Piano Lesson

7th Lesson


「ちもちゃん先生、もう先生って呼ばなくて良い?」
「先生と呼ばなくて良い…。ただ”ちもちゃん”はやめろ…」
 知盛は相変わらず煙草を口にくわえながら、けだるそうに宙を見ている。
「先生、ちもじゃん。だから、”ちもちゃん”じゃない」
「変な呼び方は止めろと言っている…」
 知盛は、煙草を灰皿に押し付けて消すと、ピアノの前に立った。
「…さて、無駄話は止めてレッスンを開始しないとな…」
「まだ、私の話は終わっていないよ」
「レッスン時間の無駄だろ?」
 知盛は冷ややかな視線で望美を捕らえると、鍵盤をいくつか弾く。
「先生、”宣戦布告”を受け入れるということは、私と恋愛するってことだよ」
「五月蝿い。話なら後でいくらでも聴いてやる…。とっとと、レッスンを受けやがれ」
 知盛は教則本を開いて指し示すと、顎でピアノを弾けと合図をした。
 視線が恐ろしくて、望美は唇を尖らせながら、鍵盤を叩き始めた。
「約束だよ、ちもちゃん」
「ちもと呼ぶな」
「だってそう読めるじゃん」
 堂々巡りが始まり、またスタートに戻る。
 知盛は呆れたように溜め息をついているようだった。
「…私さ、先生とレンアイ始めても、ホントは何も識らないんだなあって思う」
「…いいから、黙って弾け」
 知盛の低い声で制止を求められると、普通は恐ろしくて黙ってしまうだろう。だが望美にはそんなことより、好奇心が勝った。
「だって名前と、ピアノが上手いという以外は、何も識らないし…」
「…それだけ識っていれば…、充分だろう…」
 知盛がどこかいらだたしくしているのは、その声を聴いていて解ったが、望美はレッスンどころではなかった。
「先生の誕生日だとか、どこに住んでいるとか、そんな基本情報を識らないもの」
「レッスン時間は僅かだ…。無駄話ばっかりしていると…”カノン”は弾けなくなるぞ…」
 余りにとりつくしまなどないものだから、望美は溜め息をつくと、仕方なくピアノに集中することにした。
「…そこまで…」
「有り難うございました」
 全身がコリコリになってしまうようなレッスンが終わり、望美は大きな深呼吸をする。
「…レッスン、終わったよ。ちもちゃん、質問に答えてくれるんでしょう?」
 望美がすかさず言うが、知盛は頭に手を当てて来た。
「質問タイムは後だ…。次のレッスンがある…」
 すたすたとピアノから離れ、煙草で一服をする知盛の背中に、凶器を投げ付けたくなる。
「約束違反じゃないっ! ちも先生の馬鹿っ!」
「…望美、レッスンが終わったら…、答えてやるさ。待っていろ…」
 知盛が甘さを滲ませた視線を投げて来たものだから、望美は仕方なく頷いた。
「解った。じゃあ、一緒に帰ろう!」
「…解った…。俺のレッスンは7時に終わる…」
「待ってるよ」
 望美は教則本をバッグの中に詰め込むと、重いレッスン室の扉を開ける。
「ロビーで待っているからね!」
「…ああ」
 知盛をレッスン室に残すと、望美はロビーに向かった。

 待ち合わせはどうしてこんなに心臓に悪くて、そしてワクワクするものなのだろう。
 片手に牛乳、片手に鎌倉カスターを持って、望美は腹ごしらえをしながら、知盛を待つ。
 時計ばかりを見てしまい、見るとまた溜め息が出る。
「7時までって長いよね…」
 宿題をしても、カスターを食べても、少しも時間は進まない。
 望美が何度も溜め息をついてレッスン室のドアを眺めていると、ようやく生徒が出て来、同時に7時の鐘が鳴り響いた。
「終わった!」
 望美が大声を上げると、レッスン室から出てきた知盛に軽く殴られる。
「うるさい」
「ご、ごめん…」
 望美がしおらしく謝ると、知盛はフッと笑みを浮かべた。
「…行くぞ」
「あ、はい」
 知盛が先にスタスタと歩いて行くものだから、望美はおたおたとその後を着いていく。
「…ちもちゃん、どこに行くの」
 ようやく望美が横に並ぶと、知盛は美しい指先を口元に持ってくる。
 唇の端を触れられて、躰の奥がとろとろに溶けてしまいそうになった。
 鼓動が激しいダンスをする。
 そのせいで望美はからからに喉が渇いた。
「…何を食べたかは…、知らないが…、腹が減っていたんだろう…。クリームがついている…」
 知盛は指先で甘いクリームをついっと取ると、そのまま舐めてしまった。
「…甘いな…」
 知盛の行為も、カスターのクリームも、何もかもが、とてもスウィート。
 甘さが強すぎて、望美はこのままとろとろになってしまうのではないかとすら、思った。
「何か…食べて行くか…」
「おこずかい余りないから安いのにして」
「阿呆、それぐらいは出してやる…」
 望美はほんの少しだけホッとして、肩から力を抜いた。
「…じゃあ、とびきり美味しいものを宜しくね!」
「こっちはあまり詳しくないが…善処しよう…」
「ちもちゃんはこっちのひとじゃないの?」
「京都だ…」
 言われてみれば、そんな雰囲気がある。
 京都のしっとりと賑やかな雰囲気の中で、酒を酌み交わしていそうだ。
 知盛の歩くスピードは相変わらず速い。おたおたと着いていく望美に呆れたのか、知盛はその腕を取って引っ張っていってくれる。
 それが嬉しくてしょうがなかった。腕に食い込む知盛の力はとても心地が良くて、望美は夢見る気分を味わっていた。
 知盛が連れていってくれたのは、和食が美味しいお店だった。
 望美も識っているそこは、力を抜いて食べられるが、雰囲気も良い店だ。
「…じゃあ、生しらすドンブリ定食と、後は生しらすの軍艦巻きー!」
 メニューを見て、望美が高らかに宣言をすると、知盛も同じものを頼んだ。
 注文したものが来る間は、やはり質問タイムになる。
「ちもちゃん、識りたいことを聴いていい?」
「これやる…」
 知盛から渡されたのは、自分のCD。しかもファーストアルバムのようだ。
「これをくれるの?」
「…そこに…、プロフィールが書かれている…。それを読め」
 知盛は煙草を口に押し込みながら、仕事後の一服をしている。
 望美はCDに付いているリーフレットを読み、知盛の基本的なプロフィールを初めて識った。
 25歳で、京都出身、大学からこちらにいること、また、ジュリアードで勉強をしたことがあることなどを識った。
 そして、一番識りたかったのは、バースデー。
「ちもちゃん! もうすぐ誕生日じゃないっ!」
「…そうだったな…。余り…気にはしていない…」
「今度の土曜日だよ! あ、ねえ、その日はデートしようよっ!」
 望美が興奮ぎみに呟くと、知盛は柔らかく微笑む。
「…お手柔らかにな…?」
 バースデー、心がときめく響きに、何を見つけるの?




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