甘い誘惑の行方

2


 望美が誰のためにチョコレートを買ったのか。それがとても気になる。
 自分の分かもしれないし、あるいは他の誰かのものかもしれない。
 とにかく望美が買ったチョコレートは、五つあるのだ。
 単純に考えても、自分たち以外のひとつは余分だということだ。
 そんなことをぐるぐる考えていたせいで、余り望美と話せなかった。
 とりあえず話そうと思っても、頭のなかはチョコレートのことばかりで、つい口に出てしまう。
「もうすぐバレンタインだな」
「そうだね。将臣くんも譲くんもモテるから、おばさんがチョコレートを沢山食べられて嬉しいって言ってたよ」
 望美はくすくすと笑いながら、将臣の母親のことをあれこれ話している。
「まあ、毎年、俺は一切食わねぇからな。お前の以外。あんまり甘ったるいもん好きじゃねぇし。譲は甘いもんを作るぐらいあってか、一口は食うみてぇだけれどな」
「律義だからね、譲くんは」
「確かにな」
 まるで腹の探り合いのように、ふたりは差し障りのない話をする。それには譲は絶好の話題なのだ。
「お前はもうチョコレートを買ったのか?」
「うん。…かった」
 ひとつの音の間に妙な間があり、それが将臣を苛々とさせる。
 誰か本命がいることを匂わせているようにも思えた。
「今日はその買い物か?」
 さりげなく聞いてみると、途端に望美の顔色が変わる。図星だと思った。
「ったく、面倒くさいよな。本命だとか義理とか。まるで中元みてぇじゃねぇかよ」
「そうだね」
「ものがなくても”好きだ”なんていつでも言えるもんだって、俺は思うけれどな」
「将臣くんらしいね」
 望美は苦笑いを浮かべると、手に持っているチョコレートに視線を落とした。
 その視線が、チョコレートを贈る相手への想いが凝縮されているようで、将臣はいらついてしょうがなかった。
 大船で乗り換え、鎌倉まで向かう。その間もふたりは妙に無言だった。

 将臣に本命チョコレートを贈るのは、やはり無謀なことなのだろうか。
 ベッドの上に置いたチョコレートを、望美はじっと見つめる。
 これなら何時もの義理チョコレートだと思われかねない。
 全く幼なじみとは、誰よりも好きな相手のテリトリーに入り込めているのに、一番コアな部分に入り込むことが難しい。
 望美はつくづく思う。
 本気であることを悟られてしまえば、場合によってはぎくしゃくとしてしまう。
 それが望美には切ない。
 幼なじみとしてではなくて、もっともっと近付きたいと思っているのに、恐くて出来なかった。
 幼なじみのままだと、ずっと将臣の傍にいられる。玉砕すれば、今までと同じようにはいられなくなる。
 望美はジレンマに胸が苦しく感じた。
 バレンタインは悲喜こもごも。
 将臣がいつか、自分以外の誰かのチョコレートを食べるようになるかと思うと、切なかった。
 バレンタインの日に、パッケージを見られたチョコレートを渡すことが出来るのだろうかと、望美は思わずにはいられない。
 何度も、指先で紙袋を弾いてみる。チョコレートが将臣の口には入ることはないのかもしれないと、思いながら。

 バレンタインの朝は大変だ。望美は、将臣の荷物持ちをするために、毎年、大きな紙袋を用意するのだ。
 今年も、朝、将臣を起こしに行くときに、譲とふたりの父親には渡しておいた。
 将臣には、昼休みにでもあげようと想っている。いつも一緒に食べているので、渡しやすい。
 だが渡すところを想像するだけで、胸がかなりドキドキした。
 何時ものように、自転車の荷台に跨がろうとした時、将臣はちらりと望美を見た。
 何か言いたげな眼差しに、たじろいでしまう。
「何?」
「何でもねぇよ。とっとと後ろに乗れ」
「うん」
 お互いに一瞬間、見つめあう。何か言いたげなのに、黙ったままだ。
 望美が荷台に乗ると、何時ものように猛スピードで駅まで走り抜けていく。冷たい冬の風に、耳が真っ赤になるぐらいに痛かった。
 まるで風から身を護ってもらうように、将臣の躰を抱きしめる。すると、僅かに震えたような気がした。
 駅に着いて。チョコレートについて言い出そうとしたところで、将臣は多くの女性に捕まってはチョコレートを渡される。みんな余り時間がないせいか、押し付けられる恰好だ。
 望美が持っている紙袋は、直ぐにチョコレートでいっぱいになってしまった。
 何時ものように学生だらけの江ノ電に乗り込む。望美は、沢山の女の子が想いを込めたチョコレートを護るように立つ。
「チョコレートなんて潰れてもかまわねぇから、お前が楽な姿勢を取れよ」
「それはダメだよ。今日は、私が潰れても、チョコレートを潰すわけにはいかないんだもん。だって将臣くんを大好きなこたちには、大切なものだからだよ」
 望美が笑うと、将臣が躰を護るように抱き寄せてきた。甘くて、うっとりとするような行為に、望美は胸が嬉しさでいっぱいになり、胃の奥が熱くなるのを感じた。
「じゃあ、チョコレートごとお前を混雑の圧迫からガードするのが、俺の仕事だな。チョコレートをくれたひとたちの想いを無駄にしねぇのは」
 こんなに密着をしている将臣と望美を見れば、ファンはきっと卒倒してしまうだろう。
 だが幼なじみの特権に、今は甘えてみたいと思った。
 こんなに近くに将臣を感じたことはない。望美は、将臣の鼓動を近くに感じながら、この幸福に肖ろうと思った。

 学校に着いてからも、将臣は凄かった。
 様々なところでチョコレートを渡され、紙袋が二つ目を突破する。
 それを望美がせっせと持つ。
「望美、あんた有川くんの秘書みたいだよ」
 友人たちからは笑われてしまったが、それでも望美は幸福だった。

 特にバレンタインだからといっても、将臣は普段通りだった。
 日常的過ぎるからこそ、チョコレートを渡すタイミングが難しく、望美は緊張の余りに何度も胃が痛くなった。
 ずっと、いつ将臣にチョコレートを渡そうかとはがり考えてしまい、上の空になる。
「望美」
 将臣に声をかけられて、望美ははっとした。
「何?」
「何、真剣な顔をして考え込んでいるんだよ。どうせバレンタインのことでも考えていたんだろ?」
 将臣に的確に指摘されてしまい、望美はしどろもどろになる。
「あ、その、何かな、ははは」
「気にしなくていいから、早く、意中の相手にチョコレートを渡して来いよ。俺はもう食い終わったから、教室出るし」
 将臣の声には、感情の起伏なと一切なかった。ただかなり冷たさを含んでいるのが感じられる。
「じゃあな。緊張は早くといてやったほうがいいぜ」
 将臣は冷たく最もらしいことを言うと、さっさと後片付けをしてしまった。
 見送ることしか出来ず、望美は肩から力を落とす。
 チャンスは今しかないかもしれないのに。
 望美はチョコレートのパッケージをぎゅっと握り締めた。
 将臣の様子を目で追うと、昇降口に向かうのが見える。望美はその後ろを追い掛けていった。

 望美の表情を見ていると苛々して、これ以上は一緒にいられなかった。
 望美の恋する表情が目に浮かんで暗くて重いものが、腹にずしんとくる。将臣は誰にも解らないようにそっと溜め息をついた。
 バレンタインだなんてイベントは、くそくらえだと思う。
 将臣は何かに八つ当たりをしたくなってしまった。
 全く自分は恰好悪いと思う。
「将臣くん」
 いつも聞き慣れた声なのに、どこか緊張の色がする。目の前に現れた望美は、あのチョコレートの入った袋を持っていた。
「どうしたんだよ」
「忘れ物があったから」
 そんなものはないと将臣は想い、僅かに眉を上げる。
「何の?」
「はいっ! 私の気持ち!」
 望美が少しだけ乱暴に差し出したのは、将臣が見たあのチョコレートだった。
「…今年はみんなと違うものを上げたくて…」
 みんな。それは父親と譲を表している。
「…義理? 上級の義理? それとも本命?」
 将臣はからかうように言ったが、その眼差しは笑えない。
 望美は言葉に窮したように黙ると、将臣を上目使いで見つめた。
「…本命って言ったら?」
 暫くふたりの間に沈黙が広がる。
「キスする」
 将臣は言葉と同時に望美を抱きよせると、そのまま頭を抱えるようにキスをする。
 触れたのはほんの僅かだったが、望美の唇は柔らかくて、芳醇な味がした。
 唇を離すと、望美は真っ赤になりながら、純情と艶が同居しているような顔をする。
「…本命チョコレートだから…」
「ああ。今年もお前のだけを食わせて貰う」
 将臣は、望美のくれたチョコレートのパッケージを開けて、口の中に入れる。
 ビターチョコレートは、すっきりとして甘くなく、将臣の舌にはちょうど良かった。
「美味いな、サンキュ。味見させてやるよ」
「うん、有り難…」
 望美が手を出したところで、将臣は抱き寄せてキスをする。ここが学校でなければ時間を忘れるようなキスをするのにと、思わずにはいられなかった。
 触れるだけのキスを何度もしていると、チャイムが鳴る。
 頭をぼんやりとしたままで、望美とふたりで教室へと戻るしかない。
「望美、耳を貸せ」
「え?」
「好きだぜ」
 チョコレートよりも甘い囁きを送ると、望美ははにかみながら頷き、将臣にそっと微笑みかけてくれた。

 放課後、ふたりは手を繋ぎながら、仲良く帰っていく。
「望美。まだチョコレートがひとつ余っているだろう?」
 一応、牽制するように訊いてみる。すると望美は優しく笑った。
「もうないよ」
「あげたのか?」
「ううん、お母さん、おばさん、私で食べたよ。紅茶と一緒にね。チョコレートは大好きだから」
 嫉妬がチョコレートみたいに甘く溶けていく。
「ホワイトデイ、思い切り楽しみにしておけよ」
「…うん」
 一月後にある甘い誘惑は、将臣だけが知っている。




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