優しい時間

後編


 夢と現の合間をたゆたゆと流れていると、どちらが真で虚なのかが解らなくなる。
 将臣がくれた冷たいキス。
 熱がくれたささやかな贈り物だと、望美は思っていた。
 朝になるとかなり楽になっていたが、大事を取って休むことにする。
 まだ、唇に残る幸せな気分に浸っていたかったから。
 失われた水分を補給する為にキッチンへ下りると、玄関先に将臣がいるのが見えた。
 パジャマに黄色いカーディガンを羽織っただけの姿を見られるのは恥ずかしい。髪もくちゃくちゃで余りにも無防備過ぎるスタイルだったからだ。
 だが、将臣を一目見たい欲望には勝てなくて、望美はそっと隠れて様子を窺う。
「おい、望美、起きていて大丈夫なのかよ?」
「将臣くん…」
 見つかってしまったのはしょうがない。躰を縮めながら、望美は仕方無しに将臣の前に姿を現した。
「…今日は大事を取ってお休みするよ。今も、口の中がからからで水分を取りに来ただけなんだ…」
 将臣の冷たさと熱さが交差した眼差しで凝視されるのが、くすぐったい。望美はもぞもぞしながら、落ち着かずに指を組んだり離したりする。
「そうだな。今日一日はゆっくりしてろ。俺がちゃんとノートを取って、コピっといてやるから」
 将臣の大きく優しい手が伸びてくる。望美の髪を柔らかになぞってくれるのが、とても心地が良かった。
「有り難う」
「こんなことぐれぇいくらでも頼れよ。最近のお前、遠慮し過ぎ」
「頼れる幼なじみがいて、感謝しているよ」
 望美がほのかに笑って言うと、将臣は複雑な顔をする。眉を潜め、いかにも苛立っているように見えた。
「望美」
 何時もより低い声は、将臣の機嫌が斜めになっていることを暗に示している。
「俺はお前が幼なじみで無くても、こうしてたし、頼りにしてもらいてぇと思ったぜ。それだけは忘れるなよ」
「…うん、有り難う」
 素直に礼を言えたものの、どうしてこんなに切ないのだろうか。胸がキリキリと抓られるように痛い。
「遠慮すんな」
「うん。あ、将臣くん遅刻しちゃうよ! 彼女にも悪いからね。いってらっしゃ…!!」
 そこまで言ったところで、将臣に手首を握られはっとする。予想しなかった展開だからだ。
「おい…。あんまり言うと怒るぜ。俺とアイツの事だ。お前には関係ねぇよ」
 痛い。ただでさえ将臣の指が手首に食い込んで痛いのに、その上、言葉の刃が突き刺さる。
「そうだね、うん、そうだ。言わないよ。いってらっしゃい」
「ああ」
 将臣は静かに手を離す。指が食い込んだところが、かなり痛かった。
 それよりも痛いのは心。望美は将臣の背中を見送りながら強くそう思った。
 水分を軽く取った後、望美はベッドに入り眠ろうとしたが眠れない。
 あの雨の日に見た、将臣と恋人のキスシーンが脳裏をかすめて、眠るモードに入れなかった。
 幼い頃からずっと一緒で、隣にいるのがごく当たり前だった異性----将臣は昔からずっと望美にとってはかけがえのない異性だった。子供の頃からずっと好きで、なのに好きだと言い出せなくて。幼なじみとしての地位をなくしたくはなかったから。
「-----私、将臣君と一緒にいられなかったら、ずっとひとりかもしれないなぁ…。いつか、将臣君がほかの誰かと一緒になっても、他の人を好きになるなんて、器用なことは出来なし…」
 望美はベッドの中でぶつぶつと独りごちながら、深い溜息を何度も吐く。
 あの夢で見たキスなど、ただの妄想でしかないかもしれない。望美は指先で自分の唇に触れ、切なさの余りに泣きたくなった-----

 いつの間にかうとうとしていたらしい。
 しっかりとした足音に目が覚めると、将臣が母親に案内されて部屋に入ってくるところだった。
「あ、寝てたのかよ?」
「今起きたばっかりだから、大丈夫だよ。あんまり寝てたら、今夜眠れなくなっちゃう」
「そうだな」
 将臣が苦笑すると、母親も「しょうがないわね」とつられて笑った。
 望美にはゼリーを、甘いものが苦手な将臣にはアイスコーヒーを準備してくれ、母親は下に降りていった。
 鞄を乱雑に置いて、将臣は望美のベッドの前にどっかりと腰を下ろす。
「これ、今日のノートをコピったやつと、プリント。授業で使ったのは、俺がやったやつも一緒にコピーをつけている。後は連絡事項」
「有り難う将臣君」
 望美は素直にそれを受け取り、喉まで出かかった『彼女に悪い』という言葉を呑み込んだ。自分が捻くれている証拠のように思えたから。
「今日は何もなかった?」
「ああ。良いことが一個あった」
「何?」
「お前がいねえから、焼きそばパンの争奪戦が楽だった」
 将臣がニヤリと意地悪に笑ったので、望美は頬を大きく膨らませ、ミニクッションを将臣に投げつけた。
「ってえ!」
「いらないことを言うからだよ、将臣君♪」
 将臣は明らかにわざと顔をしかめたので、望美は勝ち誇った茶目っ気いっぱいの顔をした。
「これじゃあ、明日から学校に来られるな?」
「うん。いろいろ有り難う」
 望美は素直に将臣に礼を言い、頭を下げた。
 顔を上げると、将臣がじっとこちらを見ている。余りにまじまじと見られるものだから、望美は照れてしまい頬を赤らめる。
「お前はそうやって少し意地っ張りの方が俺は好きだぜ」
 好き-----そんな言葉を将臣から聞けるとは思わなくて、望美は心がふるえるのを感じる。余りに惚けた顔をしていたのか、今度は将臣が照れくさそうな顔をした。
「ったく、あほ面をするんじゃねぇよ」
「ひどい〜!!」
 確かにあほ面だったかもしれないが、そんなことを言うなんてデリカシーのかけらもない。望美がぷりぷりと頭から有家を出して怒ると、将臣は更に嬉しそうに笑った。
「-----いつものお前に戻ったところで、誤解を解かねぇとな」
「誤解…?」
「俺は今誰ともつきあってはいない」
 将臣はきっぱりと望美に宣言した。強い口調は、それが真実であることを何よりも物語っている。大事なことで将臣が嘘を吐いたことなど、一度もなかったのだから。
 将臣がそういうのだから信じよう。これ以上何も訊かなくていい。あの雨の日のキスも。
「なぁ、すぐに別れちまう俺は、軽薄でひどい男に思うか?」
 将臣は望美に視線を合わせずに、まるで独りごちるかのように言った。
「ううん。そんなことない…。将臣君がそんなひとじゃないことを、私が誰よりも一番知っているよ」
「そっか。サンキュな」
 将臣は薄く笑うと、どこか空を見つめた。
「----来るものは拒まずのスタンスで、俺は女とつきあってきたが、キスをすると、その女とは違うって、すぐに解っちまうんだよ…。お前に軽蔑されちまうかもしれねえけれど、そんなんで長くは続かねぇんだよ」
 あのキスのことを否定しない。将臣らしいとお望みは思ったが、心は針が刺さったようにちくりと痛い。ナイフでえぐられるよりはましだと思いながら、望美は黙って聞く。
「-----お前だから嘘は吐かないっていうより、吐けねえだろ。でもな、ホントは気づいてるかもしれねぇな。俺の横にいるべき女のことを」
 将臣がじっと望美を見つめてきたので、どきりとする。余りに艶のある眼差しであったから。
 不意に将臣が望美の手を握ってきた。
 唐突過ぎる行為に、望美は口から心臓が飛び出してしまうのではないかと思うほど、どぎまぎした。
「柔らけえな、お前。”だるまさんが転んだ”でいっつも手を繋いでた頃と変わらねぇ」
 将臣が声を上げて笑うものだから、望美は真っ赤になって固まってしまう。
「明日から、また迎えに来てくれるだろ? で、ガキの頃みてぇに、わざと手を繋いでくれるんだろ?」
 将臣がウィンクしながら言ったものだから、望美はうろたえてしまう。まさかばれていたなんて思わなかった。
「明日さ、学校の帰りにあの木で”だるまさんがころんだ”をしようぜ?」
「…うん」
 たゆたゆと優しい時間に揺られながら、ふたりはとうに自覚していた想いを少しだけ放ち合う。
 お互いにまだ異性としてのつきあいに、少しだけ踏み入れる。
 少しだけ、大人への階段を登ったような気がした----


 放課後。
 ふたりは子供のように”だるまさんが転んだ”に興じる。昔と同じように、じゃんけんの弱い望美が鬼。
「だるまさんがころんだ! 将臣君動いた!」
 わざと動いた将臣は笑いながら望美のそばに行く。
 そして-----手を繋ぐ代わりにキスをしてきた。
「……!!!!」
 冷たい将臣の唇。
 熱の夜の夢は真実-----
 唇が離れ望美がようやく気づいて、顔を上げると将臣が笑いかけてきた-----
 リアルであったことが嬉しくて、泣きそうになる。
「俺の唇、お前が消毒しろよ。今まで俺がキスした女、消し去ってくれ」
 望美は唇を震わせながら将臣にキスをする。
 二人の恋は、この木の下で新たなターニングポイントを迎える----
 
コメント

幼なじみものです。
完結です。




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