1
花の季節になると、じっくりと鎌倉の寺を巡りたくなる。 紫陽花の季節なんて、特に圧巻される。雨に濡れた紫や薄紅の花の可憐さに、望美はいつもこころが癒されるのを感じる。 傘をさして、紫陽花をぶらぶら見に行くのは、鎌倉にいるからこそ出来る贅沢だと望美は思っている。 近くの極楽寺を尋ねると、先客がいたらしく、傘の花がふたつ見えた。 とても仲が良い雰囲気のふたりのようで、傘がごっつんこしている。 可愛いなどと思いながら、望美はふたりに遠慮をして、少し遠巻きに花を眺めていた。 ふと背が高く広くてがっしりとした背中を見つけ、望美は視線を止める。 懐かしくて甘く切ないシルエットに見覚えがあるような気がして、目を凝らした。 そこにいたのは将臣。 すんなりとした美しい着物の女性と仲良さそうに、紫陽花を観察している。 恋人なのだろうか。 将臣ならばいても正直言っておかしくはない。 素敵なのは、幼馴染みの望美も認めるところだ。 声を掛けることが出来ない。気安く話し掛けることが出来そうにないから。 望美は震えるこころをなんとか堪えると、ふたりに背中を向けた。 何ともないと思っているはずなのに、どうしてこんなにも辛くて切ないんだろうか。 ひとりひっそりと背中を向けると、望美はそっと極楽寺から出た。 今日はもう紫陽花を見に行く気にはなれない。家に帰って、ゆっくりとしたい気分だ。 ひとりになってこころを整理したかったから、将臣が振り返ったことを気付かないでいた。 部屋に入ってひとりになると、精神的な疲れが襲いかかる。 そのままベッドに倒れ込むと、溜め息だけがいくつもこぼれ落ちた。 泣かないつもりだったのに、何故だか切ないぐらいに泣けてくる。 将臣とはただの幼馴染みだと思って、今までやってきたというのに、女性とふたりの姿を見た瞬間に、こんなにもこころが痛くなるなんて。 …好き…。 だったなんて。 今更気がつくなんて、きっと将臣は笑うに決まっている。 今更気付くなんてバカかよ。 そんなことを将臣に言われるような気がする。 近過ぎたから気付かなかったのではなくて、わざと気付かずにいたのかもしれない。 望美は涙をまた熱く流すと、それを拭うことなくぼんやりと天井を見ていた。 明日、笑顔で将臣に挨拶が出来るのだろうか。 そのことばかりを気にしてしまう。 綺麗なひとだった。 紫陽花の似合う。自分よりもずっと大人びたイメージを持っていたひと。 将臣が惹かれるのは解るような気がする。 どうしてこんなに将臣が好きなのだろうか。 どうしてこんなにも気付くのが遅くなってしまったのだろうか。 今更、後悔しても遅いと、望美は声を殺して泣いた。 翌朝、将臣を起こしに行くのが気まずくかった。しかし、何も知らない将臣がいぶかしむのが嫌で、望美はいつも通りに起こしにいった。 「将臣くん、早く起きないと、学校に遅れちゃうよ。ダメだよーっ! ほら起きてっ!」 いつものように将臣の大きな躰をゆさゆさと揺らすと、将臣は寝ぼけたままで何度も寝返りを打った。 「…もう少し…寝かせろ」 「学校だってば! 早く行かないと遅刻す…る…」 将臣が寝ぼけているのは解っていた。 なのに突然抱き付かれてしまい、望美は固まってしまった。 強く抱き締められて、抵抗しようにも動くことが出来ずに、望美のこころは切ないぐらいに痛い。 もう離すことはないとばかりに、強く抱きすくめられてしまい、望美はどうして良いか分からなかった。 「…起きようよ…将臣くん…」 「…ああ…」 将臣はまだ頭をぼんやりとさせている。 とろんとしているというのに、その瞳はとても色っぽい。 「……さん…」 はっきりと名前は聞こえなかったが、恐らく女性の名前だろう。まるでこころがばらばらになっていくような気がする。 絶望が望美の躰を覆い尽くした。 「…将臣くん、起きなきゃ」 「…ああ…」 将臣は苦しそうな重い声で囁くと、顔の角度を変えて口付けてくる。 「……いっ!」 唇が触れ合う。 勘違いのキス。 そんなことをするなんてひどすぎる。 望美は絶望に突き落とされるような気がした。 想いが感じられないキスなんて、誰かと勘違いしたキスなんて、そんなものは必要じゃない。 望美は将臣を力を入れて押しのけると、ベッドから引きずり出した。 「…あ…?」 将臣はようやくお目覚めとばかりに、惚けた声を出して望美を見つめる。 「…望美…あ、おはよう…」 「起きたのなら行くよ」 望美は将臣の瞳を真っ直ぐと見つめることが出来なくて、目線をあからさまに逸らしてしまった。 「…待っててくれ。着替えたら、直ぐに下に下りるから」 「…ん、解ったよ」 将臣は困ったように髪をかきあげて、溜め息を吐いている。 キスしたことに気付いていたのか、気付いていないのか。そんなことは解らない。 望美は将臣に背中を向けると、静かに部屋を出た。 将臣を待っている間、望美のこころは嵐が吹いていた。 好きだとようやく自分のなかで認めることが出来たのに、その直後に愛のないキスを受けることになるなんて、思ってもみなかった。 誰かと間違われてキスを受けるなんて、そんな切ないことはない。 瞳にじわじわと涙が滲んで、誤魔化すことが出来なかった。 「望美、行くぞ」 「うん、行こうか」 将臣はいつもと同じように携帯ゼリーを吸い上げながら、すたすたと玄関へと向かう。 望美はその後ろをちょこまかとついていった。 目の前を歩く将臣が、涙で歪んで上手く見えない。 自転車の後ろに乗りながら、ぼんやりと将臣があの綺麗なひとをここに乗せたことはないのだろうか。 そんなことを、望美はぼんやりと考えていると、将臣に手を軽く叩かれた。 「望美、ぼんやりとしてねぇで後ろにしっかりと掴まれ」 「うん」 今日はいつものように将臣にぴったりとくっつくことが出来ない。 将臣のことを好きだと気付いたからだろうか。 将臣にキスをされたからだろうか。 望美は涙がこぼれ落ちるのを感じながら、思い切り将臣にしがみついた。 駅まで揺られている間、息が詰まってしまうかと思うぐらいにこころが切なくなる。 将臣の男らしい香りが、余計に切なさを感じさせ、望美は目を伏せるしかなかった。 駅で自転車を降りると、将臣が何かを探るようにじっと見つめてくる。 「…なあ、お前、何かあったのか?」 「…ないよ、ホントに、ないんだよ」 将臣の視線を真っ直ぐ見られないままで、望美は誤魔化すように曖昧に笑った。 「…だったら良いけどな。お前、大分、変だったからな」 将臣は望美をじっと見つめると、まるですべてをお見通しだとばかりの表情をした。 「何か悩んでることとかあるんだったら、俺に言えることなら言えよ。力になれることはなるからさ。身近だからな。兄貴みたいに相談しろよ」 「有り難う」 笑っているのに、どうして哀しい表情になってしまっているのだろう。 言えるわけがない。 今更、将臣を好きだと気付いてしまいました。切ないです。 なんて言えるはずはない。 望美は想いと言葉を飲み込むと、いつも通りに笑顔で呟くしかなかった。 「…大丈夫だよ」 他のひとのものだけならともかく、その上幼馴染みには、何も言えなかった。 言えるはずもなかった。 将臣は冷たい表情で、ふと望美を見つめる。 「…勝手にしろ…」 将臣の冷たい言葉に、望美はただ頷いた。 |