THE LAST CHAPTER
メスを持った瞬間から、既に闘いは始まる。 曝された汚れを知らない白い躰。それをメスが傷つけるのだ。アリオスの手で。 アンジェリークが気にしないように、なるべく小さな傷に留めてやりたい。アリオスは強く思いながら、メスを肌に宛てた。 「切開」 慎重に、アンジェリークのバイタルサインを見つめながら、メスを充てる。 震えて出来ないかもしれないと思っていたのに、思いかけずスムーズに指先が動いた。今まで施したどんな手術よりも、 より冷静でいられる自分が、アリオスには不思議だった。 アンジェリークの柔肌に傷をつけ、病巣を見極める。 開いてみると、予想以上にしこりは大きく切除が難しい場所に出来ている。 アンジェリークの血流を阻害しており、間もなく、血が通わなくなるのが見て取れた。 今までで執刀したどの事例よりも、アンジェリークのケースは困難を極めるものであった。 介助を勤める看護士が汗を拭ってくれるのも、気にならないぐらいに、アリオスの神経は研ぎ澄まされた緊張感の中にいた。 ただ、アンジェリークを治すだけに集中する。 こんなものに未来を邪魔されたくはない。 アリオスは慎重に腫瘍除去の手前までの措置を行った。 「アリオス先生! アンジェリークさんの血圧が急激に下がっています!」 アリオスはバイタルサインを見、険しい顔つきになる。 このまま死なせてはならない。 これからの未来の為にも、アンジェリークの笑顔を護る為にも、ここでくじけることは許されない。 アリオスはアンジェリークの顔を覗きこむ。 「これから一緒に生きていくんだろ? おまえの夢を叶えるんだろ? だったら頑張ってくれ…!後は俺がなんとかしてやる…!」 アリオスは強く囁く。誰にも聞こえないような小さな声を更に出す。 甘くとろけるような声を。 「愛している」 アリオスが囁いた瞬間、血圧が安定を始める。 「血圧上昇! 安定を始めています!」 「よし、切除だ!」 きっとうまく行く。 必ず上手くいく。 アリオスは強く確信をすると、アンジェリークと自分を散々苦しめた腫瘍にメスを宛てる。 少しでも間違えば、血管を傷つけ、アンジェリークに死に神がやってくる。 そんなこっはぜったいにさせやしない。 アリオスは神憑りな力をメスに宿し、腫瘍を除去した。 「腫瘍除去」 指先は震えなかった。 不思議と安心していられた。 腫瘍の切除が終わり、アリオスはアンジェリークの血管を見た。 傷ひとつつくことがなかったそれは、スムーズに流れ始めている。 今まで苦しめられていた悪夢が嘘のように。 アリオスはようやく呼吸が出来るようになった。 大きな深呼吸をすると、術後の処理を始める。 ここではまだ手を抜くことは出来ない。 綺麗に腫瘍が除去されたことを確認した後、手早く処理をする。 「縫合」 自分の声が、今までで一番誇らしげに聞こえた。 アリオスが手術室から出たのは、深夜をとうに回った時間帯だった。 あれほど帰るように言ったにも関わらず、レイチェルもエンジュもレオナードに付き添われる形で、まだ待合にいた。 誰もが、執刀医であるアリオスを見つめる。 不安、期待、苦しみ。 様々な感情が狭い空間に渦巻いている。 アリオスはそっと帽子を外すと、待っていた人々に頭を深々と下げた。 誰もが泣きだしそうな顔をしている。 「アンジェリークは生きている。処置は済みました。成功か失敗かは、この後の経過によります。とにかく、手術は終わり、我々がやれる処理は総て済みました」 アリオスは淡々と説明をすると、一旦、その場を辞した。 やるべきことは総て終わったのだ。 後は、アンジェリークの若い生命力に託すしかない。 アリオスの説明に、幾分か安堵の溜息が漏れた。 まだ予断は許されないが、ともかくアンジェリークは、ひとつのやまを越えたのだ。 一縷の光だった希望が、より逞しくなったような気がした。 アリオスは直ぐにシャワーを浴び、滅菌された新しい白衣と衣服に着替えた。 長時間に及ぶ手術に、疲労は困憊な筈なのに、何故か清々しい気分だった。 アンジェリークが眠る、集中治療室に入ると、既に看護士とオスカーが術後の処理をしてくれていた。 「先生、有り難うございました!」 両親が深々と頭を下げ、アリオスに何度も礼を言ってくれる。 礼を言われる筋合いなど、アリオスはないと思っていた。 アンジェリークを愛するが故に起こせた奇跡なのだから。 「容態は安定している。何かあったら呼ぶから、アリオス、おまえは仮眠を取れ。これからが大変だからな。ご両親も一旦 家に帰って休まれて下さい。大丈夫です。お嬢さんはもう奇跡を起こせたんですから」 オスカーの一言で、アンジェリークの両親はホッとしたように泣いた。目の回りの疲労はかなり色濃い。 「解りました。これから、帰って体力をつけてから、またこちらに戻ってきます」 「そうされて下さい」 ふたりは頭を下げると、静かに集中治療室を辞した。 「おら、ご両親も帰られたんだ。お前も仮眠してこい」 オスカーに有無言わせないような眼差しを向けられて、アリオスは同意するしかなかった。 仮眠室に行くと、既にアリオスが眠れるように手配がされていた。 何も口にしていなかったアリオスの為に、ミネラルウォーターと栄養補助食品も用意されていた。 それを少しだけ口にした後、アリオスはベッドに横になった。 神経が高ぶって眠れないとばかり思っていたのに、意外とすんなり眠りに落ちることが出来た。 きっとアンジェリークがこの休息をくれたに違いないと考えた。 つかの間の休息を。 充分に休養が取れ、シャワーをしっかりと浴びてから、アンジェリークの元に向かった。 激しく緊張する。 集中治療室に入ると、アンジェリークは安らかに昏々と眠り続けていた。 「オスカー、アンジェリークの具合はどうだ?」 「しっかり安定しているぜ。ったくおまえは良い腕をしているぜ。ここの外科医にしておくのが、もったいないぐらいだ」 アリオスは薄く笑うと、アンジェリークの前に腰を下ろした。 顔色も悪くはない。 脈拍も血圧も、信じられないぐらいに安定している。 柔らかな手を握ると、温かく、血が流れているのを感じた。 痛がるだろうが、それを越えれば、きっと上手くいく。 アリオスはアンジェリークの点滴が少なくなると交換し、目覚めるのを待つ。 瞼が動き、震えるように開いた。 アンジェリークの蒼緑の瞳は、信じられないほど澄んでいる。 「アリオスっ…痛い…っ!」 「痛みが終われば、直ぐに良くなる」 アンジェリークの手を握り締めると、爪を立ててきた。口には出せないほどの猛烈な傷みなのだろう。 痛み止めは軽いものしか与えてはいなかった。 きついものを与えれば、副作用が高くなる可能性があったからだ。 「俺がずっと側にいてやるから…」 「…うん…っ!」 アンジェリークは涙を滲ませ、痛みに耐えている。それが不敏でならなかった。 目覚めたものの、麻酔が覚めれば、発熱と痛みが伴った。 苦しみ抜くアンジェリークの姿を目の当たりにしながら、アリオスは冷静で正確な治療を続けた。 「アンジェリーク、大丈夫だ。これを越えれば、おまえは健康な躰になれる」 「うん、うん…!」 アンジェリークはおよそ一週間集中治療室にて治療をした結果、一般個室に戻ることが出来た。 まだまだこれから治療は続くが、ひとつ山を越えられた。 病状も落ち着き、退院も見えて来たある日、アリオスが病室にはいると、アンジェリークが話し掛けて来た。 すっかり顔色も良くなり、以前の青白さが嘘のようだ。 「アリオス、私ねあなたみたいなお医者様になりたいって、思っているの」 突然の告白に、アリオスは驚かずにはいられない。まさかアンジェリークがそんなことを思ってくれていたとは、思わなかったのだ。 「アリオスのサポートするような内科医になれたらいいなって、凄く思っているの」 夢を語るアンジェリークの瞳には、もう陰りはない。そこにあるのは明るく透明な未来だけだ。 「そうしたら、ふたりで病院が出来るな?」 「そうそう、それも素敵でしょ!」 明るく屈託のない笑顔のアンジェリークに、アリオスは眩しさの余り目を細める。 「そうだな…。だが、おまえにはその前に、なるべきものがあるぜ?」 アリオスは甘い声で囁きながら、アンジェリークの唇を塞いだ。 あれから幾つもの季節を紡ぎ、アンジェリークもいよいよ白衣を着る。 自己紹介に緊張しながらも、頬を赤らめて胸を張った。 「アンジェリーク・アルヴィースです! 第三内科配属になりました! 宜しくお願いします!」 桜の季節に出会った少女は、同じ時期に美しい花を咲かせる。 医師として、そしてひとりの…。 「ママ!」 アリオスが息子と病院の玄関まで迎えにいくと、アンジェリークは走ってきた。 桜の季節。 まだ夢は始まったばかり。 虹の向こうにあるきらめきを、ふたりで探しに行く、幸せな旅が始まる。 THE END |
| コメント とうとう、完結いたしました。 ここまでお読みいただきまして、本当に有り難うございました。 次回の愛の劇場も、練り練り中です。 |