Piano Lesson

Second Lesson


 あんなに不遜な男に逢ったことはない。
 だが、指先から零れたメロディは繊細に澄み渡っていて、望美の心にすとんと染み込んできた。
 圧倒的な存在感を示す音は、望美を夢中にさせる。
 担当講師を変えようと思ったが、あのピアノの音を聴いてしまえば、それも出来ない。
 もっともっと近いところで聴いてみたかった。

 駅前の音楽教室に顔を出し、望美はレッスン室に向かう。
 今日は朝から何故だかドキドキして、胸の奥が苦しいぐらいにきゅんと鳴った。
「…お願いします!」
 教室のドアを開けると、ファーストレッスンと同じように、男はだらりと脚を投げだし、椅子の上で眠っていた。教則本を相変わらず、顔に被せている。
「…レッスンに来ました! 先生!」
「…あ…?」
 不機嫌な声が響き、けだるく教則本が顔から取られる。浮かべられた笑みはどこか艶めいていて、望美はドキリとした。
「…レッスンなんですけれど!」
 望美は怒りを鎮めようと自分に言い聞かせるものの、全く効果はなかった。
 ピクピクとこめかみがひくつく。
「…そんなにこめかみをひくつかせると、シワになるぞ…」
「大きなお世話ですっ!」
「そうやって…余計に怒ると…」
 以下同文なのだろう。男は煙草を唇に押し込めると歪んだ笑みを浮かべた。
 紫煙を吐き出す姿はふてぶてしくて、蹴りを入れてしまいたくなる。
「…先生、早くしてください」
「…知盛だ…」
 そういえば、ファーストレッスンで、男は名乗らなかった。望美は今更ながらに思い出し、普通は名乗ってからレッスンは始めるだろうと思わずにはいられなかった。
「知盛先生、苗字は何ですか?」
「平」
「名前と苗字の漢字は?」
「知性の知に、盛岡の盛…。平は平穏の平」
「知らぬ存ぜぬの知に、盛そばの盛ね!」
 望美が頷きながら呟くと、知盛の瞳はキラリと光る。
「…そんなたとえは止めろ…」
 僅かにこめかみがひくついているのを見るのが、望美は楽しくてしょうがない。
「盛岡名物は冷麺じゃない。変わらないよ」
「…変わる」
 知盛は煙草を灰皿に押し付けると、椅子から溜め息をついて立ち上がる。
「…お前と話をするより…、レッスンをしたほうがましだな…」
「当然。私はそのために来ているんですから。知盛先生と遊ぶためじゃないですから」
 望美はすとんと椅子に腰を下ろすと、足を子供のようにぶらぶらとさせた。
「…遊ぶ…ね」
 知盛は僅かに口角を上げると、ピアノの横に立つ。
「…”猫踏んじゃった”でも…、弾いて貰おうか…?」
「完全に馬鹿にしていない?」
「…どうだかな…」
 ぷりぷりと子供のように憤慨する望美を楽しむように、知盛はまた煙草をくわえる。
「…レッスン中は煙草は止めて下さい。喘息のけがありますから」
「…嘘をつけ…」
 知盛は鍵盤に指を滑らせると、片手で可愛いらしい響きの”猫踏んじゃった”を奏でる。
 子猫が戯れるのを容易に想像出来るメロディに、望美はレッスンを忘れて、聴き入ってしまった。
「…さあ、お前の番だ…」
「あ、はい」
 流石に魅力ある旋律を聞かされた後は緊張する。
 望美は背筋を伸ばすと、少し小ばかにしていた”猫踏んじゃった”を奏で始めた。
 簡単に思っているメロディこそ、本当は難しいのだと、弾きながら望美は痛感した。
 シンプル過ぎて、逆に失敗をすれば目だってしまう。
 しかも知盛が傍にいるだけで、妙な緊張感が背中を走り抜けた。
 いつもよりも畏縮してしまう。
 本当はこんなんじゃないと叫びながら、望美はピアノを弾き終えた。
「…非常に…面白いメロディを弾くな…」
 知盛はくつくつと喉を鳴らして笑いながら、望美をからかうような瞳で見つめてくる。
「先生の前でなかったら、もっと上手いんですっ!」
 悔し紛れに言ってみせると、余計に知盛は笑ってくる。
「やはりバイエル、ソナチネと順番にしたほうが…良いな…」
 知盛は望美にバイエルとソナチネの教則本を押し付けると、先ずは最初のページから開かせる。
「…これからのレッスンは…これの復習をする」
「カノンが弾きたいです」
「…復習が終わったら…な?」
 本当になんて意地悪な教師なのだろうか。あのメロディがなければ、絶対にレッスンなんて受けやしないのに。
「…さてと、最初から始めましょうか…? お嬢さん?」
 知盛のハンターのような瞳から逃れることが出来ずに、望美はしょんぼりとバイエルの一ページから弾き始めた。

「…今日は、ここまでだ…」
「はい、有難うございました」
 望美は、全身が痛くてたまらなくなりながら、知盛に一礼をする。
「…ご褒美に…、これをやる…」
 さりげなく差し出された紙切れを受け取り、望美は視線を落とした。
 それはコンサートチケットで、”平知盛・平重衡リサイタル”と書かれていた。場所はヨントリーホールで、望美ですらも識っている有名なコンサートホールだ。
「…先生…、やっぱりプロなんだ…」
「まあ、たいしたことのないコンサートだ…。気になったら来るといい…」
 望美はチケットの字面を追いながら、軽く頷いた。
「チケット、余程売れなかったの?」
「なら返せ」
「返さないよ。ね…先生、重…なんとかさんって誰?」
「…しげひら…。弟だ…。バイオリンをやっている…」
「先生の弟って…奇特なひとよね」
 望美がさらりと言うと、知盛のこめかみがまたひくつく。
「…奇特は俺だろ…?」
「だってこんなにオニアクマな先生と、一緒にやれる自体奇特じゃん」
 望美がニヤリと知盛のお株を奪うように笑えば、知盛の整った顔に明らかに不快感が滲む。
「…オニアクマ…はお前だろ…」
 仕返しをするように言われて、望美はムッとする。
 あんなにも綺麗なメロディを奏でるというのに、この性格は詐欺だ。メロディはその人の、人となりを表すというのに。
「先生がどんなメロディを奏でるか、見に行ってあげるからね」
「ったく…」
 知盛は舌打ちをしたが、望美へのチケット返還要求はなかった。
「じゃあ、次のひとも来るわよね。じゃあ来週に!」
「…ああ。バイエルの復習は…ちゃんとしておけ…」
「一言多いです」
 望美は口を尖らせると、知盛は当然とばかりの顔をする。
「先生、じゃあね!」
「…ああ…」
 望美はチケットをひらひらとさせながら、鼻歌交じりにレッスン室を後にする。
 鼻歌は先ほど聞いた、知盛アレンジの”猫踏んじゃった”。
 ご機嫌なメロディに、望美はステップを踏みながら、教室を後にした。
 コンサートもレッスンも、愉しみだと思いながら。




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