Third Lesson
ヨントリーホールと言えば、望美すらも識っているクラシックの電動だ。そんな場所でコンサートをするなんて、知盛はよく識られた存在なのだろうか。 望美はピアノを習ってはいるものの、ただの趣味だし、音大だって目指していない。それどころか、クラシックには全く興味なんかなかった。 しいて言えば、コンピCDを持っているぐらいなのだ。 だから当然、有名なピアニストなんて誰ひとり識らない。 「ひょっとしてさ、弟が有名で、そのおしょうばんに預かっているだけだったりしてね」 望美はそんなことをぶつぶつと言いながら、CDショップへと立ち寄った。 CDなんて出してはいないと思いながらも、ひょっとしたらと探してみた。 「…うそ…!?」 クラシックのCDコーナーを見て、望美は目を丸くする。まさかこんなことがあろうとは。 知盛の特設コーナーが設けられ、数々のCDが並べられている。 その横には弟のCDがあり、これまた人気を博しているようだった。 CDを手に取りながら、望美はドキドキが止まらなくなる。こんなに有名で、CDまで出すような存在なのに、どうして鎌倉の寂れた音楽教室で教えているのだろうか。 大体にして、どうして教えようという気持ちになったのだろうか。 望美はCDを手に取ったが、値段を見て止めてしまった。 今月のお小遣では厳しかった。 「凄い、有名なんだ…」 ファーストレッスンの時に、受付のお姉さんたちが騒いでいた理由を、望美はようやく理解することが出来た。 望美はぶらぶらとCDショップを出ると、今度は、プレイガイドを覗いてみる。 すると、知盛のコンサートは既にソールドアウトになっていた。 「…凄いんだ…。しかも、何日もやるんだ…」 コンサートの日程は、望美のレッスンとは全く被っていなかったので、少しだけホッとする。 「巷では凄い人気かあ…。私には良く寝る、イジワルなひとってしか、印象がないもんねえ」 望美は住む世界が違うとばかりに溜め息をつくと、家路に着いた。 レッスン日、望美が勇んでレッスン室に入ると、相変わらず知盛は寝ていた。 だらし無く椅子で眠りこける姿は、怠け者以外の何者でもない。 「こんな姿をファンのひとが見たら逃げるよ」 軽く溜め息をついた後、望美は知盛の鼻を容赦なく摘む。 「…んっ…!」 「先生、折角、可愛い望美ちゃんが、レッスンに来たんですけれど!」 「…や、やめろ…」 鼻をふがふがさせながら嫌がる知盛を見るのは楽しい。 いつもやられてばかりだから、少しぐらいはやり返さないと割が合わないような気がした。 知盛は素早く目を開けると、望美を睨みつける。 「…おはよう、先生!」 望美が鼻から手を離すと、知盛は綺麗な顔に、不快なシワを刻み付けていた。 ピアノの前に座ったものの、望美は中々弾く気にはならない。 「先生、有名なピアニストなんだね」 「…無駄口を言う間に”きらきらぼし”ても良いから、弾きやがれ」 知盛はいつもの三割増しなご機嫌の悪さで、煙草を唇に押し込んでいる。 「先生、どうしてこんなところで教えてるの? こんなところで教えなくても、先生なら引く手数多でしょう?」 「…しょうもないことを聞く前に…とっとと…弾け…」 知盛の眉間に不快そうなシワが刻まれる。望美はそれを無視すると、更に知盛に詰め寄る。 「先生、教えてくれたらピアノを弾いても良い」 「…お前が”カノン”をちゃんと弾けるようになったら…教えてやっても良い…」 逆にイジワルに笑われて、望美はむぅと唇を尖らせた。 「弾け」 知盛は鍵盤を叩くと、望美を睨みつけてくる。なんて憎たらしいのかと思わずにはいられなかった。 ふと胸元に揺れるIDカードの名前が視界に入る。 「先生、先生の名前って、”ちもり”って読み間違えられない?」 「お前じゃあるまいし…それはない…」 「嘘、ね、”ちもりん”とか”ちもちゃん”って呼んでいい?」 「…お前は阿呆か…」 どんなことを言っても不快そうに顔をしかめるのが気に入らない。 とりつくしまがなくて、望美は溜め息をつくと、ピアノの前に背筋を伸ばした。 「今日は”きらきら星”だ。弾いてみろよ…?」 知盛は、”きらきら星”の楽譜を、望美の前に置く。小さな子供ではないのにと、望美が不満げに顔をあげると、知盛は僅かに口角を上げる。 「”猫踏んじゃった”の次は”きらきら星”? 先生なら、足で弾きそうだけど」 「阿呆だな…お前は…」 知盛は心から呆れ果てているように、紫煙を宙に投げる。 「先生、お手本がないと解らないんですけれど!」 誰もが識っているメロディではあるが、望美は知盛の手本が聞きたくて、わざと言った。 「阿呆か…お前は?」 「阿呆だから、弾いて下さい!」 望美が頑なに言うと、フッと笑う声が頭の上から聞こえた。 「…しょうがないな…」 知盛は、いきなり望美の背後に立つと、抱きしめるような姿勢で、鍵盤に手をつく。 何時もの五倍は激しいドキドキ(望美比)に、手が震えて、喉が渇く。 恥ずかし過ぎて、望美はわたわたと顔を赤くした。 「…リクエスト通りに…”きらきら星”を弾きましょうか…」 指先が鍵盤の上にふわりと上がる。 それだけで望美はドキドキした。 心臓が変なリズムで跳びはねる。 息をしようにも上手く出来なくて、軽い過呼吸のような状態になった。 急にしおらしくなった望美を、知盛は訝しげに見つめる。 「…どうした? ”きらきら星”ごときで緊張しているのか?」 くつくつと喉を鳴らして笑うのが憎らしい。 「そっ、そんなことないです。早くお手本を弾いて下さい、ちもちゃん先生!」 「ちもちも言うな…。変な動物になった気分だ…」 「だって先生、ちもじゃん」 「…五月蝿い…」 知盛はうんざりとばかりに溜め息をまたつくと、鍵盤に指を滑らせた。 しなやかに奏でられるメロディは、可愛いくもどこかなまめかしくも聞こえる。まるで大人の部分と子供の部分が同居をしている、女性のようだ。 ”きらきら星”を右手で奏でながら、左手で、同じ星をテーマにしている”星に願いを”を弾いていた。 2曲を、しかもアレンジをしていとも簡単に弾いているなんて、信じられない。 望美はまたもや驚いてしまい、目を丸くしながら知盛を見上げた。 メロディの繊細さ、鋭さが、麗しいデュエットを作り出している。 聞き惚れてしまい、望美は肝心なところを全く意識出来なかった。 ただメロディが止んだ瞬間、呆然とする。 「…こんなの弾けません…」 望美が呟くと、知盛は怜悧な笑みを浮かべながら呟いた。 「…阿呆には…仕返しが必要だからな…」 憎らしい一言に、教則本を投げ付けてやりたくなった。 「…キライ…」 「…”きらきら星”で良いから、早く弾け…」 負けだ。しかも完敗。望美は唇を尖らせると、鍵盤に指を下ろした。 |