目覚まし時計


「ったく! いつまで寝てるの! 将臣くんっ!」
 有川家朝の名物、望美が将臣を起こす、目覚まし代わりの大声が響き渡る。
「…んだよ、ひとが気持ち良くお休みだっていうのに、朝から奇声を発するな…」
 まだ完全に起きてはいない将臣が、のそのそと躰を起こしてくる。
 最近アルバイトと学業、趣味とフル回転の将臣はしばしばこうして起きられない。
 それを起こすのが、望美の役目だ。最近では、本当に自分が『目覚まし時計』なのではないかと、思う始末だ。
「早く起きないと遅刻するよ?」
「だったらふたりでマラソンしようぜ、駅まで。ホノルルマラソンでも出るかよ」
 将臣は躰を半分起こしながら、髪をかきあげ、面倒臭げに言う。
 望美は、目の前にいる幼なじみの姿に、仰天せずにはいられない。
「ちょ、ちょっと、なんて格好をしているのよっ! 将臣くんのバカッ!!」
 望美は真っ赤になり、全身が逆流するような錯覚すら覚える。
 将臣は上半身裸でおり、スキンダイビングで鍛えられた躰が、逞しい姿を見せていた。
 いつの間にか、幼なじみは男になっていた。
 もう無邪気には接することが出来ないぐらいに。
 逞しい躰は、望美を充分に護ってくれると感じるぐらいに、頼りたくなるものだった。
「ったく、朝から何をそんなに騒いでいるんだよ? 俺の上半身なんて、見慣れているだろ? プールとか、海とか」
 将臣は「めんどくせー」とぶつぶつ言いながら、クローゼットにかかっている洗い立てのシャツを素肌のままで着込む。
 その姿が妙に色気があり、望美は視線を反らせた。ただでさえ残暑がキツクて汗が吹き出しそうなのに、こんなものを見せられてしまったら、それこそ滝以上に汗は流れてしまうだろう。
「おい、これからも俺のストリップを見る気かよ?」
 将臣が、わざとパジャマのズボンに手をかけて、ウィンクしながらこちらを見ている。
 望美の、恥ずかしさと怒りのボルテージは一緒くたになり、一気に駆け上がった。
「もうっ! バカッ!!!」
 手当たり次第に、その辺りにある枕を手に取ると、望美は将臣の顔を目掛けて投げた。
 敵はさるもので、予想していましたとばかりに、ひょいと枕を避けてしまう。
悔しい。
 全くもって悔しい。
 大人げなく、ぷりぷりしていると、将臣は、夏の陽射しみたいな笑顔を向けて来た。
「下で待ってろ。直ぐに追い付くから」
「うん、解った!」
 望美はいつものように階段を駆け降り、有川家玄関先に向かう。そこで待っていれば、何時ものように自転車を出してくれるから。
「急ぐぞ」
 将臣はダイバーズウォッチを覗き込みながら、時間を確認する。
「あれ? まだちょっとだけ早いよ」
「俺が約束あるの。いいから、目覚まし時計は荷台に乗る!」
「もぅ! 目覚まし時計じゃないよっ!」
 望美はツンと将臣に顔を背けながら、荷台に乗り込んだ。
 いつもより早いペースで、将臣が自転車をこぐものだから、望美はジェットコースターに乗ったような気分になる。
「ねぇ、そんなに急いでどうするのよっ!」
「カノジョが待っているんだよ」
 カノジョ…?
 望美は一瞬、耳を疑った。
 耳の錯覚だと思い、もう一度訊いてみる。
「何て?」
「だから、出来たんだよ。カノジョが!」
 もう一度聞いた。
 望美が思っている不安を、ただ肯定するだけの言葉だ。
 ギュッと掴んでいた背中から、手を離しそうになる。
 将臣の背中が、今ほど遥か遠くに感じたことはなかった。
 鼓動が嫌な意味で、煩くなる。
 背筋に不快な汗がたらりと流れる。
 望美は喉まで出かかった涙を、必死になって堪えた。
 歪んだ視界には、古びた建物が映り込む。もう直ぐ駅だ。
 こうして将臣に縋り付いていられるのも、あと僅かだ。
 自転車乗り場に滑り込むと、望美は慌てて自転車から降りた。
「じゃあ一緒はここまでだね」
 動揺していることを知られたくなくて、望美は明るく言う。将臣もシニカルな笑みで頷いた。
「将臣くん、明日からはひとりで起きなよ。それか、カノジョに起こして貰うんだよ! 携帯か何かで!」
 望美は、呼吸が出来ないぐらいに胸が痛くなるのを感じながら、わざとからかうように言った。
 その言い方が気に入らないのだろうか。将臣は眉間にシワを寄せて、不機嫌な顔になる。元々、精悍だが整った顔をしているので、余計に凄みを増している。
「望美、それは関係ねぇんじゃねぇかよ。カノジョがいてもお前の扱いが変わるわけはねぇんだ」
 将臣が低い声で怒ると、本当に迫力がある。こちらが躰を小さくするぐらいにだ。
「ダメだよ…。将臣くんが気にしなくても、カノジョが気にするよ? 私みたいなのが傍にいると、ヤッパリ心中穏やかじゃないところがあるじゃない」
 望美は言葉をひとつずつ選びながら言うが、将臣の眉間には更に深いシワが刻まれる。
「お前が気を遣う必要はねぇんだよ。三人で学校に行こうぜ」
 将臣の態度が変わるだとか、そんなことは望美も思ってはいない。
 だが、普通なら、カノジョは良い気分にはならないだろう。
「ダメだよ。カノジョのことをちゃんと考えてあげて。明日から、目覚ましは卒業ね。じゃあね。将臣くん」
 望美はくるりと背中を向けた瞬間、涙が溢れるのを感じた。
 ずっと大切にしていた、幼い頃に将臣に貰った指輪をチェーンに通していたものが、ふわりと揺れた。
 ずっと手元にあって当然だったものを失うのは、なんて哀しいことなのだろうか。
 息が詰まってどうしようもなかった。
 ひとりぼっちで乗る江ノ電は、虚しくて、切なかった。

 登校するなり、将臣が、望美以外の女の子と一緒に登校してきたと、クラスでは大騒ぎになっていた。
「望美! 有川くんと喧嘩でもしたの!?」
 友人が血相を変えて真相を確かめようとするので、望美はやんわりと微笑んだ。
「何もないよ、喧嘩なんかしてないし。将臣くんにカノジョが出来たんだよ。だから、私の”目覚まし時計”は卒業ってわけ」
 なるべく明るく、そして何でもないことのように言うのに、望美は苦労した。
 内心はブリザードが荒れ狂っているというのに。
「そうか…。ふたりはくっつくと思っていたのにね」
 友人がしみじみと言うものだから、望美はから笑いをする。自分の意識のなかでも、くすぐったくも、それを願っていた。望美は制服のなかでひっそりと揺れる指輪が哀しいと思いながら、何ともないふりをした。
「本気で春日さんがフリーなら、俺、カレシの立候補しようかな。そういうヤツは多いさ。有川に遠慮せずに済むしな。もう」
 望美のことを、前々から気に入っていると言ってくれている男子クラスメイトが、にんまりと笑っている。
「そんなことはないよ。私、モテないもん」
 会話を聞いていたクラスメイトたちは、なんと自覚がないのだろうと思ったことを、もちろん、望美は気付かなかった。
「将臣くんもカノジョが出来たし、私もお役御免ってとこかな。目覚まし時計は卒業だから、明日からはみんなと一緒に行こうかな」
 そこまで言ったところで、将臣が教室に入ってくる。
 目的は望美の所だとばかりに、真っ直ぐやってくる。
「それは関係ねぇだろ?」
 将臣が望美の机をコツンと叩くと、望美を睨んでくる。
「明日も起こしに来いよ」
「ダメダメだよ。カノジョのことを考えてみてね、将臣くん」
 望美はさらりと言うと、これ以上将臣には何も反論させないように、背中を向けた。舌打ちをしたのは解っていたが、望美はあえて気付かないふりをする。
 背中を向けたときから、大好きな幼なじみが遠い存在になってしまったような気がした。

 授業も終わり、望美はぶらぶらと教室を出る。思えば、昨日から一緒に帰らなかった。
 アルバイトをしている将臣も、基本的には帰宅部なのだ。
 望美はひとりぼっちで先に帰る。
 海が見たい。
 ただそう思い、電車にも乗らずに、七里が浜にひとり座り込んだ。
「…やっぱり好きだったんだな…。解ってたけれどね…。こんなことになるのは…」
 望美は掌に砂を掬って、さらさらと流れていくのをただ見つめる。
 ひとりで暗く落ち込んでいる自分が嫌で、泣けてきた。
「…ホントは、こんな湿っぽいのは嫌なんだけれどな…」
 自分らしくないと苦笑いをしながら、望美は溜息をつく。溜息だけで花束が作れてしまうぐらいだった。
 叫びたくなり、望美はむくりと立ち上がる。
「将臣君のバカーっ!!」
 ひとこえ叫んだら、何だかすっきりした。、重い気分をほんのすこし軽くして、望美は駅に向かった。

 翌日から、駅まで歩いて行っても遅刻しない時間に家を出る。
 将臣とはバッティングしないようにと考えている時に限って、自転車が凄いスピードで横を駆け抜け、停まった。
 顔を上げると、冷酷な殺し屋のように恐ろしい表情をした将臣が、目の前に立ちはだかっている。
「おはよ、将臣くん」
 望美は平然と言うと、何もなかったように将臣の横をすりぬける。
「今日は起こしに来てくれなかったんだな」
「もう、目覚まし役は終わったんだよ」
 望美がさらりと言い、駅に向かおうとすると、いきなり将臣に思い切り腕を握りしめられてしまった。
「い、痛いよ!?」
 将臣が強く握り締めてくるので、望美が顔をしかめると、すんなりと解放される。
「痛かったか?」
「ちょっと。だけど大丈夫だよ。将臣くんは先に行ってよ。待たせているんでしょ? カノジョ」
「そうだな」
 将臣は苦笑すると、直ぐに自転車で走り出した。
 カノジョのために駆け抜ける姿を見つめながら、望美はこのまままではいられないことを感じてしまう。
 将臣と肩を並べずに歩く登校時間。
 どこかつまらない朝に感じた。
 
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