Piano Lesson

5th Lesson


 キスされた。
 さらりとしたキスだったが、望美にとっては、深いキスと同じ意味を持っている。
 ひんやりとして少し硬い唇。なのに触れられた部分だけが熱くなる、不思議なキス。
 望美は何度も指先でなぞりながら、知盛のキスを思い出す。
 知盛にしてはたいしたことのないキスだ、きっと。
 そんなことをぐるぐる思いながらも、知盛にきく術なども識らず、望美は悶々とレッスン日まで待った。

 そわそわドキドキしながら、望美はレッスンに向かう。
 知盛のことばかり考えてしまい、喉がからからになるほどに緊張した。
 そっとレッスン室に入ると、知盛は相変わらず椅子の上で眠りこけている。
 教則本を顔に乗せて、そのまま寝息を立てていた。
「先生! レッスン時間ですっ!」
「あー?」
 あいも変わらずけだるさを纏いながら、知盛は教則本を顔から取る。
「…今日は”きらきら星”だったか…?」
「…それは終わりました」
「…じゃあ…”アマリリス”でもやるか…」
 知盛はだるそうに立ち上がると、ちらりと望美を見つめる。
 意味深な艶めいた眼差しに、望美の心臓はわしづかみにされて、呼吸困難に陥った。
 からかうようなセクシィな眼差しを、望美は真っ赤になりながら睨みつける。
「…クッ、つれない表情をするな…。キスをした仲だろう…」
 独特なリズムで話されて、望美は爆発音を派手に出すほどに真っ赤になっていた。
「…あ、あれはちもちゃん先生が、か、勝手にやったんじゃないっ…!」
 望美はドキドキする余りに動揺を隠すことが出来ず、まるで針飛びをするCDのように音が詰まった。
「…勝手に…ね…」
 あくまで愉しそうに笑う知盛に、望美は益々追い詰められる。
 知盛の視線を避けるように、望美は俯いた。
「…したかったから…したんだろう…?」
 知盛はあくまで愉しそうにくつくつと笑っている。それが気に食わない。
「…キス泥棒…。私は、初めてだったんだからねっ!」
「…じゃあ、”ごちそうさま”だな…」
 あくまで愉しそうな知盛に、望美は拗ねたくてしょうがなかった。
「レッスンしましょうか…、お嬢さん…」
 知盛は煙草を口に押し込めると、煙草を美味しいそうに蒸している。
「…嫌だ、ボイコットする。だって、どうしてキスをしてくれたのか、教えてくれないもん」
 望美は拗ねながら、ピアノの前に座ったままだ。
「…理由なんか…いるのか…?」
「理由? 大いにいるわよ。キスには理由がいるのっ!」
 理由がないのにキスなんかして欲しくない。
 好きだとか、そんな温かくてほわほわしたものが欲しいのだ。
「…したかったから…、しただけだろう…?」
 知盛はあくまで大人の余裕を見せている。それが悔しくて仕方がない。
「…だってそんなの理由にならないじゃない」
「…キスに理由なんていらないだろう…?」
 知盛は煙草を片手に愉しそうに言う。大人の余裕が出ていて、悔しくてたまらない。
「…さて、レッスンだ。ピアノを弾け…」
 何でもないことのように言われて、望美は余計に拗ねたくなる。
 こちらは一世一代の大きな悩みだというのに。
「…ピアノをする気はないよ。理由を教えて下さい」
 頑な望美に、知盛は僅かに眉を上げる。
「…理由なんか、どうでも良いだろう…? 俺はしたかったから…、したかっただけだ…」
 理由にならない理由を言われて、望美は口を尖らせた。
「人生の大問題なのに…」
 小さな子供のように拗ねた後、望美は真っ赤な目で知盛を睨みつけた。
「…良い目をするな…?」
「…ごまかさないでよ」
「…どうだかな…」
 知盛は繊細な指を、モノトーンな鍵盤の上に滑らせる。モノクロームだった世界が、途端に色を持つようになった。
 指先で奏でられるのは、”アマリリス”。望美にとっては子供の頃からお馴染みのメロディであるが、妙に心地が良かった。
 知盛が奏でると、何でもないようなメロディが、繊細で尖った色になる。
 こんな音色を奏でられる人間など、中々いない。
 こんな音楽教室で、趣味の粋にも達しない女子高生を教えるべきではない腕を持っている。
「…じゃあキスについてはもう良いから、先生はどうしてここでピアノを教えているの? だって有名なプレーヤーなら、普通はこんなことしないじゃない?」
 望美の問いに、知盛は眉を上げると、鍵盤に視線を投げた。
「…ひまつぶし…」
 ぼつりと聞こえた言葉に、望美は思わず顔を上げる。
 らしすぎて、反論することなんて出来なかった。
「…それマジ…?」
「…さあな」
 はぐらかす名人のような知盛に、望美は苛々が溜まってくるような気分になる。
 どうしてこの男は、いつもはぐらかすことしかしないのだろう。
 望美は拗ねるのを通り過ぎて怒りを覚え、気まぐれに奏でる知盛の指を掴んだ。
 部屋が静けさと緊張に包まれる。
 防音になっているから、勿論、喧騒など聞こえるはずもない。
「…先生はいつもごまかしてばかり…! 真っ直ぐ、人と接したことなんて、ないんじゃないっ!」
 イキナリ望美が爆弾を投げ付けても、知盛は動揺なんて表さなかった。
 真っ直ぐにこちらを見つめる瞳は、どこかはぐらかしたからかいを含んでいる。
 望美は燃え上がるような真っ直ぐとした気質を知盛に見せ付けると、視線を逸らさずに見つめた。まるで自分の目力で知盛を縫い留めるような気分になった。
「…真っ直ぐなのは…青い証拠…だな…」
 知盛の反応は明らかに冷たい。
 それが益々望美を苛立たせる結果になる。
 知盛の冷ややかな視線は、望美の熱をも奪ってしまいそうなぐらいに、冷徹だった。
 大人な冷ややかさは、裏を返せば子供の部分が色濃く遺っている。だからこそ、望美は余計に悔しかった。
 望美はおもむろに、知盛の襟首に掴みかかる。
「…先生って…ひとを本気で好きになったことなんて、ある?」
 一瞬、知盛の瞳が揺らいだような気がした。だが直ぐにいつも通りの冷たさが宿る。
「…さあな…」
「きっと好きだとか、ひとを愛する感情が解らないから、そんな態度になっちゃうのよっ!」
 いくら望美が興奮気味にきつく言ったとしても、知盛にはどこ吹く風なのだ。
 悔しい、悔しくてしょうがなくて、気分が悪くなってしまうほとだ。
 解らせたいなんて、不遜なことは思わないが、せめて想いだけは伝えたい。
 望美は感情を唇に乗せて、知盛を引き寄せキスをする。
 知盛の唇は、本人と同じように冷たかった。
 唇を離すと、悔しくて涙目になる瞳を知盛に向ける。
「大嫌いっ!」
 望美は今出来る精一杯の抵抗を知盛に突き付けると、ドアを乱暴に開けて教室の外に出た。




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