Piano Lesson

Last Lesson


 本当は、煙草の匂いなんて大嫌い。
 だが、知盛ならばそれも許せてしまう。
 きっとそれは、誰よりも好きだから。
 誰よりも知盛と傍にいたいと思っているから。
 唇が離れると、望美は一瞬、上目使いで知盛を眺める。
 言葉なんかいらない。
 一番薄いところで感じる熱が、何よりもお互いの情熱を物語っているような気がする。
 望美は知盛をねだるように抱きしめると、耳元で甘く囁いた。
「リクエスト権、ちょうだい」
「…俺は高いぞ…」
「解っているよ。だから、一曲だけ…」
「今日は」というところはあえて言葉にせず、望美は艶が滲んだ声で囁いた。
「何が…ご所望だ…、お嬢さん?」
「ミニー・リパートンの”ラビンユー”」
「…渋い…選曲だな…」
 知盛の声は満更でもなさそうに響いている。
「識っている? ちもちゃん」
「もちろん…」
 知盛は望美の抱擁を解くと、椅子から離れるようにと促してきた。
「嬉しい、弾いてくれるんだ!」
「スタンダードだからな…」
 知盛は、いつものように煙草を口に押し込めると、繊細なメロディを奏で始める。
 知盛の指先から奏でられる音のほうが、スタンウェイも嬉しそうだった。
 望美の大好きなメロディが、大好きなひとの指先から奏でられる。
 まるで光の幸福のなかにいるような、明るいメロディに、望美は酔いしれる。
 ピアノが歌っているかのように聞こえ、何故だか楽しい気分にすらなっていく。
 幸せな光、愛される喜び。
 それらが総て音に乗せられているようだった。
 こんなにロマンティックな音を、望美は聴いたことがない。
 ピアノだけなのに、深みがあり、繊細で、誰かが歌っているように聞こえる。
 奇跡を耳にしているような気がしていた。
 窓から差し込む光も、総てがお誂え向きだ。
 こんなに素敵な午後に居合わせたことを、望美は神様に感謝をする。
 差し込む陽射しは、まるで天使様の梯子のようだ。それに昇っていけば、その向こうに幸福が待っているような気がした。
 望美のためだけに奏でられる曲は、ロマンティックで全身がとろけてしまいそうだ。
「…素敵だよね…、この曲…」
「自分で選んでいて、自画自賛かよ」
「ちもちゃんのピアノだから良いの」
 本当に涙が出そうになるぐらいに、澄んだ音がする。
 歌詞もなくて、本当に音だけだというのに、こんなにも魂を揺さぶられるなんて。
 今まで出会ったことなどない音だった。
 ピアノが奏で終わった後も、透明な硝子のような余韻に、望美は暫くぼんやりとしてしまう。
 知盛が灰皿を取るために立ち上がるまで、心を奪われていた。
「あっ! ちもちゃんっ! プレゼントがあるんだよっ!」
 知盛が煙草を揉み消す仕種で思い出した。
 望美はバッグから、慌ててジッポを取り出す。
「あ、あのっこれっ!」
「何だ…」
 いきなり目の前に小さな包みを差し出すと、知盛は訝しげな目を向けて来た。
「バースデープレゼント! 受け取って!」
 知盛は受けとらずに、ただじっと包みを眺めている。その冷たい眼差しに、望美は竦み上がる程にドキドキした。
「…あ、あの…。受け取ってくれる? それとも、くれない?」
「…そうだな…」
 知盛はわざと勿体振るように呟くと、スッと包みに手を伸ばした。
「…何だ?」
「ライターだよ」
「…ライターね…」
 知盛は包みを受け取ると、早速開ける。
 気に入ってくれるだろうか? そればかりが頭の中をぐるぐると回る。
「…ジッポか…」
 知盛は手の平の上で軽く転がした後、握り締めた。
「…少し…待っていろ…」
「う、うん」
 知盛は部屋から出ていってしまい、望美はただひとり取り残されてしまった。
ひとりになり、寂しさを感じながら、部屋を歩き回る。
 まるでタイムスリップをしてしまった気分になるぐらいに、クラシカルなロマンティックが溢れている。
「…素敵だよね…。知盛の持ち物なのかな…」
 こんな贅沢な部屋にスタンウェイ一台だけが置かれている。勿論、スタンウェイに相応しい部屋ではあるが。
 静かにドアが開き、知盛が部屋に入ってきた。
 トレーには、アイスティとケーキが置かれている。
「…ほら、食え。どうせ貰い物だからな…。お前は気にしなくて良い…」
「有り難う」
 望美はトレーを受け取ると、小さな椅子に腰をかけ、膝の上にそれを乗せた。
「ちもちゃんはいらないの?」
「…甘いのは苦手だからな…」
 知盛は煙草を綺麗な仕種で口にくわえると、望美がプレゼントをしたジッポで、火をつける。
 その仕種や横顔が大人の男を感じさせた。
 ドキドキし過ぎて、頭がくらくらする。喉が熱くなり、恋情を飲み干すように動かした。
 なんて美しくて、綺麗なのかと思う。
 泣きたくなるぐらいに嬉しくて、望美はただ知盛を見つめた。
 宙に紫煙が大きく吐き出される。
 知盛が本当にリラックスしていることが感じられた。
「…ねぇ、美味しい? 煙草」
「…ああ、美味いな…」
 ニヤリと艶やかな魅力を滲ませた笑みを浮かべられて、望美は天にも昇るような心地になった。
「良かった…!」
 望美が心からの喜びを笑みに表すと、知盛も薄く笑って返してくれる。
「…今日のプレゼントは…上出来だ…」
 くしゃりと髪を撫でられるだけだというのに、胸の奥がきゅんと疼く。
「…誕生日ついでだ…。もうひとつ…プレゼントを貰っても…構わないか…?」
「え…!? な、何を」
 ちらりと浮かんだたとえは”プレゼントは私”。だがそんなことなど、知盛が相手だと、到底言うことなど出来なかった。
「…ひざ枕しろ…」
「えっ!? ひざ枕!」
「…お前の傍なら眠れるような気がするからな…」
 知盛は望美の腕をしっかりと取ると、そのまま部屋の端にあるソファまで連れていかれた。
「…座れ…」
「あ、う、うん」
 ソファは横長で少しばかり眠るのにはちょうど良い。
 望美が腰を下ろすと、知盛は遠慮なく膝を枕にしてきた。
「…お前のは、ちょうど良い枕だな…」
「そんなことを言っても何も出ないよ!」
「…ケチな女だ…」
 知盛は楽しそうに呟くと、深く目を閉じる。その顔は今までで一番安らいでいる顔に見えた。
「…こんなに眠たいのは…久しぶりかもな…」
「いつも眠たそうだよ」
「いつもは本当に眠れていないからな…」
 知盛はフッと笑うと、望美にねだるように呟く。
「…誕生日だから、キスをしろ…」
「もうっ! ワガママ!」
 知盛はワガママな動物。解っていて望美はわざとがましく拗ねると、ゆっくりと唇を近づけていった。
 バースデーキスは、甘い苺の味がする。
 望美がうっとりと微笑むと、知盛は柔らかな笑みを浮かべる。
「…最高の誕生日だな…」
「来年も、再来年も、ずっとずっとお祝いをしてあげるよ」
「ああ…」
 午後の光が優しいぐらいに差し込んでくる。
 奇跡の時間を知盛と過ごせることを、望美は心から感謝せずにはいられなかった




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