もう一度恋をしたい


 将臣が望美の躰を庇うように一歩前に出た瞬間、刃が振り下ろされた。
「…望美…っ!」
 自分と同じ姿の茶吉尼天は、将臣の心をえぐるように心臓をひと突きにする。
 広がる血の海に、命や想いが流れ落ちていく。
 望美は将臣に駈け寄ると、血まみれの躰を抱き寄せた。
 お願い、将臣くんを助けて!
 願いを叶えるには、将臣はあなたのことを総て忘れてしまうよ?
 それでも構わないから。生きているだけでもいいから…。
 願った瞬間、硝子が粉々になる音がした。


「…お前は誰だよ…?」
 一瞬、何を言われているか解らなかった。
 望美はまるで夢の中にいるような気分で、目の前の幼なじみを見つめる。
 目覚めた将臣は、望美を怪訝そうに見つめ返した。
…・お前は俺の何だ…?」
「幼なじみだよ」
「兄さんは、先輩の八葉なんだよ。龍神の神子の…」
「譲…。それは”源氏の神子”ってことか?」
 譲のことは覚えているのに、望美のことは覚えていない。それがショックで、目の前が真っ黒になる。
「…源氏の神子が、俺によくも心配そうに見られるもんだな…」
 険悪な声は、有川将臣ではなく、還内府そのものだ。
 望美は胃の奥が痛くなり、総ての感覚が失われてしまうような気がした。なのに心は、苦しくなるぐらいに痛い。
 ”再生”のリスクはこんなところにあるのかと思った。
 将臣を助けて欲しい。
 自分の傍にいて欲しい。
 その願は聞き入れられたが、失われたものは大きかった。
 引き換えたものは将臣の記憶。
 それも望美に対してだけの記憶。
 将臣が生きて傍にいてくれるのであれば、どんなリスクでも背負う。それが、望美にかせられた試練ならば。

「将臣くん、一緒に学校に行こう!」
「ああ」
 毎朝繰り返されていた日常。だが今は空気に違和感がある。
 ”幼なじみ”をやっている頃は、ふたりでバタバタとしていたのに、今はそれなりの距離を置かれている。
「いいんだぜ、いちいち迎えに来なくても。学校のことはちゃんと覚えているし、別に不自由もしていねぇ。源氏の神子様にわざわざ送り迎えをして貰う覚えはねぇさ」
 将臣の言葉がチクチクと鋭いナイフになって胸に突き刺さる。泣きたくなるぐらいに痛くてたまらないくせに、望美は笑うことしか出来なかった。
「不都合?」
「まあな」
「だけど私は不都合じゃないから、一緒に学校に行こうよ」
 泣きたいのに、なるべく明るく振る舞えるように、望美は自分の心を押し殺す。
 呼吸も上手に出来ないくせに、何時からこうして笑えるようになってしまったのだろうか。
 あの迷宮で恋心を確かめあった相手を、茶吉尼天から助けるためのリスクがこれだったとは。
 もう一度初々しい恋が出来ると思っていたのに、今の将臣には取り付くしまなどありはしなかった。
 ふたりは微妙な距離を保ちながら駅まで歩く。遅刻することなどないから、自転車を使うこともなかった。
 話すこともなく、ふたりは駅まで歩くと、無言で電車に乗った。
 かつてあんなにおおらかな笑顔を見せてくれていた将臣なのに、今は笑顔さえくれない。
 切なく思う気持ちを識られたくなくて、望美は笑顔でいるように努めた。
 いくら胃がいきりたっても、心臓やお腹が切ない痛みに包まれていても、望美は笑うことにした。
 この試練を乗り越えることが出来れば、素敵なことが起こると信じていたから。
 だから辛くないはず。
 もう一度初めから恋をすれば良いのだから。
 幼なじみの分、すっ飛ばしてしまった恋の過程を楽しむことが出来れば、それで良いと感じていた。

 新学期になると、友人たちはふたりに違和感を捕らえるようになっていた。
「ねぇ、望美たち何かあったの? だってさ、最近のあなたたちは何だかおかしいからさ」
「心配しないで、いつも通りだからさ」
「そうかなあ…。何だかギャップがありすぎて変だよ」
 訝しげにふたりを見るクラスメイトにはごまかしなどが中々通じない。
 望美は笑顔でごまかしたが、心はそれと反対で沈んでいくばかりだった。
 将臣の記憶に遺った望美の記憶は”源氏の神子”というものだけ。
 宿敵だったのだからしょうがない。
 望美は自分の席に着くと、将臣の背中を見つめる。
 きっと普通の状態よりも恋に落ちるのは難しい。
 今の将臣には。

 昼休みに、望美は同じ学年の男子に呼び止められた。
「…ごめんなさい、他に好きなひとがいます」
「…やっぱりね」
 望美は深々と頭を下げると、申し訳なさそうに眉を寄せた。
 今、こうして恋の告白をしてくれているひとも、きっと30秒も経てば忘れてしまう。CM一本程の時間で。
「聞いてくれてありがとうな」
「うん、こちらこそごめんなさい」
 たったひとりのひとしか見えない、覚えることなんて出来ない自分に、望美は苦笑いをした。
 告白をしてくれた男子を見送った後、望美はとぼとぼと教室に戻ろうとする。
 ふとマイナスの気配を感じて目を凝らすと、そこには将臣が不機嫌で冷たい顔をして立っていた。
「お楽しみか? お前も隅に置けねぇな」
「何もしてないよ」
 刺すような視線が痛くてしょうがない。
 誰にでもおおらかで、その想いを受け止めることが出来る将臣なのに、何故か望美にだけは冷たい。
 きっと自分が護ろうとしたものを壊そうとしたからだと、思っているのだろう。
 唇を噛み締めて、望美は何とか泣くことを踏み止まるが、俯いたままでしかいられなかった。
「まあ、お前がどうしようが、俺には関係ないけれどな」
「将臣くん…」
 自分だけに向けられる冷たい視線が今は痛くて仕方がない。
 刺されないようにしても、結局は刺されてしまうのだ。
 最初から恋をしようだなんて本当は間違っているのかもしれない。
 なのに諦められない恋情が、望美を激しく苦しめてきた。
「明日から迎えになんて来なくていいぜ、マジで。お前が迎えに来なくても、起きられるからな」
 冷たい言葉をいくら言われても、どうして好きでいることを止められないのだろうか。
 泣けば将臣に余計に冷たい視線を向けられてしまうだけだ。
 ならば泣かないほうがいい。
 笑っていたほうがいい。
「私の日課だからね、迎えに行かないほうが、変なんだよ。だから迎えに行くね!」
 からりとした秋の空のように精一杯の作り笑顔をすると、望美は何事もなかったように見つめた。
「勝手にすればいいさ。俺は女と行くから」
「女?」
 背筋が凍え、これ以上は聴きたくないと心が呟いている。これ以上聴いてしまえば、きっと笑ったままで、心臓が止まってしまうだろうから。
「出来たって…」
 棒読みの大根役者のように、望美は繰り返すことしか出来ない。
「これから、お前が俺に焼いていたお節介も良いってことだ。女がいるから、うざいし」
 自分だけが色も何もない空間に迷い込んでしまったような気分になる。
 底もなくて天上もないような何もない空間。そこに永遠に閉じ込められてしまったような感覚に、望美は襲われた。
「だからいらねぇことはしなくて良い、解ったな、春日!」
 将臣は望美の背中をポンと叩くと、そのまま行ってしまう。
 将臣の背中を見つめながら、望美は消えるまで待つ。
 見えなくなったら泣けば良いから。
 喉から込み上げる鳴咽が、望美を苦しめていく。
「将臣くん…っ!」
 この躰も、耳も、細胞も…。総てが将臣を刻み付けているというのに。
 抱きしめてくれ、「大丈夫だ…」と優しい声で囁いてくれたことも、何もかもを忘れられやしないのに、将臣は総てを忘れてしまった。
 心と命を引き換えに。
 自分で望んだことなのに、どうしてこんなにも苦しいのだろうか。
 苦しくて、苦しくて、このまま息をするのも忘れてしまうのではないかと思った。
コメント

「迷宮」ED後です。
茶吉尼天によって、望美のことだけを忘れた将臣は?
をテーマにした物語です。





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