Leave Yesterday Behind


 アリオスとの同居を、自ら決めたとはいえ、アンジェリークの不安は消えなかった。
 アンジェリークは、アリオスと一緒に住むのではなく、あくまでアルフォンシアと住むのだと言い聞かせた。
 病室でオスカーの診察を受ける。心のなかでどこか退院出来ないと言ってくれることを期待してしまう。
「お嬢ちゃん、随分と良くなったな。内科としても、退院を許可出来る」
「あ、有り難うございます」
 嬉しいような切ないような複雑な気分になりながら、アンジェリークは溜め息をつく。
「何だかあんなに望んでいた退院が嫌みたいだな…。アリオスと一緒にいるのがそんなに嫌なのか?」
「嫌というよりは…」
 そこまで言ったところでアンジェリークは口をつぐむ。真実を言ってしまいそうな気がして恐い。
「…まあ、いいさ。一月ほど養生したら、随分とよくなるだろう。暫くしたら、きちんと働けるようになる」
 オスカーはアンジェリークの頭をぽんと軽く叩くと、励ますかのように笑ってくれた。
 アンジェリークは暗い気分で笑う。
 アリオスとの同居は恐い。
 自分の心の奥にある、不可侵な領域にまで踏み込まれているような気がして、恐い。
「回診だ」
 アリオスは冷たく言い放つと、感情のないロボットのように病室に入って来た。相変わらず南極の氷のように冷たい視線を、アンジェリークに投げ掛けてくる。
 アリオスは、アンジェリークの心臓あたりの傷を確認して、予後を診る。
「退院してももう問題はないだろう。念のために、3か月ぐらいは療養したほうが良い」
 アリオスはあくまで慎重だ。天才外科医、神の手を持つと言われているアリオスの術後はこんなに慎重にならなくて良いことぐらいは、アンジェリークが一番良くしっていた。
「引っ越しの準備は俺がしておく。お前はただ何の心配もしなくて良い」
「はい」
 まだ小動物のようにアリオスを見れば震えてしまう。
 あの瞳に感情なく見つめられれば、軽蔑されているような気分になる。
 いくらアリオスが真実を識っても、エリスに手を貸せなかった事実は消えない。
「有り難うございます」
「他人行儀になるな。何でも自分でやろうとするのはお前の悪いくせだぜ。俺は親戚だから、ちゃんと頼れ」
 アンジェリークはアリオスの視線をまともに取ることができずに俯いてしまった。
 親のないアンジェリークにとっては、自立は絶対にしなければならないことだった。
 伯父夫婦の態度を見て、幼いながらも悟った時から。
 だからこうしていざ手を差し延べられると、先ずはうしなう恐ろしさを先に考えてしまうのだ。
 アンジェリークが黙り込んでいると、アリオスは黙って病室から出ていく。
 うしなう痛みは、アリオスもよく識っているだろう。だからこそこうして手を差し延べてくれているのかもしれない。
 だが今のアンジェリークには手を取ることが憚られた。特にアリオスの手は。
 アンジェリークはひとりになると、大きな溜め息をついた。
 心臓が壊れてしまってから、文字通りその”ハート”も壊れてしまったのかもしれない。
 アンジェリークは、アリオスの手術によって生まれ変わった心臓に掌を宛てながら、心もメスで治してしまえれば良いのにと思った。

 退院まではもう特にすることなどなかった。ただ外を眺めたり、本をたらたらと読むだけの日々が続く。
 引っ越し準備も何もしなくても良いと言われ、不本意ながらもそれに従うしかなかった。
 退院の当日、アリオスは夜勤明けで、アンジェリークはそのタイミングで退院をした。
 手続きは総てアリオスがしてくれ、荷物まで持ってくれる。
 アンジェリークは何もすることがないうえに、なにもかもアリオスに頼ってしまう自分が、歯痒くてしょうがなかった。
 アリオスの車に乗せられ、コンドミニアムに向かう。
 まるでこれから識らない家に貰われていく子供のような気分だった。
「アルフォンシアは元気に成長しているぜ。綺麗な毛並みにもなった。当分は、ひとりにされることはねぇから喜ぶだろうさ」
 口ぶりでアリオスがアルフォンシアを大切にしてくれているのを知れて、アンジェリークは緊張の糸を一本だけ緩める。それでもまだほとんどの糸は緊張したままだ。
「アルフォンシアは私を覚えていてくれるかしら」
「覚えているだろうさ。恩を忘れるような猫じゃねぇさ」
「うん、そうね」
 アンジェリークはアルフォンシアの事を必死になって考える。
 そうしなければ、すぐ横にいるアリオスを強く意識してしまうから。
 車というとても狭い密室にふたりきりでいると、意識せずにおれない。特にアリオスのように自己主張が烈しそうな男は。少なくてもアンジェリークにとってはそうだった。
 首筋の辺りから男が匂いたち、アンジェリークの心を可笑しくなってしまうぐらいに乱していく。
 吐息すらもアリオスはアンジェリークを刺激する材料にしてしまう。
 アルフォンシアのことを必死に考えなければ、心の均衡を保てなくなっていた。
 白くて綺麗な毛並みの、まるで太陽に輝く空のようなブルーの瞳をした子猫。
 よく食べて、よく遊んで、大きなお腹を抱えて眠る姿は、本当に愛らしかった。
 アンジェリークは思わず口角を上げる。
 するとアリオスが僅かにこちらを見た。
「アルフォンシアのことを考えると、笑うんだな」
「大事な可愛い子だから」
「そうか」
 アリオスの声が寂しそうに揺れたことを、アンジェリークは気付かないふりをしていた。
 無言のままで、車は冷たい豪華さを持ったコンドミニアムに到着する。
 アリオスはアンジェリークの荷物を総て持ってくれた。
 エレベーターの中でも、ふたりはわざと距離を保ってしまう。
 気まずい雰囲気に窒息しそうになっていた。
「ここだ」
 アリオスは電子キーで厳重にロックされた玄関を開け、アンジェリークを招き入れる。
「ニャン! ニャン!」
 嬉しそうに高らかに鳴く子猫が、アリオスに向かって一目散に走ってきた。
「アルフォンシア!」
 アンジェリークが名前を呼ぶと、綺麗な瞳でじっと見つめてくる。一瞬、小首を傾げたが、すぐに子猫は美声を聞かせてくれた。
「にゃあん」
「元気だった! 大事にしてもらって良かったね!」
 アンジェリークはアルフォンシアを抱き上げると、その柔らかくて温かな躰にほお擦りをする。
 シールドになると思った。
 アルフォンシアがいれば、アリオスへと傾く恋心を最小限に食い止めてくれるはずだ。
 アンジェリークはアリオスを一度も見ることなく、ただアルフォンシアを抱きしめる。
「ただいま、アルフォンシア」
 アリオスが頭をすっと撫でると、アルフォンシアは幸福そうに目を閉じた。
 アリオスはそのまま無言でアンジェリークの荷物を運んでいく。背中が寂しそうだった。
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秋になりおなじみの愛の劇場がスタートです!
宜しくお願いします。




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