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ふたりで夕焼けを見ながら海岸を歩く。纏わり付く暑さも気にならないぐらいに、涼しい夕餉の風が吹き渡っていた。 「明日、ドラッグストアで試験薬を買って、陽性だったらその後に病院に行こうな」 「うん」 もう何の不安もない。こうして将臣が欲しい言葉をくれたから。望美は将臣に寄り添いながら、ほわほわとした幸福を感じていた。 そっとお腹に触れてみる。まだ不確かではあるが、ここに将臣との子供がいると思うだけで、幸せな気分になる。ふふっと思わず笑みすら零れてしまう。 将臣を見上げれば、望美を優しく見守ってくれている。そこには将臣の優しさが浮かび、望美を幸せな気分にさせてくれる。 ちょうど、幸せな母親にでもなった気分だ。 最初は妊娠したかもしれないと思った時に、切ない気分になった。なのに将臣の一言で、それが最も幸せな気分にさせてくれる。地獄から 天国に引き上げられたような気分だ。 不意に差し込むような痛みが、下腹部に走る。 身に覚えがある痛みに、望美は顔をしかめる。涙が滲んで、思わず顔をしかめた。 「…ま、将臣くん…。家まで連れて帰って…」 「…どうした?」 「ちょっと、お腹が痛いんだ…」 将臣は直ぐに望美を抱き上げると、自転車まで連れていく。その表情は険しく、深刻だった。 「しっかりつかまっていろよ。直ぐに連れて帰ってやるから」 「うん」 荷台に乗せられると、将臣は自転車を全速力で漕いでくれる。 広い背中にしっかりと抱き着き、望美は頬を埋めた。 「望美、しっかりしろよ」 「大丈夫だよ…将臣くん」 将臣は躰を柔らかく撫でてくれる。その優しさに、痛みを癒した。 「…望美、着いたぜ」 ようやく家にたどり着き、望美は冷や汗をかきながら家に入って行った。 直ぐにトイレに向かい、望美は呼吸を浅くする。 やはりと望美は思った。 生理が始まったのだ。 ホッとするよりも、大切なものを失ったような気がして、涙がぽろぽろと零れ落ちる。 それは将臣の子供を失った切なさのようで、思い悩んでいた時よりも、ショックの度合いは大きかった。 よろよろとトイレから出ると、望美は自分の部屋に向かう。 ベッドに飛び込むと、切なさの余りに声を殺して泣いた。 妊娠することがあんなに不安だったのに、今はしていないことのほうが哀しい。 愛するひとが産んでも良いと言ってくれたから。 もう離したくはないほどの生涯ただひとりのひとだから。 望美はベッドに突っ伏してずっと泣き続けた。 いつの間にか夕闇が辺りを覆い、ごはんも食べずに閉じこもっていたことに気付いた。 玄関のチャイムが鳴る。 誰か来客が来たのだろうとぼんやり思っていると、下から将臣の声が聞こえた。 「望美、いますか?」 「何だか気分が悪いらしくて部屋から出てこないのよ」 「ちょっとお邪魔します」 将臣が真っ直ぐに階段を上がってくる音が聞こえる。望美はその音に導かれるように、躰を起こした。 「おい望美、起きてるか?」 「…う、うん…」 「入るぞ」 将臣はいつものようにドアを開けて、中に入ってくる。 優しい眼差しに心が解れてくる。 今度はホッとして泣きたくなった。 将臣は望美のベッドに腰をかけると、寝起きの子供のような恋人を抱きしめる。 「…どうした」 「ま、将臣くん…」 抱き着いて将臣の胸に顔を埋めると、望美は思いきり泣き出した。涙が零れて、頭の芯がズキズキと痛くなる。 泣きすぎたら、どうしてこんなにおかしな頭痛に悩まされるのだろうか。 「…生理が来ちゃったんだ…。赤ちゃん…出来ていなかった…」 普通ならきっと安心するだろう。きっと将臣もそう思っているのに違いない。将臣はこんなことを言われて、困っているに違いない。 子供が出来たら一番困るのは、誰よりも将臣なのだから。 将臣はただ望美を強く抱き寄せ、背中を撫でてくれる。そのリズムが優し過ぎて、望美はまた涙が沢山出てきた。 「…残念だったな…。俺も父親になる想像をして楽しかったのにな…」 「ホントに!?」 まさか将臣もそう思ってくれているとは思っていなかった。 望美が顔を上げて将臣を見つめると、哀愁が滲んだ瞳を向けていた。 「…将臣くんも…」 「そうだぜ。どんな困難でも突破してみせるって考えていたからな…。正直、俺も寂しい気分だ」 将臣の唇が額に押し当てられる。そこから喪失の痛みを感じ、望美は将臣を激しく抱きしめた。 暫く抱き合った後、将臣が顔を上げた。 「おにぎり作ってきたんだ。芸のねぇ塩むすびだけれど、お前は美味いって言ってくれたからな」 「うん、将臣くんのはとびきりだと思うよ」 「サンキュな」 将臣がラップに包んでくれたおむすびを、ぱふりと望美の手の平に置いてくれる。まるで将臣の優しさをそこに乗せて貰ったような気分になり、望美はにんまりと笑った。 「有り難う」 「どういたしまして」 ラップを慌てて開いて、望美は大口を開け、塩むすびを頬張る。 「やっぱり将臣くんが作ってくれたおむすびが一番美味しいよ」 どんな夕食よりもご馳走に思える。望美は笑いながら、大きな塩のむすびを平らげた。 「ったく、しょうがねぇな、お前は…」 将臣が目を細めて笑うと、望美の口角の端にあるご飯粒をついっと唇で摘んだ。 将臣が食べている姿を見るだけで、望美は恥ずかしくてたまらなくなってしまった。 「美味いな、確かに」 「もうっ!」 恥ずかしそうにしていると、将臣は望美の手を取ってくれる。 「花火しねぇか。つかの間だけだけど、親になった気分を味わった記念に」 「そうだね」 望美は将臣に立ち上がらせて貰うと部屋を出る。 行き先は有川家の見事な庭だ。 ふたりにとってはこれ以上の花火会場はない。 縁側に腰をかけて、ふたりは線香花火を始める。 「望美、受験が終わるまでは、ちゃんと気をつける。その後は、気をつけられねぇかもしれねぇけれど、子供が出来ても構わないって俺は思っている。だから、今度は直ぐに言えよ。一緒に喜んでやるから」 「うん、有り難う。きっと今回は、神様が、私たちがまだ親になる準備が出来ていないと思ったからかもしれないね。実際にそうだし…」 「そうだな。けれど、親になる自覚が芽生えてくるのは悪くなかったぜ? 多分…今度は…、神様は俺達に親の責任を与えるような気がするな」 「そうだね。きっと」 ふたりはまるで夏の終わりのようなしんみりさを感じながら、花火を静かに楽しむ。 きっと今度は幸せな困難が待ち受けているだろう。そう遠くない未来に。 望美と将臣はお互いに見つめあうと、受け入れることが出来るまでに成長すると誓う。 夏の騒動はふたりの絆を高め、成長させてくれた。 これから夏本番が始まる。 |
| コメント ED後のふたりです。 |