Piano Lesson

First Lesson


 初めてあのひとの音色を聞いた時、全身に電流が走った。

 望美は教則本を片手に、駅前のピアノ教室に顔を出した。
 特に音大を目指しているだとか、プロになりたいだとか、そんな大層なことを考えているわけじゃない。
 ただ趣味で、引いていたいと思っている。
 ピアノの音色を聴けば心を落ち着かせることも出来るし、何よりも引いていて楽しかった。
 先生も、望美があくまで趣味としてしか考えていないことを識っているせいか、和気藹々とした仲良しこよしのレッスンになっている。
 今日も楽しみにして教室のドアを開け、受付に向かった。
「お願いします」
 カードを受付に出すと、申し訳なさそうに、スタッフがこちらを見た。
「春日さん、ごめんなさいね。今日から当分、春日さんの担当講師が変わるのよ」
「私の? 先生がどうかされたんですか?」
「…それがね、当分は家庭の事情で急にこの曜日の担当だけが出来なくなったから、暫くの間だけ、違う先生に来て貰うことになったのよ」
 先生の用ならばいたしかたがない。望美は渋々頷いた。
「で今度は、プロのプレーヤーなのよ! ラッキーね!」
 明るく言われても、望美は困惑してしまう。
 今まで担当してくれていた先生とは充分に馬が合ったし、楽しかった。
 先生もかなりの弾き手だったが、望美はそれよりも”楽しい”ことが、何よりも重要だったのだ。
 更にスタッフはキラキラ瞳を輝かせながら追加する。
「クラシックでは”神童”と呼ばれていた先生ですからね! 楽しみにしていてね!」
 余計に嫌だと望美は思った。
 ”神童”なんて呼ばれるやつは、高校生になれば”ただのひと”の可能性がかなり高いのだ。
 望美は先生が帰って来るのを強く願いながら、頷いた。
 こんなにスタッフがきらきらするのだから男とだろう恐らく。
 望美はのんびりレッスンが好きだったので、戦々恐々としながらレッスン室に入った。
「こんにちは、よろしくお願いします…」
 恐る恐る挨拶をしたが、レッスン室にはひとのいる気配がない。
 キョロキョロ辺りを見回すと、教則本を顔に被ってだらけた姿勢で寝ている男を見つけた。
 投げ出された脚はかなり長い。近付くと煙草臭くて、望美は思わず顔をしかめた。
 やはり子供の頃”神童”今や”ただのひと”説は正しい。
「先生、ピアノを教えてください」
 幾分か棒読みで言うと、望美は教則本の下にある顔を覗き込んだ。
 だが反応はない。
 幼なじみの将臣から習った稲妻ラリアートでもかけてやろうと思った途端に、教則本の向こうから声が聞こえた。
「…今、カノンをやっているらしいな…。一度弾いて…、俺に聴かせろ…」
 顔も見せずに、危なく響く低い声だけで命令をするなんて、なんとムカつく男なのだろうと思う。
 来週から先生を変えて貰おう。決定だ。
「解りました」
 生まれてこのかた、こんなにも失礼な先生に当たったことなんてなかった。
 望美は憤慨しながら、アップライトピアノの前に腰を下ろした。
 小さな頃から、ピアノの前に座ると、自然と落ち着いた気分になるのだ。
 咳ばらいをして、教則本を開けると、背筋を伸ばして指を鍵盤に滑らせた。
 決して上手くはないし、上手くなろうとも思わない。ピアノは望美にとっては、素敵な癒しなのだ。
 いつものようにカノンを弾き、自分の世界に入り込んでいく。
 曲が盛り上がってから、不意にピアノ教師はレッスン室によく響く声を投げた。
「…そこまで」
 辺りを緊張させてしまうような空気に、望美は指を強張らせた。
 心臓が痛くなるほどの緊張を感じながら、望美はピアノ教師に視線を向ける。
 先程までだらしなくしていた男は、顔から教則本を取ると、座り直した。
「…そこまでだ…お嬢さん…」
 鋭いナイフのような声に、望美は動けなくなった。
「今、五箇所間違って…、三箇所指が滑っただろ…?」
 居眠りをしているように見えたのに、男はしっかりと望美のピアノを聴いていたのだ。
「…カノンよりは…、バイエルから始めるか? お嬢さん?」
 小ばかにされたような気がして、望美は眉をへの字に曲げる。
 何様だとこの男は思っているのだろうか。
 あからさまな悪意を持って望美が睨みつけると、男は可笑しそうに喉の奥から笑みをこぼした。
「…どけよ…。ピアノをどうやって弾くのか…見せてやるよ…」
 緩やかに椅子から立ち上がると、男はピアノに近付いてくる。
 細身だが程よく鍛えられて綺麗なラインを持っている上に、身長も豊かだった。白いカッターシャツに乱れたネクタイ、脚の長さを際立たせるようなブラックパンツ。どこをとっても、人にものを教えて糧を得るタイプには見えない。
「どけ…」
 望美が渋々席を譲ると、男はピアノの前にけだるく腰を下ろした。
 今からピアノに触れるというのに、薄い唇に煙草を押し込めて、ライターで火を付ける。
「煙草の灰が鍵盤に落ちたらどうするんですか!?」
「…そんなへまは…しないさ…」
「…でも…!」
 そこまで言いかけて、望美は口をつぐんだ。
 長くてしっかりとした指が、まるで花びらが舞落ちるように鍵盤に滑る。
 その瞬間、全身に鳥肌がたった。
 頭の中は痺れ、全身は小刻みに奮え、心は甘くて切ない想いでいっぱいになる。気持ち良いゾクゾクは、望美の心に感動という名の印象を残した。
 綺麗で厳かな月光を想わせるような音色だった。
 人々の心に入り込んだら最後、麻薬のような快楽に蝕まれてしまうような音。
 望美は音色に魅せられ、いつしかここが音楽教室のレッスン室であることを忘れてしまった。
 最高の音質を誇るコンサートホールで、望美のためだけに奏でられている音のように聞こえた。
 しかも望美と同じナンバーカノンだ。
 同じ曲だとは思えない程に、不思議にひきつけられる。
 ピアノが弾き終わると、望美はただ呆然としていた。
 まるでこれが本当のピアノなのだと主張しているような気がした。
 拍手なんて出来ないぐらいに緊張している。
「…これぐらいは…、弾けるようになれ…」
「あ、有難うございます」
 男は椅子から立ち上がると、望美に席を望美に譲った
「有難うございます」
 望美がピアノの前に座ると、男は別の教則本を望美の前に広げた。
「…カノンを弾くのは、まだ早い…。これをしっかり練習するんだな…」
 知盛は一番簡単なページを開くと、指先で楽譜を辿った。
「このフレーズだけを弾いてみろ、何度もな…」
 あんな見事な指捌きを見せられた以上は、言われたようにやるしかない。
 緊張感がたっぷりと流れた。
 鍵盤に指を滑らせるだけで、窒息してしまうほどに心臓が痛い。
 ワンフレーズ弾いたところで、睨まれる。
「…お前は阿呆か」
 酷い言葉過ぎて、怒りが込み上げるままに望美は睨みつけた。
 これがファーストレッスン。




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