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祖母が亡くなった日は、鈍色の空が低く垂れ込めていた。 記憶にあるのは、空の色と、小さな柩に横たわり白粉で紙のように白く化粧をされた祖母の顔。 恐らく、父や母が私の横についていてくれていたのだろうが、それすらも記憶にはない。 野辺の送りを終え家路に着こうとした時、伯母が私に向かって手招きをした。 「アンジェちゃん、ちょっといらっしゃい」 私は肩までの栗色の髪をふわりと揺らして頷きながら、伯母のところまで走っていった。すると叔母は私を小さな祖母の部屋に招き入れてくれた。 子供の頃は祖母の部屋が”宝の部屋”に見え、足しげく通ったものだ。 懐かしく、今でも祖母の部屋はあの頃から時計の針を少しも動かしてはいなかった。おもちゃ箱をひっくり返したワンダーランド。懐かしくて、 ひとつずつ調度品をなぞった。 記憶がシャワーのように私の躰を通り抜けて、とても懐かしく甘酸っぱい想いが心に過ぎる。 子供の頃、私はスパイだった。 おばあちゃんがスパイの親玉で、私は学校の出来事をつぶさに伝える。「今日は異常ありません」とか「誰と誰が休みました!」とか。 私達一家が都会に引っ越すまでそれは続き、わたしはずっとその間はスパイだった。 懐かしい…。 私がノスタルジーな世界に足を踏み入れぼんやりとしていると、横では伯母がばたばたと捜しものをしていた。 「おかしいわねぇ」「どこに行ったのかしら」そんな常套句を言いながらあたふたとしている。 おばあちゃんそっくり。 懐かしいくすくす笑いが、私の中にこだまする。 「あっ! あったわ!」 伯母の声に私が振り返ると、まるで宝の山を掘り当てたような充実した顔があった。 「おばあちゃんに言われていたのよ。あなたにこれを渡してくれって」 伯母が手に取っていたのは、私が幼い頃に”宝箱”と呼んでいた祖母の手文庫だった。 蓋には羽根の形をした七宝焼が埋め込まれている、それは美しいものだ。 今でもその輝きは失われてはいない。本当に美しかった。 「開けていいかな?」 「どうぞ。もうこれはあなたのものなんだから」 「有り難う」 伯母から手文庫を丁寧に受け取り、私は震える手で蓋を開ける。 開けた瞬間、感動が降り注いできて「これだ!」と思わずにはいられなかった。 祖母が持つ多くの調度品の中でも、私が一番気に入っていたもの。 手文庫の中には、使い込まれてはいるがこれからも長い間使うことが出来るものばかりだ。 立派な羽根ペン、クリーム色で立派な便箋と封筒がたっぷり、インクの大きな瓶がふたつ。 そして羽根が着いた蝋の封印。 総てが完璧なものだった。 懐かしさと憧れに、私は目を細める。 かつて恋人同士だった祖父と祖母。祖父にはよく、この手文庫の文具を使って恋文を書いたものだと、教えてくれた。 そこには愛が詰まっている。永遠の愛が詰まっている。 大好きな空間。 私は、かつての想いに共鳴し、涙を一筋流した。 「私は行くけれど、アンジェはどうするの?」 「もう少し…、おばあちゃんとお話ししていきます」 「そう…。ゆっくりなさいね」 伯母はにこやかに笑って頷いた後、優しく部屋を後にした。 これで私とおばあちゃんはふたりきり。積もる話も色々と出来る。 改めて祖母が使っていた、小さなチェスト前に腰掛ける。 祖母はロマンティストでいつも素敵だった。その血が私に脈々と受け継がれているのは、間違いはないと想う。 祖母は17の時にこの手文庫を手にいれて、程なく祖父と出会い、付き合い始めた。 長い間、手紙のやり取りがふたりの絆を結ぶものだった。事情で会えなかったのだという。その事情が何であったかは、もう祖母しか知らないこと。誰も彼もが知らないこと。 手紙が主流のアナログな恋。 私はそれを切に羨ましく想う。 祖母が体験したような、スローな恋をしてみたい。私の希望だった。 柔らかな陽射しが窓越しに入ってくる。きっと祖母がそこにいて、私を見守ってくれているのだ。 嬉しかった。 何時でも陽射しになって見守ってくれる祖母に、いつでも会えるのだから…。 ふと、一度だけ祖母に聞いたことがある話を思い出した。 ずっと忘れていたのに、時間が鮮やかに瞬間、瞬間を蘇らせてくれる。 祖母は温かい手を置いて、楽しいおまじないの話をしてくれた。 「おばあちゃんが若い頃、そうね…、17歳ぐらいの頃だと想うけれど…、羽根の手文庫を手に入れたの。沢山の素敵な道具がいっぱいに詰まっていて、それはもう感激をしたものよ。手文庫の道具を使ってみたくて、手紙を書いてみたくて、架空の人物に手紙を書いたの。いつか出会うことになるだろう、運命の男性、王子様に…。たしか書き出しは、”親愛なる誰かさんへ”だったかしら。すると不思議なことが起こったのよ! ”親愛なる誰かさん”に出会ってしまったのよ! それがお祖父さん。私達はそれから8年間愛を育んでとても素敵な結婚をしたのよ。運命の手文庫かしら」 まるで小鳥が歌うかのように、祖母は笑いながら言ってくれた。このことを聞いたのは、これ一回限りだったけれども…。 ずっと忘れていたことを、こうやってまた思い出すなんて、不思議な縁があるものだと、思わずにはいられなかった。 「…私も…同じ事をやって見ようかな?」 陽射しが揺れ、祖母が笑ったような気がした。 車に揺られて、自宅に戻る間も、私はずっと手文庫を抱きしめる。とても大切に、それが祖母自身に思えて、愛しく大事に想った。 家に戻り、制服を脱いで楽な私服に着替える。手文庫は机の上に大切に置いた。いつも見守って貰えるように一番の位置に置く。 手紙を一通書いてみようと想う。 まだ見ぬ愛しいあなたに、時間を越えて手紙を書くのだ。 そうすればきっと、祖母と同じように運命の男性と出会えるかもしれない。夢見心地の17歳としては、試してみない手はない。 私は机の上に向かい、深呼吸をしてから、慎重に手文庫を開けた。 開けると不思議な風が流れているような気がした。どこかの草原の薫りがする。それを精一杯に吸い込んだ後、羽根ペンとインクボトル、便箋を取り出した。 もう一度深呼吸をして気持ちを整えてから、手紙に向かう。 ゆっくりと確実に羽根ペンをインクボトルにつけ、紙に滑らせた。 親愛なる誰かさんへ。 私の名前はアンジェリーク・コレット。17歳。スモルニィ女学院に通っています。 アンジェリークという名前の意味は”天使”です。凄く気に入っている名前ですが、時々、名前負けかな、なんて想うこともあります。 趣味は食べることです。お腹いっぱいにごはんを食べると、凄く幸せな気分になります。 空を見るのも大好きです。勿論、とても綺麗だから、そう想うんですけれどね。 あなたはどんな方ですか? きっと素敵な方でしょう。私もあなたをめいいっぱいに幸せにしますから、あなたも私を幸せにして下さい。ふたりで幸せになりましょう。 ふたりでいっぱいいっぱい幸せになって、いっぱいいっぱいみんなを幸せにしましょう。 ふたりで色々な所にいって、沢山良い想い出を造りましょう。 あなたに出会い、沢山の想い出が作られる事をずっと夢見ています。 いつか逢ったらすぐに解ります。 あなただと。 直ぐに現れて下さい。 お願い…、きっとです。 大好きなまだ見ぬあなたへ。 アンジェリーク。 私は何度も読み返し、不思議な幸福感を味わう。私はほわほわとして堪らなく素敵な気分になった。 手紙は丁寧に蝋で封印をし、手文庫の中に収める。 私は柔らかく微笑んで、心の中で祖母に感謝をした。 翌日、とても不思議なことが起こった。 昨日書いたはずの手紙が跡形もなく消えている。これには正直驚いてしまった。 寝ている間のことなので、両親がこんなことをするのは有り得ない。 ではどうして消えてしまったのか。 元来、ロマンティックが主成分である私は、ひとつのことを閃く。 ”親愛なる誰かさん”の所に、手紙が届いたのではないかと、思わずにはいられない。 夢想するだけでくすぐったくて、私は幸福気分に輪がかかった気がした。 そして。 一週間後、手文庫には一通の手紙が納められ、私は驚きと喜びで、息が詰まりそうになった。 手紙を手に取るだけで震えが起こる。 震える指先で手紙の封を開けると、あの草原の薫りと、達筆な文字が現れた。 親愛なるアンジェリークへ。 俺の名前はアリオス。 趣味は昼寝だ。 ただそれだけが書かれていた。 |
| コメント アリコレの半分パラレル、半分サイドのお話です。 楽しんで下さると嬉しいです。 |