最初にそのひとが煎れた珈琲を飲んだ時、世界で一番美味しい珈琲だと想った------ 初めて飲んだのはほんの偶然。 ずっと好きだった男性にフラれ、心がずたぼろになった時、温かいものが欲しくて小さなカフェに入ったのだ。 奥まった場所にある、狭いこじゃれた雰囲気のカフェバー。 カウンター8席、テーブル席も4人がけが2つと、ふたりがけが二つだけ。 店の構えもなかなか洒落ていて、白い漆喰に下は煉瓦が貼ってあり、ドア木製の少し重いが立派なものだ。 そして何よりも、大きな窓が光を差し込んで、店の中が楽園に見えるのが素晴らしかった。 「…温かいものを下さい…」 カウンターに座り俯いたまま、ただそれだけを言うと、フンと鼻を鳴らす音だけが聞こえた。 怒ったのだろうとずっと俯いていると、かしゃりと食器が揺れる音がする。顔を上げると、芳醇な香りを漂わせた珈琲が目の前に置かれていた。 「ほら、飲めや」 乱暴さとやぶっきらぼうな優しさが込められた声に導かれて、ひとくち飲んだ。 「美味しい…!!」 飲んだ瞬間に、世界が素敵に見えてしまう。飲むと同時に歓喜の声が出る。感激の余りに、失恋の胸の痛みなんて忘れてしまうほどだ。 余りに繊細だけれどまったりとした珈琲の味に、するすると飲んでしまう。こんなに美味しい珈琲は生まれて初めて飲んだと言っても過言ではなかった。 心にも躰にも染み通り、先程まで泣いていたのが、自分でも嘘のように思えた。 総てのマイナス感情が消えて無くなってしまうぐらい、美味しい珈琲だった。 心まで豊かにしてくれる不思議な味わいの珈琲。自分が「違いが解る女」にでもなった気分になる。 「もう一杯下さい!」 まるで子供のように、珈琲カップを差し出した。 「お代わりかァ? お前にはもっと相応しいもんがあるぜェ」 少し粗野で太い感じを受ける美声をまじまじと聞いていると、ブロンドが眩しいマスターが振り返る。 まだ若い。 素敵だけれどワイルドで、…少しキチャナイ。凄みを見せる為に生やしている不精髭のせいかもしれないが。 「これであったまって、少ししたら帰れよ。ガキの時間はもうすぐ終わりだ」 ウィンクも荒々しく、ちっともロマンティックじゃなかったけれど、それでも目の前の青年が素敵に見えた。 珈琲の代わりに出されたのは、色が濃い紅茶。一緒にスコーンが生クリームと共に出てくる。 「…あ、お菓子は注文してません」 「サービスだ、サービス。俺様はサービスマンよりサービスするぜェ。まあ昼間の売れ残りだ。良かったら食えや」 「有り難う…」 珈琲が死ぬほど美味しかっただけでも凄いのに、サービスでスコーンが出るとは。 大好きな男性にフラれた日の筈なのに、今はこんなにも幸福を感じる。 「…いただきます…」 「ドーゾ」 恐縮しながらスコーンを一口、紅茶を一口。 「あら、やだ! 美味しい!」 本当に美味し過ぎて、思わずカウンターから身を乗り出して、マスターにこの感激を伝える。そうしなければいられないほどの感動だった。 「美味しい…! この紅茶は何て味ですか?」 「ホットラムティーだ。心も躰も温めてくれるぜェ!」 ニヤリと勝ち誇った笑みを浮かべるマスターを見て決める。 ここしかない。 既に心は失恋万歳だ! 失恋しなければ、こんな素敵な店を知ることはなかったのだ。 失恋万歳! プラス思考がいつも信条のせいか、瞳に涙なんてもうなかった。 「マスター! 弟子にしてください!」 高らかと宣言をすると、マスターは驚いたというよりも呆れたような顔をしてきた。 「あ〜? お前ェ、頭が沸いてるのかァ?」 「沸いてませんっ!」 きっぱりと真面目に言うと、マスターは少し神妙な顔をする。 「ガキのバイトは雇ったことはねェんだよな…」 ぶつぶつとどこか面倒臭げに言ってはいるが、その表情で真剣に考えてくれているのが解る。 しばらくぶつぶつと言った後、マスターはピタリと見つめてきた。 「仕方がねェ! ここまでうちを見込んでくれるガキも珍しいからな。よし! 俺様のところで働け! みっちりと修業させてやるぜェ」 思い切りよくマスターが言ってくれたので、ホッとしたのと同時に、とても嬉しくなる。 「宜しくお願いします!」 頭を下げて契約成立。 全く転んでもただでは起きない性質だと、我ながらよく思う。 カフェバー「天使の庭園」のアルバイト、エンジュの誕生だった。 今日も遅れないようにと、授業がはねた後、エンジュはアルバイトに向かう。 最近は友人であるアンジェリーク・コレットや、レイチェルも、カフェバー『天使の庭園』顔を出してくれる。 常連になりつつあるぐらいだ。 エンジュの知っている常連は、友人たちと、レオナードの大学時代の同期アリオスだけだ、今のところ。 常連も気の良い連中ばかりなので、職場も楽しくて、楽しいバイト生活爆走中である。 バタバタと制服からカフェの可愛いスタイルに着替える。 夕方から始まるカフェバーの準備で狭い店内に入ると、見馴れた光景が繰り広げられていた。 「またですか」 エンジュはもう自分では何度目の溜め息かが解らないものを吐いた。 ここでアルバイトを始めてから、見えるようになったことと言えば、やはりオーナーレオナードの人柄。 紅茶や珈琲、ケーキと言ったデザートは勿論のこと、ランチに出すパスタやサンドウィッチに至るまで、本当に素晴らしく上手に作る。 だが、ひとつだけ難点があるとするならば、女ぐせが悪いことだ。 何時でも何処でも違う相手で、キスやらハグやら平気でやる男だ。 後はヘビースモーカー過ぎて、吐息が臭い。こんなニオイの男とは絶対にキスなんか出来ない。 料理の腕はともかく、女ぐせの悪さは勘弁してほしいレベルだった。 当然、今日も女を連れ込んで、準備中の店内で堂々とハグとキスを繰り返している。 料理の下拵えが出来ていなかったら、きっとモップで叩いていただろうし、絶品のカツサンドが賄いに出なければ、きっとドツキ倒していただろう。 あくまで、我慢、我慢。 エンジュはモップを片手に黙々とフローリングを磨きにかかる。 今日は友人のアンジェリークとレイチェルが、開店と同時にカツサンドを食べに来てくれる予定だ。 友人の手前もあるので、エンジュは笑顔の練習をした。 エンジュが床を総て研き終わる頃、レオナードと女のハグがようやく終わる。 「またね、レオ」 「またなァ!」 女にデレデレとして手を振るレオナードを、憎らしく想いながら、エンジュはひたすら開店準備に勤しんだ。 「んな、コワイ顔をするなよォ、エンジュちゃ〜ん。接客業の基本は笑顔だぜェ」 誰がこんな顔をさせたのかと、本当に怒ってやりたかったが、エンジュは無視を決め込む。それがレオナードには不満らしく、目の前に立ちはだかった。 「エンジュ、無視するんじゃねェよ。俺様がここのオーナーなんだからよ。不満があったらチャッチャと言えや」 「無視はしてません。呆れかえっているだけです」 ぷいっと背を向けて仕事を続けると、レオナードの舌打ちの音がした。 「お前ホントに憎たらしい女だわ」 「お褒めに預かって光栄ですっ!」 7時を過ぎてバーに姿を変えるまでは、レオナードとエンジュ、そして同じく高校生バイトのユーイの三人での布陣なのだが、いつも険悪のまま働いている。 休憩時間も終了し、いよいよ再開だ。 最初に入って来たのは、常連客のアリオス。近くの設計事務所で一級建築士として勤務をしている。レオナードの友人で、こうして現場帰りに寄ってくれるのだ。 いつも食べるメニューはカツサンドとホット珈琲。毎日、毎日、飽きないのかとエンジュが想うぐらいだ。 いつもの席に座り、いつもの注文。時間潰しに新聞を隅々と読んでいる。 レオナードの店は本当に小さく、しかも味がかなり評判なこともあり、すぐに一杯になり、相席になることもある。 エンジュの友人であるアンジェリークとレイチェルが来た頃には、既に満員だった。 「あー、エンジュのオトモダチ、悪ィけど俺のダチと一緒に座って貰って構わねェか? ミックスジュースをサービスするから」 「はい…っ!」 現金なアンジェリークは、栗色の髪を揺らして頷く。エンジュの上を行く食いしん坊のアンジェリークには、レオナードも一目置いていた。エンジュの友達ということで、いつも大きめのサンドウィッチを作ってやっている。 「失礼します…」 新聞を読んでいるアリオスにアンジェリークが声をかけても、気のない「ああ」が返ってくるだけ。 アンジェリークが気を遣って恐る恐るしていることを、エンジュは直ぐに気付いていた。 そっとアンジェリークに近づき、注文を伺う。 「アンジェ、レイチェル、何にする」 「ふたりとも、カツサンドとミックスジュース! レオナードさんの奢りでね!」 「ジュースだけだぜェ、ジュース!」 レオナードの笑みを含んだ叫び声に、エンジュは舌を出してやった。 さて。 このアンジェリークは、余程の腹減らしである。しっかりと食べても直ぐにお腹が空く、胃下垂体質。 向かいにいる新聞で隠れた男のことなどは少しも気には止めず、アンジェリークはレイチェルとお喋りに興じる。 「ここのカツサンド楽しみなんだ。野菜も入っていて美味しいものね!」 「アンジェは全く食べ物の話ばっかり!」 ころころと笑うレイチェルに、アンジェリークは少しだけ拗ねるような笑みを浮かべる、それがまた愛らしい。 笑っていると、アンジェリークはかなりお腹を空かせていたせいで、大きくお腹を鳴らした。 これには流石のアンジェリークも恥ずかしい。しかも、新聞で顔が隠れていた男が、顔を出して来たのだ。 こうなると恥ずかしさも窮まる。 「おい、そんなに腹が減っているなら食えよ。俺はまだ手をつけてねェから」 お店で見たことはあっても、話したこともない相手にイキナリサンドウィッチを差し出されて、アンジェリークは戸惑いを隠せない。 だが目の前には美味しそうなカツサンド。喉とお腹が鳴る。 「ほら、おまえさんの躰は食いたいって言っているぜ?」 食べろとばかりに、目の前の男が差し出したが、果たして信じても良いものなのか。アンジェリークは訝しげに男を見ながら、ちらりと魅力的なサンドウィッチを見る。 美味しそうで益々よだれが出てきて、生唾を飲んでしまう。 「ほら、早く食っちまえよ」 「あ、はい…」 男の強引な眼差しと、カツサンドの誘惑に勝てなくて、アンジェリークはとうとう手を出した。 横にいるレイチェルが呆れているのは判っている。 だが、止められなかった。 「美味し〜!」 食べてみると、やっぱりカツサンドは美味しくて、食べやすいように八等分にしてあるものをあっという間にぺろりと平らげてしまった。 「お前さん、すげえ、見ていて気持ちよいぐらいの食いっぷりだったぜ?」 喉を鳴らしてくつくつと笑いながら、男はさも愉快そうに言う。 「…だって、美味しかったですもん…」 アンジェリークは男の態度に羞恥を感じながら、拗ねたような表情をした。 全く恥ずかしい…。自分の食い意地が。 「----そんなに美味かったのか、どれ?」 「え!?」 アンジェリークは驚く暇も与えられない。 男が、疾風のようにキスをしてきた----- |
| コメント アリコレ、レオエンを絡めながらの新しいお話です。 ひたすら、甘く、可愛くを目指します。 よろしくです。 |