夏の憂鬱


 将臣を見るだけで、胸の奥が苦しくなり、望美は冷静に笑うことが出来ない。
 この不安を解消するためにも真実を言いたいのに、言うことが出来ない。
 望美は将臣を見るだけで、泣きそうになっていた。
 病院にもまだ行っていないし、試験薬も買えないでいる。
 もし妊娠していたら、将臣の未来をぐちゃぐちゃにしてしまうのではないかと、そればかりを考えてしまう。
 それが頭の片隅にあり、望美は上手く笑うことも、将臣を見つめることも出来なかった。
「望美、今度の休みに、海でも見に行かねぇか?」
「バイトはいいの?」
「いいから。すげぇ近場だけれど、行こうぜ海。気分転換にな」
「有り難う」
 将臣は気付いているのかいないのか。望美をとても気遣ってくれる。
 いつも敏感に感じ取ってくれるのは、一緒にいる時間が長いからだろうか。
 望美は、しっかりと頷くと、将臣の手を取った。
 この優しさにいつも甘えていた。だからこそ、これ以上は甘えられないような気がする。
「大丈夫だから、んな、心配そうな顔をすんな。海に行って思いきり楽しむことだけを考えようぜ」
「そうだね」
 甘えるように肩に頭をもたせかけると、将臣は優しく包んでくれた。

 海には自転車で二人乗りをして向かう。それがふたりらしい。小さな頃から、いつもこうして走っていた。
 成長をした今は、こうして一緒にいられるのは嬉しい。
「やっぱり自転車で風を感じられるのは最高だね」
「そうだな。お前と一緒だったら、逆風でも全速力で走れそう」
 望美はドキリとする。
 胸の奥がきゅんと締め付けられるような感覚に、思わず強く抱き着いた。
 将臣は望美の悩みに気付いているようにも見える。
「…将臣くん…大好きだよ」
「んなこと解ってる。こんなにしっかり抱き着いて貰ってるからな。これからもちゃんとつかまってろよ、俺に」
 まるで総てを見透かしているかのような将臣の言葉に、望美は泣きたくなった。
 今度は嬉しくて。
 ふたりを乗せた自転車は、海岸にたどり着く。
 いつもの浜ではなく、穴場のひとが余りいない浜だ。真夏だと、どうしてもひとを避けたくなる。
「望美、ゆっくり散歩しようぜ。気持ち良いだろうからな」
「うん」
 手をしっかりと繋いで、指先からお互いの感情を熱にして受け取る。
 ワンピースの裾と髪が潮風に揺れて、夏であることを思い出させてくれた。
 さくさくと足が沈み込む音も、その感触もとても心地がよくて、懐かしく思わせてくれる。
「砂浜を歩くのって気持ちが良いよね。雲の上で散歩をしているみたいで」
 将臣は優しく目を細めると、フッと柔らかな微笑みを浮かべる。
「だからお前のことが好きなんだろうな」
 ストレートに囁かれた言葉に、望美は嬉しさの余りに動揺する。まるで目玉お化けのように目を見開くと、将臣が首をのけ反らせて笑った。
「恥ずかしいかよ?」
「だ、だって将臣くんが、そ、そげなことを言うから…」
「お前何人だよ」
 将臣はぱふっと望美の頭に手を乗せると、また楽しげに笑う。
「普通なら、ミュール履いて、こんな砂浜に来るのを嫌がるだろ、たいていの女は。だけどお前にはそれがねぇんだよな。そんな素直なところとか、無邪気な優しさとか、変に気を遣って、騙し通すところとか…」
 望美は心臓を掴み上げられたかと想うほどに、ドキリとした。
 きっとこのひとの前では、なにもかもお見通しだ。
 強調するように言葉を切った後、将臣は望美をちらりと見つめた。
「図星か…。何を言われても、俺は動揺しねぇ。あっちじゃ何でもありだったからな。だから正直に言えよ」
 将臣はストレートに望美のテリトリーに入り込んでくる。心の奥深い場所まで見つめているような眼差しに、望美は観念するしかない。
 これ以上は隠し立てをすることは出来ないだろうから。
「…あのね、気付いたのは、オープンキャンパスの日なの」
「だろうな。お前の様子はあのあたりからおかしかったからな」
 将臣は望美を逃がさないとばかりに、結ばれた手に力を込めてくる。
 望美は何の説明もいらないと思った。
 ただシンプルに言えば良い。
 深呼吸をすると、叫びたくなるぐらいに緊張する。
「…あのね…、…生理が…生理が来ないの…」
 ただ事実を伝えた。
 結ばれていた将臣の指に力が篭る。
 きっと動揺している。
 受験生で、まだまだ未来があって、これからやりたいことが山ほどあると言うのに、こんな告白では。
 きっと将臣は動揺している。自分ですらこんなにも動揺しているのだから。
「…将臣くんに負担をかけたくなかったから…。出来ていても、堕胎は嫌だし…、かと言って、それだと将臣くんを思いきり縛り付けることになっちゃうし…」
 声が上擦っている。
 どうしていいか解らないし、ましてや恐くて将臣の顔を見ることは出来ない。
「ったく、そんなことはひとりで抱えなくていいんだ」
 将臣は望美を抱き寄せると、あやすように背中を柔らかい力で何度も叩いてくる。
「大丈夫だ、心配するな。もしそうなっても、お前が心配するようなことは絶対にしない。俺だって、自分の子供を殺すような真似はしたくねぇんだ。ましてや、お前との子供だろ? んなこと出来るわけねぇだろ?」
 胸を通して聞こえる将臣の声は、優しくて大きくて甘い。望美は胸の奥に宿る切ないやる瀬なさに、涙が零れた。
「有り難う…」
「んなのはひとりで抱え込むな。辛かったんじゃねぇか? ごめんな」
 将臣はフッと微笑むと、望美の唇を啄む。
「…子連れ卒業式も良いかもな」
「ホントに?」
「ああ」
 将臣の声も肌も気持ちもこんなにも温かい。ほっこりとした気分に包まれて、望美は幸福が自分に降りかかっているような幻想すら感じた。
「病院や簡易な検査はまだなんだな?」
「うん、まだだよ」
「だったらちゃんと立ち会ってやるから、気に病むな」
「うん、有り難う」
 どうしてひとりで重い事実を抱えてしまおうと思ってしまったのだろうか。
 向けられた将臣の優しさは、想像以上に温かくて心地がよい。
 望美は甘えるように、がっしりとした将臣の背中に腕を回す。
「有り難う、本当に」
「…すっきりしたか?」
「それよりももっと良い気分だよ」
「そっか」
 暫く抱き合った後、ふたりは砂浜を散歩した。
「出来ていても、ごく自然だったかもな。あの時空にそのまま残ったら、俺達はもう人の親になっていただろうし」
 確かにそうだろう。望美はきっと将臣の子供を産んでいたように思う。
「だから、どんな選択肢を選んでも、そうなっていたのかもな。それはそれで幸せなことだと、俺は思うぜ」
「うん、そうだね」
 きっとふたりなら、どんなことでも乗り越えられる。逆風に向かってこぐ自転車のように。
 望美は、好きになったのが将臣で良かったと思わずにはいられなかった。
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ED後のふたりです。





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