Piano Lesson

6th Lesson


 ただひとり教室に取り残された知盛は、半ば呆然としていた。
 望美が触れた唇を、指で乱暴に触れる。
 確かにひとを愛せないし、愛して貰うことを求めているわけでもないとおもっている。
 そんなことぐらいで、どうして目くじらを立てて怒るのかと思った。
 今までの女は、愛されたいと人形のように思う女ばかりで、正直言って、ほんとうにつまらなかった。
 だが望美は明らかに今までの女とは違う。
 まず激しい感情を知盛にぶつけ、誰も言えないようなことをストレートに言ってくれる。それが何よりも知盛には新鮮だった。
 顔色なんて窺うことはなく、ただ真っ直ぐとこちらに感情をぶつけてくる。
 そんな女など、今までは誰ひとりとしていなかったのだ。
「…先制攻撃にしては…、激しいものを見舞ってくれたな…」
 知盛は苦笑すると、また唇を辿った。
 最初はただのからかいがいのある子供だと思っていた。
 だが余りに真っ直ぐ過ぎて、感情をストレートにぶつけてきてくれるのが、とても新鮮で、気付いたら、いつも目で追っていた。
 今まで、女には追い掛けられることはあっても、自ら追い掛けたことはなかった。
 なのに今回だけは、追い掛けずにはいられなくなる。
 ハンターのように追い掛けたいと強く思ってしまう。
 獣のようにしなやかに煌めく瞳が、知盛を熱くさせる。
 望美の瞳の強さを思い出すだけで、胸の奥が心地良い痛みに支配された。
 今までに識らない感情。
 どんな女にも、増してや家族にすら抱いたことのない感情だ。
 知盛はフッと微笑むと、ピアノの前に腰を下ろして、ゆっくりと煙草を味わい始める。
 逃げれば捕まえるだけだ。
 罠を仕掛けて。
「…しかし、参ったな…」
 知盛は愉しそうに呟くと、長い前髪をかきあげる。
 あんなにも本気になれる相手が出来るなんて、思ってもみなかった。
 触れた唇の初々しさを思い出すと、口角が上がる。
「…次のレッスンが…愉しみだな…」
 知盛は空を見上げながら、また微笑んだ。

 翌週のレッスン日、知盛は何時ものように椅子に座って目を閉じる。
 ここは雑音が入らないから、居眠りをするにはちょうど良い。だが、最近は、その雑音を探してしまうのも確かだ。
 とっておきの雑音を見つけてしまったのだから。
 だが今日に限って気配を感じない。
 何時もならもうレッスンに来ても良い時間なのに、望美は来なかった。
 流石に目を綴じたままで、夢想に浸ってもいられなくなる。
 教則本を顔から取ると、重いレッスン室のドアに視線を投げた。
 重いドアが緩やかに開き、知盛は期待する自分に苦笑する。
 いつものように、元気よく絡んで来るのだろうか。今や何よりも楽しみになっている。
「知盛先生、失礼します」
 顔を覗かせたのは、音楽教室のスタッフだった。
 頬を染めてどこかこびるような眼差しが気に入らない。
 知盛は不快に感じながら、スッと目を細めた。
「…何だ…」
「…春日さん、今日はお腹の調子が悪いからお休みしますって連絡頂いたので」
 ひょっとして仮病かもしれないと知盛は訝りながら、蔑んだ瞳をスタッフに向けた。
 だいたい自分にこびる女は大嫌いなのだ。その点、望美は一度として知盛にこびることなどなかった。
「…先生、30分ほど時間がありますから、宜しければ、お茶などいかがですか? 美味しいザッハトルテがあるんですよ」
 ザッハトルテだろうがなんであろうが、誘いに乗る気になんてさらさらない。
 媚びるような甘えた視線、上目使い。それらは知盛が一番辟易するものだった。
「…いい。俺はここで昼寝をする…」
「そうですか…。では…」
 あからさまにがっかりとしているくせに、しつこく誘って来ようともしない。それがまた気に入らない。本当に欲しければ、自分の手で掴めというのが、知盛の持論だ。
 重いドアが閉まった後、知盛は窓辺に立った。
「…!!」
 窓の外には、望美が立っており、まるで闘いを挑むかのようにこちらを睨み付けている。
 勝ち気な眼差しに、知盛は口角を上げた。
 それなら応えるのみだ。
 知盛はレッスン室を出ると、望美が立っている場所に緩やかに歩いていく。
 決して急いで逢いに来たのだということを、悟られてはいけない。
 悠然と歩いて行くと、望美は驚いたように目を丸くした。
 こちらを怨めしげに見ているが、そこには悪意はなさそうだ。
「…腹が痛い人間が…、ここに立っていられるとは…、思わないがな…」
「今から病院に行くもの」
 腹の痛い人間には見えないほどに、望美はしゃんとしていた。
「…どうだか…」
 知盛が煙草を片手に、くつくつと喉を鳴らして笑うと、望美は余計に憤慨しているようだ。
「…それとも…腹のなかの悪いものを全部出したか…?」
「女の子に、そんなことを言うなんて、デリカシーがないんだよね、やっぱり。ちもちゃんらしいけれどね!」
 望美が一々突っ掛かってくるのが愉しかった。
 今までなら、ただ迷惑で欝陶しいとしか思わなかったというのに。
「腹痛にしては…えらく元気だな…、お前…」
「そっ、そんなことはどうでも良いからさ」
 腕を組むと、望美は知盛から顔を逸らす。
 頬が紅に染め上げるのが、やけに可愛いらしかった。
「…こんなところに立っているなんて…時間の無駄だろう? レッスンが出来る」
「カノン弾かせてくれないから、つまらないもん」
「…お前の努力が足りない…」
 煙草を唇に押し込めて、ライターで火をつけると、将臣は宙に紫の煙を吹き掛けた。
「弾きたかったら、しっかりと練習するんだな…」
「しっかりと練習しているもんっ!」
 いくら言っても堂々巡りだ
 望美は顔をしかめると、知盛をじっとみる。
「ズルイ本当にズルイよ知盛先制」
「…ズルクはない…」
「だってズルイ…っ!」
 小さな子供のように頑なになる望美を、知盛はじっと見た。
「その余裕があるところが気に入らない」
「…どうしてだ?」
「だって、私が子供だってことが想い知らされるみたいじゃない」
「…別にいいだろう…そんなことは…」
 勿論、望美にとっては良くないことだ。
 望美はいきり立ちながら、イキナリ知盛の胸倉につかみ掛かった。
 望美は知盛の唇を奪ってくる。
 まるで狂った果実のように。
 そちらがキスで宣戦布告をするならば、知盛にも考えがある。
 泣きそうな顔で唇を離す望美を、知盛は抱えて躰が肩に乗せた。
「ちょ、ちょっ!」
「宣戦布告、受けてやる…」
 暴れる望美を押さえ込みながら、知盛は涼しい顔でレッスン室へと向かった。
 お誂え向きだ。
 受けて立とう。




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