…それは私の役目じゃな…」
 最後まで言おうとして、言葉を取られたのに気付いた。
 唇を塞がれてしまっている。
 背筋に電流が走り、躰から飛び出してしまうのではないかと思うぐらいに、心臓の鼓動がスプリンターみたいに走っている。
 唇を離されても、まだ目を見開いて硬直したままの望美に、将臣は苦笑した。
「いらねぇこと言うからじゃねぇかよ…」
「…だけど…、本当だわ」
「いいんだよ、お前に傍にいて欲しいって、言ってるんだよっ、こっちは!」
 半ばキレたように言う将臣を、望美は唖然として見るだけだ。
 いったい何が起こっているかすらも。望美には解らなかった。
「サポートぐらい彼女に…」
「またいらねぇことを言った」
 将臣は再び唇を塞いでくる。
 望美は抵抗することもなく、キスを受け入れてしまっていた。
「…望美、サポートはお前じゃねぇと、ダメなんだよ。調子が出ねぇ…。ここんところ、からきしだったんだからな…」
 将臣が困ったような優しい表情を浮かべている。
「彼女にサポートしてもらったらダメなの?」
「アイツはダメだ。俺のリズム解ってねぇし、先ずは自分優先だからな」
「…幼なじみは…都合の良い女じゃないよ…」
 泣きたくなるのを堪えながら、望美は正直に自分の気持ちを吐露する。
「解ってる。お前は”都合の良い女”なんかじゃねぇさ。……今更だよな。アイツと一緒にいて、お前の良さが解ったなんて…。近過ぎて解らなかったなんてな…」
 将臣はフッと切なげな笑みを浮かべる。こんな表情を見たのは初めてで、望美は息を呑んだ。
「…将臣くん…」
「アイツと別れたから、お前に戻って来いって、今よりもっと良い関係になろうって言っても、無理な話だよな」
 将臣は寂しそうに言う。
 望美は心臓が止まってしまうかと思うぐらいに、ドキリとした。
 まさか。
 まさか。
「…将臣くん、それって告っているつもり?」
 探るように猫撫で声できいてみる。
「…そのつもりだったら?」
 将臣は静かに、確実に望美に近付いてくる。
 気配を感じながら、望美は穏やかに微笑んだ。
「だったら嬉しいなって……!」
 そこまで言ったところで、将臣に背後から抱きしめられる。
「好きだぜ…、望美」
 いざとなって欲しかった言葉を聞かされると、涙が自然と出てしまう。
 嬉しいくせに泣けるのは何故だろう。
「…私だってずっと好きだったよ…」
 望美は心を込めて呟く。今までで一番澄んだ声に思える。
「サンキュな。付き合ってくれるか? 幼なじみとしてじゃなく、男と女として…」
「うん…。嬉しいよ。だけどひとつだけお願いがあるんだよ…。それをしなきゃ、付き合えない」
 キッパリと言い切る声には、どこか華やぎがある。
「何だよ、望美」
 将臣は望美の華奢な躰を抱きこみながら、離さないようにして呟く。
「…ファーストキスのやり直しをして欲しい…」
 望美ははにかむように言うと、将臣の手を強く握りしめる。
「誰かとしたのかよ!?」
 途端に将臣は独占欲丸だしで、嫉妬を平気で出してくる。
 その動揺ぶりが望美は嬉しい。
「将臣くん…だよ。あの人工呼吸…」
 途端に将臣の雰囲気は晴れ渡る。
「オッケ。キスぐらいいくらでもしてやる」
「普通のキスじゃないよ。ファーストキスだよ。甘いキスだよ。想い出に残るね…」
「ああ」
 将臣は望美から離れると、改めて向き直ってくれる。
 将臣は少し緊張した面持ちで、望美の顎を持ち上げた。
「…好きだぜ…、望美」
「私も大好きだよ…」
 目を閉じると、将臣の影が重なる。次の瞬間、堅くて冷たい唇が重なった。
 最初は触れるだけの、初々しいものだったが、舌が入りこんで深いものになってくる。
 将臣の舌が口腔内を愛して、望美に知らなかった世界を見せてくれる。
 深いキスに夢中になって、いつしか呼吸すらも忘れていた。
 ようやく唇が離れても、まだ名残おしくて、ふたりはバードキスを繰り返す。
「好きだぜ」
 顔を見合わせて笑うと、ふたりはしっかりと抱き合った。
 両想い。
 それは神様がくれた奇跡のプレゼントだった。
 
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