恋の砂時計

2


「兄さん、先輩はあまり遅くなっていないだろ? そんな顔で怒るな」
 譲は明らかに将臣を威嚇するように言う。将臣はいつものおおらかさはなく、ただ冷酷な眼差しを向けている。まるで還内府が還ってきたみたいだ。
「…バスボム買ってきたんだ…。電車のなかで譲くんに逢ったんだよ」
「最近は物騒だからな、今は譲がいたから良かったものの、ひとりで暗い夜道を歩くな」
 まるで叱責する兄か親のようだ。望美は小さくうなだれる。
「…うん、気をつけるよ…」
「帰るぞ」
 将臣が一歩先を歩き、その後を望美と譲が続く。
 とぼとぼ歩いているのは、まるで闘いに敗れて、失意のどん底に突き落とされてしまった気分になった。
 家までたどり着くと、ふたりのおさななじみは、望美が家のなかに入るまで、ちゃんと見守ってくれている。
「ふたりとも有り難う。また明日ね」
「ああ。これから遅くなる日は、俺がバイトのねぇ日にしろ。解ったな」
 まるで噛み含めて言われている気分になり、望美は少しだけしゃくに障った。
 返事もせずに背中を向けるのが、せめてもの抵抗。
 家に入ると、無性に駆け出したい気分になるぐらいに苛々して、部屋まで駆け抜けた。
 部屋に入り込むと、ようやく自分のテリトリーになったような気がして、肩から力が抜けた。
 窓を開けて、空に張り付いた脳天気なまでに丸い満月を見上げる。
 何だか泣けて来た。

 翌日の放課後も、あの子はやってきた。またきらきらを躰に纏わらせて、今度は堂々としている。
 彼女に自信を持たせるだけの何かが、きっとあったのだろう。そう思うだけで、じりじりと灼けつく想いを感じた。
「有川くん、一緒に帰ろう!」
 将臣がクールな瞳でこちらを伺ってくる。
 将臣の視線が痛く、女の子の媚びた声に苛々し、望美は自分ではどうすることも出来ないいらつきに、どうなかなりそうだと思った。
「将臣くん、帰りなよ。私は図書室で勉強して帰るし。これでも受験生だからね」
 望美は鞄を持って立ち上がると、将臣と女の子の横を駆け抜ける。
 きらきらが憎らしい。きっと自信が持てる何かがあったのに違いないと、望美は思わずにはいられなかった。
 ひとり図書室に行き、やる気もないのに参考書を机に広げる。志望大学は将臣と同じところにしたから、勉強はしっかりとしなければならない。
 だが、最近思う。
 将臣と同じ大学に行ったところで、自分がただの幼なじみであることを、かえって見せ付けられてしまうのではないかと危惧する。
「本当は、”ただの幼なじみ”が私たちの関係なのかもしれないな…」
 そう思うと、余りに冷たい関係に感じて涙が零れた。
 視界が滲んで、参考書に書かれた文字が上手く読めない。これでは勉強にならないだろう。
 望美は潔く諦めて参考書を直すと、気分転換に海に出ることにした。
 譲を待って一緒に帰るのなら、将臣は怒らないだろう。だがそれでは、譲を利用をしているような気分になり、胸が痛んだ。

 海岸に出て、ただっぴろい海を眺めれば、自分がいかに小さな存在かを感じさせられる。
 譲を利用するなんてもっての他だ。自分への好意を頼るなんて、最低の女がすることだろうと思った。
 海を見ながら、望美は無心になった。嫉妬がさらさらと零れ落ちる。
「こんなところにいたのかよ? 図書室で勉強するんじゃなかったのか?」
 非難するような雰囲気はまるでなく、むしろからかうような声が背後から聞こえて来た。
 大好きでいつまでも聞いていたい、低く響く声。
 ひょっとして隣にあの子がいるかもしれない。それを思うと、望美は上手く振り向くことが出来ずにいた。
「受験勉強には、気分転換が必要だから」
「それにしては気分転換が多くねぇか?」
 苦笑する声には、きらきらしたあの子の甲高い声は聞こえてこない。
 ひょっとしてひとりなのかもしれない。
 恐る恐る振り返ると、将臣がひとりでぶっきらぼうに立っていた。
「あの子と一緒に帰らなかったの?」
「ああ、駅でばいばいだ。俺も真面目に図書室で勉強しなくちゃならなかったからな」
 将臣はまるで遠い日に忘れ物をした少年のような顔をする。あどけなさとおとなびたところが同居し、望美の心を大きく掻き乱していく。
「将臣くんは勉強あんまりしなくても要領が良いから…」
「だからこうやって息抜きにきた」
 横にぴったりと並ばれて、望美はどぎまぎする。生まれてからずっと、よくよく見られた光景であったのに、何故か今日は、心臓が駆け出してしまうかと思うぐらいに、鼓動が跳ね上がる。
 こんなに背は高かった? 鞭のようなしなやかさと、誰かを護ることが出来るかのよいな頑健さが、バランスを取れた躰をしていた? こんなに心を騒がせるような大人の甘い香を、躰から発していた?
 今までどうして気付かなかったのだろうと思ってしまうほどの、艶を帯びた将臣のイメージが、怒涛のように脳裏に張り付いて来た。
 こんなに男だというのを、望美は今更ながらに気付いてしまった。もっと別の意味で、将臣を意識して、好きになる。
 ドキドキする余りに睫毛が小刻みに揺れて、望美は甘い痛みに心を焦がす。
 あまりにもあまりにも好き過ぎて何も言えなかった。
「…まさか、譲を待っているとかはねぇだろうな…」
 声が威嚇をして、真っ直ぐと望美の心を突いてくる。痛いはずなのに、この気持ち良さは何なのだろうかと、望美は思わずにはいられない。
「違うよ。確かに暗くなったら…、譲くんと帰るのもありだとは思ったけれど…」
 ポツリと本音を言えば、いきなり将臣に手を掴まれてしまった。
「お前には俺がいるだろ? 俺と一緒に帰れば良い」
 手首を握る将臣の手が、信じられないぐらいに強い。息を呑んでしまいそうだ。
 こんなに追い詰めないで欲しい。
「…だって…」
 うるうると涙が滲んで来て、将臣の顔をまともに見ることが出来ない。
「…だって…何だよ…?」
「…私は、ふたりで帰りたいんだよ。誰かと一緒だと嫌なの…」
 きっと軽蔑される。びくびくしていると、大きな手を肩に置かれた。
「だったらふたりきりで帰ったらいいんだな?」
「…うん」
 顔が見られない。
「そのかわり条件がある」
 将臣は、普段は見ることが出来ないような神妙な顔をして、望美を見つめてくる。真摯さとどこか照れが感じられた。
「俺はもうお前以外の女と帰らねぇ。だからお前も、俺以外の男と一緒に帰るな。たとえ譲でも駄目だ」
 怒っているのか、照れているのか。その顔がかなり魅力的で、望美の心を掴んで離さない。
「解った。将臣くん以外とは一緒に帰らない」
 覚悟をするほどのものじゃない。将臣とそうしたいのだから、むしろ喜んでする。
「有り難うな」
 将臣はスッと目を細めると、望美の頬に手を伸ばしてくる。
「約束だぜ。どこかへ寄り道する時は、必ず俺に言うこと」
「うん、事前に言うよ」
「オッケ」
 将臣に肩を抱き寄せられたかと思うと、目を閉じて顔を近づけてくる。
 心の準備がままならぬままで、唇を奪われた。
 触れるだけのキス。
 だが望美にとっては、それは充分過ぎるほどに甘いキスだ。
 触れたといっても、唇の先が触れ合う程度だったというのに、それだけでも失神してしまいそうだ。
「ま、将臣くん…」
「少しずつ、変えていかねぇか? 俺達の関係。幼なじみから、俺は脱却したい」
「脱却?」
「お前ともっと仲良くなりてぇってことだよ」
 こんなにストレートに言われて、心が全速力で駆け抜ける。
「…私ももっと仲良くなりたい」
 将臣はホッとしたように笑うと、望美をふざけるように抱きしめる。
「告るの、すげぇ緊張したんだからな!」
「あ、う、あ、有り難う」
 自分で何を言っているのか解らないまま、望美は真っ赤になって呟く。
「…有り難う…」
「こちらこそ有り難うな」
 湘南の空は薄紫に染め上がり、ふたりを祝福しているように思える。
「もっともっと仲良くなろうぜ?」
「急激はダメだからね」
「…努力はする」
 幼なじみから恋人へとシフトを始める。
 ふたりの恋の砂時計は、まだ動き始めたばかり。
コメント

「迷宮」ものでございます。



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