Leave Yesterday Behind


 アンジェリークの容態は日に日に良くなってくる。頬はばら色になり、食欲も出ている。
 ただアリオスに対する態度だけは、頑なだった。
 アンジェリークのいる病室の前を通ると、楽しげな声がする。明るくて、元気がいっぱいで、今すぐにでも退院出来そうな雰囲気だ。
 アリオスはノックをすると同時にドアを開けた。
「具合はどうだ?」
 アリオスが声をかけるなり、今までは華やいだ春みたいな笑顔を浮かべていたアンジェリークが、急に厳冬のブリザードを背負った。
 春から冬へ、それはまるで温帯な亜熱帯気候から、ツンドラ気候に一気に変わったと思うぐらいのものだった。
「アリオス先生、この通りに元気だわ。もう立派な病室にお世話にならなくていいぐらいに」
 アンジェリークは、折角の個室だというのに、余り気に入らないかのように肩を竦めた。
 担当の看護士とはこんなに早く打ち解けたと言うのに、アリオスへの冷たさは日ごとに強くなるばかりだ。
 そうされても仕方がないことをしたぐらいは、解っている。
 だが、もっと友好的でいてくれてもいいのではないかとすら思った。
 ふたりの雰囲気を察したのか、看護士は間に入っておろおろしている。
 何だかその態度に苛々した。好きでこんな雰囲気になっているわけではない。アンジェリークが一方的に冷戦を仕掛けているのだから。
「仕事につけ。アンジェリークだけが患者ではねぇはずだ」
 アリオスは軽く看護士を窘めると、病室から出してしまった。
「彼女が悪いんじゃないわ。私が引き止めて色々お喋りをしたんだもの。だからあんな風にはしないで下さい」
 アンジェリークは笑顔すら見せない。それがアリオスの胸をちくちくと突いてくる。
「看護士が患者を疲れさせてはいけねぇんだよ」
 アリオスは一般論を振りかざし、アンジェリークに牽制をかけた。
「だけど患者には心の潤いが必要なのよ。だって、こんな白い空間にずっといるなんて、不安で気が狂いそうになるわよ」
 アンジェリークも看護士だ。こちらも正論を振りかざしてくる。
 いつからこんな風になってしまったのだろうか。
 逢ってもいがみ合うことしか今はない。
 こんな関係は、医師と患者だと最悪な組合せになる。
 何時もなら内科医に押し付けてしまうのに、今回はそれが出来なかった。
「アリオス先生、私はとても元気です。術後も順調です。だから私を転院させて下さい。…そのほうが…、私にも先生にも良いはずです」
 アンジェリークは唇を噛みながら俯く。
「何度言っても同じだ。お前は心臓の手術を受けたばかりだ。術後の経過はしっかりと見極めねぇといけねえからな」
 アリオスはこれが言い訳であることは、十二分に解っていた。だが、言わずにはおられない。
「アンジェリーク、横になれ。診察をする」
「もう外科医は関係ない領域だよ」
 普段のアンジェリークでは考えられないぐらいのつっけんどんな態度を無視しながら、アリオスは叱るように睨み付けた。
「いいから寝ろ。心臓疾患を軽視するな。後で苦しむことになるからな」
「…私は看護士だから、だいたいの状態は解るわ。オスカー先生も、悪くないと言ってくれているし」
「外科医としては、まだ観察が必要だ」
 アリオスは感情なく言うと、アンジェリークに聴診器を宛てた。
 聴診器ごしに聞こえるアンジェリークの鼓動は、かなり力強いものになっている。時折、人工弁の無機質な音が響くが、それはアンジェリークの心臓の中で、アリオスの技術が息づいている証拠でもあった。
 緊張しているのか、鼓動は少し早い。だが、それは正常の範囲内であることはすぐに解った。
 聴診器を宛てると、いやがおうでもアンジェリークの白い肌が垣間見える。まるでミルクのような滑らかな肌が眩しくて、アリオスは自分の鼓動もピッチが上がっているのを感じた。
「問題ねえな」
「でしょ?」
「だが、心臓ではなくて、心に問題がある。治療するぞ」
「治療!?」
 アリオスは、ベッドの横にある簡易車椅子を組み立てると、アンジェリークを支配するように見つめた。
「アンジェリーク、カーディガンを羽織れ。治療に行くぞ」
「治療って!?」
 突然言い渡され、アンジェリークは訳が解らないように眉を寄せる。
「いいから早く支度をしろ」
 アリオスの勢いに圧されたのか、アンジェリークはいつもとは違い素直に、カーディガンを羽織った。
 アンジェリークが準備が出来たことを確認すると、アリオスはその躰を抱き上げる。
 余りにも華奢で軽い躰に、アリオスは息を呑んだ。だが、そんなことを忘れさせてしまうぐらいに、アンジェリークは暴れる。
「な、何をするのよっ!?」
「治療だ。大人しく着いて来い」
 すぽんと車椅子に乗せると、アリオスは強引に病室から出ていく。
「治療って、変なところに連れて行くんじゃないでしょうね…」
「とっておきの場所だ。お前には最高の場所だ」
 アリオスはアンジェリークが乗る車椅子を引いて、中庭に出る。その間も、アンジェリークは躰を頑なに強張らせたままだった。
「風なんてちゃんと感じるのも久しぶりだろ?」
「うん」
 アンジェリークの強張る顔が何度も崩れそうになっている。
 以前から、自然に触れ合うことが大好きだったことを、アリオスは覚えていた。
 どんなに強張るような顔をしても、嬉しさは込み上げてくる。
 やがて、患者の心を癒すために飼っている犬と猫がいる広場に来ると、アンジェリークの顔から、強張りは消えた。
「可愛い!」
 アンジェリークは興奮ぎみに叫び、アリオスに車椅子を近づけてくれと、視線で懇願する。初めて出会った頃と同じような、屈託のない純粋な笑顔だった。
 一匹の柴犬と白い雑種の猫が近づいてきた。
「撫でてやれよ。お前に撫でて欲しいと待っているぜ」
「うん」
 アンジェリークは震える手を伸ばすと、小さな命を抱きしめるかのように撫でた。
 犬も猫も喉を鳴らして喜んでいる。
 アンジェリークの眼差しはとても優しいものになり、慈愛に溢れている。母親のような眼差しに、アリオスはドキリとした。
「…可愛い…。うちにも、私の子供同然の可愛い子猫がいるんだ。友達に頼んでおいたけれど、今はどうしているんだろ…」
 まるでひとりごとでも言うかのように、アンジェリークは呟いた。まるで寮に入った子供を心配する母親みたいだ。
「…可愛いがっているんだな?」
「それはそうだわ。あの子は私の子供同然だもの。あなたには解らないでしょうけれど、小さくても癒してくれるパートナーだわ」
 動物の前だからなのか、アンジェリークはいつもよりもかなり素直に話してくれた。
 動物のおかげて、心を開いてくれたのだ。
「…いや。俺にも解るぜ」
「解らないわよ。聞く耳を持たなかったあなたに解るはずはないわ」
 アンジェリークにキッパリと言われても、アリオスは首を振った。
「そんなことはねえさ。命は命だ」
 アリオスが事実を打ち明けると、アンジェリークは息を飲む。そんなことは信じられないとばかりに、眉間にシワを寄せていた。
「あなたが? 冷徹なのに?」
「どうとでも言えよ」
「ぢうとでも言えるもの」
 アンジェリークは感情をいくらか高まらせながら、アリオスを睨みつけた。
「早く退院してあの子も世話をしなくっちゃ! もう大丈夫だから、退院させて下さいっ!」
 アンジェリークの強い口調に、アリオスもまた冷静な医師の眼差しになる。
 不意に妙案が浮かんだ。
「アンジェリーク、退院させてやっても良いだろう。ただし条件がある」
「条件?」
 どれほどのものかと、アンジェリークは眉寝を寄せる。
「退院した後、暫くは療養の為に、猫と一緒にうちにいろ。それが条件だ」
 アリオスが突き付けた条件に、アンジェリークは顔色を変えた。
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