〜異間人館夏休み特別企画〜
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序 慈悲は強いらるべきものではない。 恵みの雨のごとく、天よりこの下界に降り注ぐもの (シェイクスピア『ヴェニスの商人』) 緩やかな光の中に、彼はいた。 現であっても夢であっても、彼の活動とする場所は闇であった。 珍しいことがあるものだと、目を少し眇めながら、アリオスは先を進む努力をする。 不意に、目の前に、まだ年端のゆかぬ、美しい娘が姿を現した。彼女は何の汚れもなく、自分には最も似つかわしくない部類の人間だと、彼には思えてならなかった。 「あなたはほどなく安らぎを得ることが出来るでしょう。これからあなたを癒してくれる光です」 それだけを言うと、その少女は、彼の前から立ち去ってしまった。 誰だか全く判らない。ただ、その旨には、しっかりとロザリオが握りしめられていた。 ●●● はっとして、アリオスが目覚めたのは、陽が南中を始める頃だった。 彼は神妙な顔をしてベッドから出ると、キッチンに向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、それを飲み干した。 「これから、教会に依頼人に会いに行くから、こんな夢を見たのかよ…」 大きな溜息を吐くと、アリオスは乱れた銀の前髪を僅かに整える。 予定表と時計を交互に見ると、もう出かける準備をしなければならない時間だ。 シャワーを浴び小綺麗にしてから、素早く戦闘服に着替え、銃を懐のホルスターに、大剣は背中に装備した。 そこまで僅か20分。 彼は煙草を口に銜えライターで火をつけると、宙に紫煙を吐く。 これで、戦闘準備は万端だ。 1 辿り着いたのは、森の中の古びた教会だった。 木々の葉の隙間から、柔らかな春の日差しが僅かに注いでいる。 「こんなところに教会を造っても、誰も祈りに来やしねえだろう…。しかし、でっけえ聖堂だぜ」 アリオスは鼻を鳴らすと、蔦の絡まった教会の聖堂に向かって、ゆっくりと歩みを進めていく。 深紅が鮮やかなレザーのジャケットの背後は、裾が足下近くまで長くなっており、それが、歩く度に優雅にも揺れていた。漆黒と深紅の組み合わせの戦闘服は、彼の冷たさを助長している。 背中には大剣が、鈍い春の光をはじいて、不適にも輝いていた。豊かな身長のせいか、大剣を背負ってはいても、堂々とした風格のある剣士に見える。 歩く度に揺れ、春の光を浴びる銀の髪と、教会のドアを見つめる翡翠と黄金が対をなして輝く瞳は、油断ならない輝きがあった。 彼は、黒のレザー手袋に包んだ手を、芸術的には価値のありそうな扉の取っ手に置こうとして、目を僅かに細める。 「ビザンチン様式か…」 低い声で吐き捨てるように言うと、彼は一気にドアを開ける。 その瞬間、銀色の髪が風に煽られて揺れた。 中に入るなり、彼の異色の瞳は煌々とと輝き出す。 「悪魔と教会ほど不釣り合いなものはねえな」 すぐに、カスタマイズした愛銃”レヴィアス”を抜くと、高い位置にある天窓から、猛 スピードで降りてくるクリーチャーに向かって、構える。 凡人には想像できないような、巨大な鷲のようなものが、凶悪な表情と共にアリオスに狙いを定めてやってくる。 その赤い目は狡猾で抜け目ない。 聖堂を覆うような羽根を広げられて威嚇をされても、アリオスは少しも怯むことはなかった。 彼は絵に描いたように冷静で、その形の良い唇に、僅かだが微笑みすらも浮かべている。 地鳴りのような鳴き声を高らかに上げながら、羽音をたて、鋭角に飛び込んできた。 凶器となる鋭い嘴が視界のど真ん中に入ったとき、銀の髪をした青年ハンターは、クリーチャーに向かってトリガーを引いた 聖堂に銃声が響いたのと同時に、弾丸はクリーチャーの急所を抉る。 そこに猛獣の甲高い叫びが届いたのと同時に、鷲の化け物は、ゆっくりと大きな音を立てて、床に横たわった。 少し遅れて、薬莢が床に落ちる冷たい音が、聖堂中に無機質に鳴り響いた。 横たわったクリーチャーの遺骸は、すぐに消えてなくなり、再び静かな聖堂に戻った。 アリオスの鋭い眼差しは、聖堂の前方にある祭壇に向けられる。 そこには、修道女が一心不乱に祈りを捧げていた。 彼は、表情を少し険しくすると、彼女に向かって確実に歩みを進める。アリオスが近づく度に、ブーツの踵が床を蹴る音が、緊張のなか響く。 「この騒ぎの中を、よくも静かに祈りを捧げられるもんだ」 アリオスは、彼が来ようとまだ祈り続ける修道女の直前で、ピタリと歩みを終えた。 「 あんたか? 俺を呼んだのは」 修道女は小さく頷いたかと思うと、立ち上がり、振り返る。鈍色の光に輝いた姿がゆっくりと振り返る瞬間は、スローモーションになり、まるでセピア色の映画の風情があった。 「あなたが、アリオス様ですか?」 愛らしい声と共に、アリオスに初めてその容貌を晒した修道女に、彼は息を呑む。 まだ、ほんの少女といえる年齢だったからだ。 今朝見た夢が、具現化したような姿に、彼は目を細めた。 修道女のヴェールに髪を隠しているせいか、澄み切った紺碧の大きな瞳が、より強調されている。 魂の奥底までの深い感動が彼の躰を覆い、ゾクリとするほどの感銘を得た。28年生きてきた中で、こんなにも澄んだ人間を見るのは、幼い頃に亡くした母親以来のことだと、アリオスは魂の奥底で感じた。 不思議そうに小首を傾げる修道女に、彼ははっとして、自嘲気味に笑う。それは、魂を揺さぶられた自分への、ちょっとした戒めであった。 (悪魔の血を受けし者が、こんな小娘の修道女に癒されるなんて…) 「 そうだ。俺が、あんたがご所望のアリオスだ」 「やっぱり」 彼女はほっとしたとばかりに、穏やかな溢れんばかりの光を放つ笑顔を彼に向ける。 それは、春の日差しよりも更に暖かな、生命力に溢れる聖なる光だった。 彼女の微笑みだけで、あたりが一気に明るくなり、彼は思わず目を眇める。それは、異形の血を引くアリオスにとっては、眩しすぎるものであった。 「私は、スモルニィ修道会の見習い修練女、アンジェリークと申します」 丁寧に挨拶をするところ清々しく、彼女には、マイナスのオーラは全くと言っていいほど、感じられない。 「見習い修練女?」 「ええ。私はまだ誓願を立てたわけではありません。神様に十分にお仕えをしてから、誓願を立てるのです。ですから、私はまだ”修道女”ではありません」 穏やかに話す彼女は、本当に輝いており、アリオスはその横顔を暫し見つめずにはいられなかった。 「俺が悪魔の血を引く、デヴィルハンターだから、修道会は、俗世に近いあんたを寄越したのか?」 「いいえ、そうではありません」 アリオスが無表情で冷たい雰囲気で話しているのに対して、アンジェリークは常に穏やかな笑顔で、全くふたりはこういったところでも対照的だ。 「私よりも俗世に近い見習い修練女は沢山います。私がここに来たのは、この古い教会で子供の頃育ったからです」 懐かしそうに目を細めて、彼女は常に微笑みを絶やさない。そこからも、ここには沢山の思い出が詰まっているのが判った。 「今は、この教会の統括している、スモルニィ修道会にお世話になっていますが、ここの教会の孤児院で育ちました。今は、この聖堂しかなくなりましたが、立派な教会だったんですよ?」 「だったら、その立派な教会が、どうしてこんなに朽ち果てたんだ」 不意にアンジェリークの表情が強張ったものに変わる。先ほどあったあの温かな微笑みは、跡形もなく消えた。 「この教会の奥の森に、悪魔たちが巣くうようになり、ここも荒らされてしまったんです。教会にあった泉が枯れ、建物も朽ち果て、私たちは住めなくなり、スモルニィの孤児院に移りました。だけども、この聖堂だけは、マリア様のご加護で無事でした。せめて、ここだけでも無事であればと思っておりましたが、先ほどのことで、お解りのことだと思いますが、悪魔たちがここまでも浸食しようとしています。今までは、マリア様がお守りくださっていたので、ここだけは何とか残っていたのですが…」 アンジェリークは畏敬の念を込めて、古びたマリア像を見上げ、胸に掛けられたロザリオを、しっかりと握りしめる。 「ここを浸食すれば、次は、今、私のいるスモルニィ修道院になるでしょう…。そこにも、孤児院がございます。ただでさえ孤児であるのに、その心のよりどころを失う子供たちを、見るのがいやなんです…。かつての私がそうだったですから…」 アリオスはただじっと、アンジェリークの話に耳を峙てて聞いていた。その表情は、全く氷のようなままだ。 「 それで、俺にその悪魔の巣を何とか退治して貰いたいと?」 「はい。悪魔の力で、こんな姿になった教会を救うことが出来るのは、あなた様だけだと、お聞きしましたので」 アンジェリークの声は凛として澄んでおり、一切の迷いなどなかった。意志の堅さを象徴するかのように、唇をきっと結んで、アリオスを見ている。 「悪魔の血を受け継ぐ俺に、神に仕えるあんたたちが頼むなんて、何とも皮肉な話じゃねえか」 彼は形の良い眉を僅かに上げ、その因果を表情に現した。 「お願いです…。この場所を、そして、スモルニィを守ってください!!」 今にも泣きそうな大きな瞳で、アリオスに懇願してくる濡れた大きな紺碧の瞳は、彼の心を突いてくる。あまりにも純粋で、美しすぎて、彼には眩しすぎて、苦しげに瞳を閉じる。 何も打算がない眼差しに出会ったのも、28年間生きてきて、これが2回目だった。もちろん最初は彼の母だ。愛だけを信じ、悪魔と恋に落ちた母 その母親と、アンジェリークの瞳の輝きは、どことなく似ていた。 「…無理ですか…」 アリオスの沈黙が否定と受け取ったのか、可憐な声は、失望に打ち震えている。その声まで聞かされると、たとえどんな仕事であったとしても、引き受けないわけにはいかなかった。 彼の鋭く澄んだ瞳は、アンジェリークを捕らえる。 「 案内してくれ」 「はいっ!!」 アンジェリークの表情は、先ほどと同じように一気に明るくなり、嬉しげに明確に頷いた。 「こちらです!」 「ああ」 前を行くアンジェリークが、眩しい。彼女が陽の光に祝福されているだけではなく、彼女自身が光のようにアリオスは感じだ。 同時に、彼は彼女の左足の運びがおかしいことに気がついていた。 教会の外に出て、彼女は、木々が鬱そうと茂る奥に向かって歩き出す。 そこまで来ると、アリオスの天性の勘が、悪魔臭さを敏感に察知していた。 「なあ、いくつか訊いてもいいか?」 「どうぞ?」 「俺が、あの鷲の化けもんと戦っているときに、あいつはどうしておまえを襲ってこなかったんだ?」 穏やかな笑みを浮かべて、アンジェリークは、澄み切った春の空を見上げる。天を仰いでいるように、アリオスには見えた。 「 私が、子供の頃から、あのマリア様に守られて、生きて参りました。私がこの教会に捨てられた時は、酷い熱だったらしいです。マリア様のご加護で、私は命を取り留めることが出来ましたから、子供の頃から、ずっと祈っておりました」 彼は、彼女のモノローグのような告白に、表情を変えずにじっと耳を傾けている。 「彼らが、私に危害を加えることが出来ないのは、私がこの地の祈り手だからだと、マザーは仰っておられました。この地であれば、私は守られて、悪魔からの危害を受けることがないそうです」 天を仰ぐ彼女は、平安と円満を讃えた穏やかな表情していた。 「じゃあ、あんたは、俺から危害を受けねえから選ばれたのか?」 アリオスは僅かに唇を上げて意味深に笑い、アンジェリークはそれにいきなり吹き出してしまう。 「そんなことはないですよ?」 ころころと笑うその姿は、どこからみても17歳の屈託のない笑顔だった。 「あんたはそうやって、屈託なく笑っている方があってるぜ?」 これには彼女は頬を薔薇色に染める。ヴェールのせいか、それが目立っている。 「…嫌なこと訊いていいか?」 「どうぞ」 「脚はどうしたんだ?」 これには、動揺を一切見せることなく、アンジェリークはいつもと変わらない表情だった。 「そのことですか。全然嫌じゃないことではないです。この脚は、ここの孤児院棟が、悪魔たちに襲われて壊されたときに、最後までいて、逃げ遅れたんです。それで建物の下敷きになってしまったんです」 淡々話す彼女は、どこか清々しい感すらある。 「 だったら、余計に、この巣窟を退治せねばな」 「有り難うございます」 アンジェリークは深々と頭を下げると、本当に感謝するとばかりに十字を切った。 「よせ。俺にはそんなもん似合わねえ」 アリオスが軽くたしなめると、彼女は少し躰を小さく縮こませる。 「…すみません」 「俺は、ロザリオに縁のねえ家業だからな」 「すみません」 「何度も謝るなよ。おまえは、謝るようなことはしてねえんだから。ほら、先に行くぜ」 アンジェリークは頷く、足を引きずりながら、森に向かって歩みを進める。 教会の裏手の森に出た頃には、アリオスの眼差しは、更に研ぎ澄まされたものになっていた。 「悪魔臭いな…」 「ええ、この先の泉を悪魔は占拠しています。泉は、かつて”聖なる泉”と呼ばれて、美味しい躰に良い水が湧き出ていたのですが、悪魔が占拠してからは枯れてしまいました」 アリオスは、彼だけが持つ特殊な感覚を澄ませて、森の奥をじっと見やる。 「悪魔の反吐が出る臭いがしやがる」 アリオスは唾を吐き出したくなる衝動を、押さえ込まなければならなかった。 「だが、かつて清に澄んでいた場所が、どうしてこんなになっちまったんだ!?」 「あれです」 彼女はきっと強い意志の持った眼差しを上に向ける。その行方を追えば、すぐにその理由は理解できた。 そこにあったのは、この地を乱開発をし、すっかり元の姿をなくしてしまった山だった。 「あの山は、悪魔封じの山だったそうですが、地元の人たちの反対も訊かずに、業者が乱開発をしました。その結果、そこに封じられていた悪魔が復活し、ここに巣食う原因になりました。そのことに業者側も気がつき、すぐに慌てましたが、もう後の祭りでした。猛省した彼らは、今回の悪魔退治に全面の強力を金銭面でしてくださることでしたので、あなたをお頼みすることが出来たのですよ」 淡々と話すと、彼女は彼に信頼の眼差しを送った。 「お願いします。あなただけが頼りなのです」 「ここの悪魔たちがいなくなったら、どうするんだ」 「再び修道院を建て、なくなった悪魔を封じると共に、慰めていきたいと思っております」 彼女の言葉は、どれも堅いものであったので、アリオスはすぐにそれが、教え伝えられたことであることが判る。 「 悪魔を封じ、慰める修道院…か。俺が、もし、くたばっちまったら、ここで魂を慰めてくれよ」 冗談か真剣か区別がつかないような調子で彼は話し、空を見上げた。 それは美しい青から、茜色に染まり始めている。 「まだまだ未来のことでしょう。私もあなたが”くたばる”頃は、土の下だわ」 時折見せる少女らしい話し方や言葉遣いの方が、見習い修練女の顔よりも、アリオスには何倍も好ましいものであった。 「さあな」 アリオスは今度は土を見、そこを蹴り飛ばす。 「 場所が判れば、それでかまわねえ。あんたを、修道院近くまで送ってやるから、帰りな。片づけ終わったら、連絡してやるから」 「いいえ! 私も、ここに残ります」 きっぱりとした、今までにない強い主張だった。その表情は、一片の曇りすらない。 「おまえみたいな処女は、悪魔の餌食になって喰われちまうのがオチだ。いいから、とっとと、帰って、待った方がいい」 アリオスはお話にならないとばかりに、冷静に彼女の願いを一蹴した。 「いいえ! 私は見届けなければなりません。この地を犯した悪魔を…」 それは頑固と言うには、生易しい言葉だった。彼女の意志は岩のように強固に思える。 小さく華奢な躰は震え、その想いが強いことを、アリオスに知らしめた。 「あの教会で、あなたの帰りを祈りながら待っていますから」 「夜になれば、あの教会だって、悪魔が巣くう。やめておけ」 「私は祈っていれば、悪魔にやられることはありません!!」 きっぱりと言われれば、アリオスとて否定することは出来ない。現に彼は、彼女に、クリーチャーが襲っていかなかったことを、目の当たりにしたのだから。 「教会で祈っていますから…」 夕日に染め上げられて、懇願するアンジェリークの横顔は、何とも言えずに美しく、清らかであった。 それを、見惚れるように彼は見つめる。 何人よりも清らかな彼女に懇願されては、彼も、彼女の考えを否定できるほどの、弁が立たないことを感じていた。 考えるように、少し瞳を閉じるアリオスを、アンジェリークは期待するような眼差しでじっと見上げる。 「 しょうがねえ…。そこの教会まで送っていってやる。ただし、俺が帰ってくるまでは、絶対に教会に誰も入れず、そして、おまえも外に出るな。内側から鍵を掛けておけ」 アリオスにしては最大の譲歩だった。それどころか、いつも自分の信念を堅く曲げずに生きてきた男が、この年端のゆかない修練女見習いに、折れた瞬間でもあった。 「日が沈む。教会に送っていく」 「はい」 二人は、再び、元に来た道をゆっくりと帰り始める。 空は、不気味な茜色に姿を変え始めていた |