4th Lesson
格式の高い、クラシック専用のヨントリーホールに行くなど、望美にとっては初めての経験で妙に緊張してしまう。 何時ものようにジーンズとイエローレースのトップスなんて、とてもではないが着ていくことなんて出来ない。 仕方がなく、ピアノの発表会用に買った、ノーブルで少しおとなびたブラックワンピースを着ることにした。 メイクなんてしたこともないから、いつも使うほんのりと色がつくリップクリームをつけて、望美は麗しく着飾った。 髪も母親に手伝って貰い、凛々しく結い上げる。 鏡を見ながら、複雑な気分になるのも、また事実だ。 「…こんな恰好、誰かさんが見ても笑うだけだよね」 知盛の憎たらしい艶やかな笑みを思い出すと、胸の奥がどこか華やいだ気分になる。 自然とにんまりと笑ってしまうのが嫌で、望美は慌てて華やかな気分を否定した。 「違うんだから、絶対に違うんだからっ!」 何度も言い聞かせてみるものの、どこか緩んだ頬は、元には戻せない。 それが何だか気に入らなかった。 少しだけ気合いを入れて、望美はヨントリーホールに向かう。 都内にあるので、鎌倉に住む望美は少々、気合いをいれなければならない。 背筋をぴんと伸ばして、望美はまるで戦場にでも行くような気分で、ホールに向かった。 ホールに着いたのは、開演ぎりぎりの時間帯だった。 望美が慌ててシートに腰を下ろそうとすると、飲食禁止なはずのホールなのに、小さなチョコレートの箱が置かれていた。 そこには達筆で書かれたメッセージカードが添えられている。 ”閉演後、地図に印を付けた場所で待て。知盛” よく見ると、地図が一緒に添えられている。 ヨントリーホールの関係者口のようだった。 「…ケチつけてやろうかな」 望美は悪態をつきながらも、柔らかな微笑みをこぼしていた。 程なく、ホール内の照明が落とされ、開演アナウンスが響き渡る。 まるで自分が今からピアノを弾くのだと思ってしまうほどに、望美は緊張してしまっていた。 拍手と共に、知盛とよく似た面差しの知盛よりは優美な雰囲気を出す青年が、一緒にステージに出て来た。 知盛はいつもとは違い、ブラックスーツを身につけている。ネクタイが、いつもとは別人のように見せている。 どこか識らない素敵な男性の用に見えて、望美は胸の奥がキュンと音がした。 ふたりが醸し出す美麗な雰囲気に、ホール内は溜め息が零れ落ちる。 辺りを見ると、ほとんどが女性ばかりだった。 ふたりが頭を下げ、演奏準備をすると、誰もが緊張に包まれる。 望美もドキドキしながら背筋を伸ばした。傾聴しなければならない雰囲気に呑まれてしまう。 オープニングはラフマニノフのラプソディが始まる。 澄み渡った冬の空のような音が、ホールの中に滝の流れのように響き渡った。 涙が滲んでしまうぐらいに心を打つメロディは、小川の清洌な流れのように、心に打ち付ける。 ピアノとバイオリンのハーモニィに、全身に鳥肌が立った。 兄弟のせいか、コンビネーションが素晴らしい。 心にずんと響く切なさに、望美は微動だに出来なかった。 呼吸が自由に出来ない。 聴覚以外はどれも死んでしまったような感覚に、望美は呆然とした。 ほとんど口をあんぐりと開いている状態で、望美は演奏を聞く。 ふと、まるで小さな子供がイタズラをするように、知盛は、右手で”スターダスト”を奏で、左手では”きらきら星”を奏でていた。 小さなレッスン室で聴くよりも、更に深みがある音で、望美を夜空へと連れていく。 ふと知盛と視線がぶつかった。 こんな音を聞かされると、こんないきな演出をされると、恋に堕ちずにはいられなくなる。 望美は胸が締め付けられているのに、ふわふわと心地が良い感覚に捕われた。 ヨントリーホールに自分と知盛しかいなくて、たったひとりのために音を奏でてくれているような気分になる。 知盛と望美のふたりだけの空間を与えて貰ったような心地良さにふわふわとしていた。 夜空の散歩のようにロマンティックなライヴの後、望美もそこにいる観客も、暫くは放心状態になっていた。 誰もいなくなったステージに、誰もが”有り難う”と呟いているように聞こえる。 「…素敵なパーティーに招待された気分だったよ…」 望美はほわほわとした気分で、ひとりごちた。 緩やかに腰を上げると、ホールを静かに出る。 清々しい気分で、心地が良かった。 知盛のメッセージ通りに、ヨントリーホールの楽屋口へと向かう。 だが、人々が所謂”出待ち”をしているのは、知盛が指定している入り口ではなかった。 「イタズラかな?」 人が少なくなり、望美はキョロキョロと辺りを見回す。ドアはあるものの、掃除用具入れのようだった。 「ちもちゃん先生はどこにいるんだろう…」 「…おい」 「きゃんっ!」 イキナリ肩を重く叩かれて、望美は背筋をびくりと震わせ戦いた。 心臓が跳ね上がると同じように、躰を跳ね上げさすと、背後からくつくつと笑う声が聞こえた。 「…遅かったな…」 振り返ると、ブラックスーツのままの知盛が、腕を組んで立っている。 「ちもちゃん先生!」 「”ちも”と呼ぶな…」 知盛は片手にしゃらしゃらとキーを揺らしながら、すたすたと先に歩いていく。 「…着いて来い…。送ってやる…」 「あ、あのっ! 打ち上げとかは良いんですかっ!?」 主役がいきなりいなくなっても良いのだろうか。望美が焦っていると、知盛は振り向いた。 「…打ち上げ会場には…、お前を送れば…、戻ると、言ってある…。それまでは…重が何とか…するさ…」 「…いいの?」 「…年頃の…お嬢さんを…夜遅くに…、ひとりで帰らせるわけには…いかないからな…」 知盛は望美の手首を持つと、関係者用の駐車場に向かう。 強くも優しくもない強さで握られて、ときめきを越えた鼓動になる。 知盛らしいシルバーのスポーツカーの前に立ち止まると、鍵を開け、そのままキーをダッシュボードに投げる。 「乗れ」 「あ、有り難う」 望美がちょっこりとタンデムシートに躰を沈めると、知盛は運転席に腰を下ろした。 足が長いせいか、少し窮屈そうだ。 知盛は煙草を口に押し込むと、火を付け、紫煙を大きくはく。どこか疲労の色と充足感が滲んでいた。 「…家はどこだ…」 「極楽寺」 「極楽寺ね…」 知盛はネクタイを緩めると、ステアリングをしっかりと握り、闇に出航する。 その姿に、望美は大人の色気を感じた。 都内を抜けて、横浜、そして鎌倉へ。 ハイウェイで走り抜ける様は、まるで宇宙船にたゆたゆと乗っているような気がした。 何も話さなくても、胸の奥が切なくときめく。 もっともっと傍にいたい。 何も話さなくても、こんなにロマンティックに素敵な気分を味わえる。 永遠にこのままでいたいと思ってしまう。 だが、知盛の車は、望美の家の近くまですぐ来てしまう。 「…このあたりが極楽寺だが…お前の家はどこだ…?」 「あの煉瓦色の屋根です」 「了解…」 知盛は望美の家の前で静かに車を止めると、ドアを開けた。 「…また、レッスンでな…」 「はい」 望美が車から出ようとした瞬間、知盛に腕を掴まれる。 そのまま唇が触れた。 |