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家に帰り、パソコンの前に腰を下ろして原稿を執筆しても、ちっとも進まない。アンジェリークは気分転換に、ボーイズラブを書こうとするが、中々上手く書くことが出来ない。 以前なら、すんなりと書くことが余り苦ではないが、今日に限っては余り筆が進まなかった。 原稿を見ながら、アンジェリークは大きな溜め息をつく。こんなに何も書けないというのは、アンジェリークには初めてだった。大きすぎるスランプに、戸惑いすらある。 アンジェリークは溜め息をまたつくと、人差し指で入力をする。胸が切り裂かれるほど痛く、初めて恋の痛みを知った。 今までは客観的に描くだけだった。しかし、今はよりリアルに感じることが出来る。 文字で表現していた感情が、こんなにも辛く切ないものだとは、アンジェリークは初めて知ったのだ。 余りに進まず、埒があかないので、とりあえずは書くのを止め、アンジェリークはメールチェックだけをして、パソコンを立ち下げることにした。 だが受信したメールにアリオスの名前を見つけると、途端に呼吸が早くなっていくのを感じた。 アリオスからのメールを見たいような、見たくないような。そんな気分になる。 メールをマウスでそっとなぞりながら、アンジェリークは胸が激しく高鳴っているのを感じた。 読みたい。 だが恐ろしくて読みたくはない。 複雑なものを心に感じながら、アンジェリークは目をきつく閉じてクリックをした。 薄目を開けて、まるで何かを探るかのように、アンジェリークはメールを見る。読むのではなく、見る。 すると、新作の小説についての感想が述べられていた。 いつの間にか、アリオスに渡すはずだったフロッピーが、ちゃんと渡すはずの相手の元に届いている。 いつものように厳しい言葉が並べられているのではなく、ただ一言。 「素晴らしい」と書かれていた。 アンジェリークは驚いて、目をしっかりと開いてもう一度見る。確かに何度見ても同じことがしっかりと綴られていた。 ドキドキして、胸の鼓動も高まってくる。 一言、嬉しかった。 アリオスが今まで、こんなにストレートに褒めてくれたことは無かったのだ。 感動すらして、アンジェリークは躰を震わせる。 泣きたいぐらいに感動をし、初めて、一生懸命書いて良かったと思わずにはいられなかった。本当に嬉しかった。 メールのお陰か、アリオスへの悶々とした想いはかけらもなく、アンジェリークはただ嬉しかった。 今まで、アリオスにはかなり手厳しいことも言われ、正直言えば、泣いた夜だってある。たがアリオスは、ちゃんと評価をしてくれた。 アンジェリークは努力して頑張っていけば報われるものなのだと、初めて知った。 アンジェリークは”恋愛感情”を極力排除し、アリオスに御礼のメールを送る。ただ一言「有り難うございます」 厳しい編集者に評価してもらえたことが、アンジェリークには一番の評価だった。 「良かった…。頑張ったかいがあったな…」 アンジェリークは無駄なことは一切書かず、書けたところまでを添付ファイルにして、アリオスに送付した。 先程まで、全くと言っていいほどやる気等なかったのに、アンジェリークはテキストエディタを開け、続きを書き始めた。 何の迷いもなく、キーボードを叩く指は軽やかに動いている。 先ほどとは競べものにならないくらいに、充実したものを書くことが出来た。 心が軽い。だからこそ良いものが書けるような気がする。 止めようと思っていた執筆が大いに弾み、アンジェリークはいつしか大量の文章を操っていた。 きっとこのハードカバー向けの執筆が終われば、アリオスとの関係は確実に途切れてしまうことだろう。 アンジェリークはそれでも良かった。 この小説に、アリオスへの総ての想いを凝縮しようと、決めたからだ。 毎日家に早く戻り、定期的に執筆を続ける。ボーイズラブを書いていた時から探していた「最も書きたいもの」を、今、書かせて貰っているような気がした。 ようやく見つけた。 きっと、今書いているものが、自分にとっては代表作になるに違いない。明るい予感がアンジェリークにはあった。 アリオスとはメールのやり取りのみで、連絡を取り合っている。おかしなところは指摘してくれるが、基本的には自由に書かせてくれていた。それがアンジェリークにとってはひどく有り難いことで。 アリオスの送ってくれるメールは、あくまで用件のみシンプルなもので、アンジェリークは少し寂しく感じるものの、いたしかたがないと思った。 いつしかアリオスへと送られる恋愛小説は、ラブレターへの意味合いが色濃いものとなっていった。 クライマックスにかかる日は、外は台風による嵐。アンジェリークのパソコンに息づいているキャラクターたちも、嵐の中で格闘している。 ハードカバーで出す恋愛小説をあんなにも抵抗していたというのに、今はとても大事なものになっている。 書いて良かった。心からそう思えた。 ボーイズラブをずっと書いてきて、作家にとってはこんなに清々しい気分があまり味わう機会がないことを知った。 だが、アリオスのお陰でそんな気分を得られたのは、アンジェリークにとっては最高だった。 嵐の夜、アンジェリークは執筆を終え、アリオスに向かって原稿の送信をする。心を込めて押した送信ボタンが最後になることを切なく予感しながら…。 涙が流れる。 寂しいがどこか清々しい気分だ。アンジェリークは大きく伸びをすると、心の中で自分で行った仕事を讃えた。 翌日、アリオスから短い労いのメールが入って来た。 「ご苦労さん、きっと代表作になるだろうな。後の編集はこちらに任せて、ゆっくり休んでくれ。有り難う」 最後にあるかと思っていたダメだし等は一切なく、アリオスは原稿を受け取ってくれた。 …終わった…。 アンジェリークは正直にそう思った。心も躰も寂しい風が吹き抜ける。 作家と編集者としても、恋としても、原稿としても、総てが終わったのだ。 アンジェリークはそっとパソコンのフタを閉めて、瞳を閉じた。じっとアリオスのことを想いながら、アンジェリークは夏の恋が終わったことを痛感する。 世間は既に秋で、虫の音が柔らかくアンジェリークを包み込んでいた。 脱稿から一月近くたち、アンジェリークはぼんやりとした日々を過ごしている。良い充電機会になりそうだ。 次は、フランシスレオナードの最終シリーズと決めていたので、のんびりとプロットなどを書いていた。 あれからアリオスからは一切連絡は無い。 きちんと本になるのかすら解らない状態だ。 だが、そんなことはアンジェリーク本人にはどうでも良かった。あの小説は、自分が作家として成長するのには、どうしても必要なものであったから。 アンジェリークは、ぎこちなかったかもしれないが、ようやく恋をすることが出来た。 アリオスとの出会いは、かなり収穫が大きかった。 そう思わないと、切ない想いを持て余してしまうところだったのだ。 スモルニィ賞だとか、そんなものは、もうどうでも良かった。アンジェリークは、書き上げたことに意義があると思い、秋の空のように気持ちが良い気分だった。 その日は、雨が降っていた。それなのに外がふと見たくなる。 寂しい秋の雨はノスタルジックな気分になるのだ。 ふと外を見て、アンジェリークは思いがけない人物の存在に、息を呑んだ。 「…アリオス…っ!!!」 アリオスがアンジェリークの部屋が良く見える場所で、傘も射さずに、ずぶ濡れになってこちらを見ている。 アリオスは直ぐにアンジェリーク気付いたのか、軽く手を上げる。 「アリオス! 風邪を引くわよ!」 「かまわねえ…」 そんなわけは無い。アンジェリークはサッシ窓を閉めると、大きな傘とバスタオルを何枚も持ってアリオスの元に走る。 本当にバカなんだから…! アリオスみたいな阿呆は見たことが無い! アンジェリークは強く思いながら、アリオスの元に急いだ。 「アリオス!!」 大きな声で名前を呼ぶと、アリオスは僅かに唇を上げる。たったこれだけの仕種なのに、アンジェリークはドキリとした。 「ホントにバカなんだからっ!」 「ほら、出来たぜ、本」 アリオスは濡れないように、シャツの奥に入れていた本を取り出す。アンジェリークが書いた初のロマンス文芸大作が、上梓されていた。 表紙は、もったいないぐらいに美しいイラストで書かれ、淡い色が小説の雰囲気にはぴったりだった。 アンジェリークは震える手で本を受け取る。これほど素敵な感動は、久しぶりかもしれなかった。 「…素敵…」 自分の本がハードカバーで出されるのがこんなに感動的なものだとは、アンジェリークは知らなかった。 躰が震える。 アンジェリークは感動で涙ぐみながら、アリオスを真っ直ぐ見た。 この本は想いの昇華だ。 「有り難う…」 ただ一言を、アンジェリークは心を込めて言う。アリオスはただ優しく微笑んで、抱き寄せてくれた。 「スモルニィ賞の最終候補にも上っている」 「そんなのはどうでもいいの…」 「どうしてだ?」 「この作品は、私には産まなければならない作品だったの…。書いて良かったって心から言えるから、いいや…」 アンジェリークが素直に自分の気持ちを述べると、アリオスはふっと艶と満足な笑みを浮かべる。 「おまえ、良い女だな」 「今頃気付いたの?」 「ずっと前に気付いてた…」 アリオスは自嘲ぎみに言うと、雨がそぼ降る空を見上げる。 「…今、この手でおまえを奪いてえよ…」 |
| コメント アリコレ、新しいシリーズの開幕です。 BL作家アンジェと切れ者(?)編集アリオスの物語です。 楽しんでくださると幸いです。 恋愛編です。 |