『恋に落ちた俺様』
『じゃじゃ馬ならし』
〜レオナード&エンジュ〜その1
* 愛の告白に長い台詞なんて必要ないわ。 ただ一言『愛している』と 心を込めて言ってくれればいいの。 * 「ま、さ、か」 エンジュは、一音、一音、言葉を切りながら、嬉しい驚愕に躰を震わせた。 稽古場の掲示板に貼られた、劇団がこの冬上演するスペシャルなシェイクスピア劇の配役表。 『じゃじゃ馬ならし』と『お気に召すまま』。その『じゃじゃ馬ならし』のメインキャストに、エンジュの名前がある。 カタリーナ……エンジュ。 嘘だと思って何度も配役表を見直すが、何度見ても同じ。ヒロインであるカタリーナは確かにエンジュと書かれている。 この息づかいのリアルさを感じれば、まさか夢だとも思えない。 しかし、清涼飲料水のCMに出ているとはいえ、あり得ない配役過ぎる。まだまだ小さな役を大事にやっている段階だというのに。まだ研究生の身分でこんな大役を貰って良いのか。先輩を差し置いてまでも。 戸惑いの中ではあるが、突如降り掛かった宝くじのようなチャンスを、この手に収めたいという欲も、確かエンジュにある。 掲示板の周りはかなり騒然とした、ちょっとした無法地帯になっている。このサプライズ配役には、誰もがざわめいていた。 それもそのはずで、エンジュの他にもサプライズ配役をされている者がいた。同期のアンジェリークである。彼女はもう一本の上映作品である、『お気に召すまま』のヒロインロザリンドに抜擢されている。 「少しCMに出ているからって…」 どこからか揶揄する声が聞こえるが、エンジュはそんなことに貸す耳を持ち合わせてはいなかった。 エンジュの横に立って、掲示板を見るアンジェリークは、すっかり青ざめてしまっている。 「これじゃあ、宗方コーチに選手に抜擢された岡ひろみみたいなものだわ…」 肺にたまった総ての息を捨てるように、アンジェリークは大きく息を吐くと、とぼとぼと行ってしまった。 「おっ、お前か、エンジュちゃんは」 アンジェリークのいた場所に、入れ替わるように、長身の青年がどっかりと入ってきた。稽古場なのに、不遜にもサングラスをしている。 エンジュは、俺様な態度が気に食わずに、少し睨み付けながら男を見上げた。 「エンジュです。あなたは?」 男は楽しんでいるかのように口角を上げると、サングラスを少しだけ格好付けて取った。 「レオナードだ。お前がカタリーナを演じるんだろ? 俺はペトルーキオー役だ。お前に求婚する役。宜しくなァ」 「レオナードさん!! 宜しくお願いします!!」 まさか劇団の看板役者が、自分の横にいるとは思わずに、睨んでしまった。エンジュは今までの自分の態度を繕うように、一礼した。 「元気が良いのは、いいことだぜェ。宜しくなァ」 レオナードが手を差し出したので、エンジュはてっきり握手をするとばかり思い、自らの手を差し出した。 しかし 「きゃあっ!」 レオナードの大きな逞しい手は、エンジュの手を取ることはなく、そのお尻を持ち上げるように下から撫でられる。しかもねっちょりと絡みつくように。 全く爽やかさもへったくれもない。 これじゃあただのヘンタイ、痴漢。劇団アルフォンシアの看板俳優とは思えない、エンジュにとっては卑劣な行為に、我慢は限界を超える。拳がぶるぶると震え、凶器の爪は鋭利に光る。 「 何するのよおっ!!」 エンジュは、お約束にもレオナードの顔をグーで叩いた上に、その爪で頬をひっかいた。 「…って!! あにすんだよ! 暴力女!」 レオナードは本気で顔を顰めて、引っかかれた頬を押さえ付けている。瞳には明らかに不快な光が宿っていた。 「セクハラよっ!!」 「ぷりっとしたケツを触るぐれえはいいだろうがァ!! 芝居でもケツを触るシーンが出てくるんだからなァ」 「だからって今触ることはないでしょう!」 エンジュは唇をつぼめると、眉は10時10分の位置に固定して、こめかみをぴくぴくさせてる。 「 おもしれェ…」 レオナードの顔にも筋が立っているが、口角は挑戦的に上がっていた。 「俺様が、ペトルーキオー真っ青の調教をお前に対してしてやるよ!」 「い、ら、な、い!」 エンジュはキッパリと強く、言葉を一音ずつ切って、レオナードに突きつけた。看板役者だとかそんなことで、怯むエンジュ様ではないのだから。 「ったく、あばすれな所はカタリーナそっくりだぜェ! 気に入った!!」 「きゃあっ!!」 レオナードは、エンジュをひょいと肩に抱きかかえると、すたすたと劇団事務所に連れて行く。 「何するのよ!!」 「これから顔見せがあんだろうが!会議室でなァ。行くぞ! んなところでグズグズしてはいられねェ」 エンジュは手足をジタバタとさせたが、レオナードに結局は押さえ付けられてしまい、鼻を鳴らしながら、運ばれた。 会議室前にやってくると、エンジュはレオナードに小さな声で耳打ちをする。 「ねえ。下ろして下さい。このまま入ると…、レオナードさんの面目が潰れておしまいになるでしょうから」 「面目? んなもん、俺様にはねェよ。おとなしくしろよ、エンジュちゃあん」 「ちょっ!!」 エンジュが焦って止めることも聴かずに、レオナードは堂々と会議室のドアを開ける。 「ペトルーキオー様とカタリーナ様のお出ましだぜェ!!」 堂々と宣言しながら、レオナードは会議室に入り、エンジュを自分の隣りに座らせた。 「早速、調教開始かよ、レオナード」 テーブルの中央に座るアリオスが、苦笑しながら言う。今回の演出は彼のせいか、気心の知れた空気がふたりの間には漂っていた。 アリオスの隣を見ると、アンジェリークがちんまりと座っている。小さくなって無理矢理そこに座らされたようだ。 「さてと。今回の主要メンバーが出そろったところで、ご挨拶と行くか」 アリオスは立ち上がると、役者を始めとする勢揃いしたスタッフを、一通り見通した。 「今回の舞台は、誰にでも質の高い古典新劇を愉しんで貰う為の企画だ。『じゃじゃ馬ならし』と『お気に召すまま』。交互にひと月間、上演する予定だ。どちらも幸福な喜劇だ。見てくれた人々には、心を豊かにするようなそんな気分になって帰って欲しいという願いも詰まってる」 アリオスは大きく息を吸い、スタッフをもう一度見回した。 「今回の公演は劇団アルフォンシアの総力を尽くしたものにしてえと思ってるから、みんな力を合わせて頑張ろう!」 誰もが拍手をする。 エンジュもしっかりとやらなければという、気負いが躰に漲ってくる。 「改めて、よろしくなァ、エンジュちゃあん」 「はい、よろし……っ!!」 息を呑んでも何をしても、避けきれない。それほど光速技だった。レオナードの唇がエンジュの唇を掠めてくる。 本当にキスをされたのか。そんなことが解らないくらいの僅かな時間だった。 憎たらしい目の前の男を見れば、ニヤリと楽しそうにこちらを眺めている。頬杖をついて、それはもう可笑しそうに。 むかっ腹が立ち、エンジュの躰からマイナスのアドレナリンが湧き出てきた。 この男は許せない。 「どうぞ、脚本」 レオナードから回ってきた脚本をエンジュは強奪すると、それを丸めて思い切りレオナードの頭を叩いた。 「…ってぇ!」 レオナードは頭を押さえ、痛みの余りに顔を顰めている。いい気味だと、エンジュは思った。 「自業自得よ!!」 エンジュはぷいっと背中を向け、レオナードに拒否する姿勢を貫く。 「こいつはぴったりじゃねえか! まさに『じゃじゃ馬ならし』だな。レオナード?」 アリオスはくつくつと喉を鳴らして愉快そうに笑い、おもしろがっている。 「うるせェ、アリオス!!」 レオナードは顔に出来た傷をさすりながら、すっかり憮然となってしまった。 「ペトルーキオーさながらにやってみろよ。『じゃじゃ馬ならし』」 アリオスのからかうような眼差しがレオナードに向けて放たれた。レオナードは余計に顔を歪めて傍若無人だ。 「フン、そう言うならやってやるぜェ!このエンジュちゃんを、公演の幕が開くまで、調教してやるっ!」 レオナードは席から立ち上がり、強力にきっぱり宣言をすると、団員たちからやんややんやの喝采が沸く。 「それでこそレオナードだ。ペトルーキオーそのもの」 演出のアリオスがすっかりおもしろがってしまっている。エンジュは頭が痛くなった。 「ちょ、ちょっと、私の立場や、私の気持ちはどうなるんですか!?」 勝手に盛り上がって貰っても困る。エンジュはすっかり困り果ててしまい、レオナードを睨み付けることしかできない。 「その気持ちを、俺様に向けようとしてるんじゃねェか。しっかり調教してやるからなァ。楽しみにしておくんだぜ、エンジュちゃあん」 レオナードは、エンジュの少し高くて上に向いた鼻をピンと指先ではねた。 「絶対にあなたなんかに調教されないわ、覚えておいて!」 エンジュは胸を張ると、レオナードに堂々と対峙する。その輝く瞳は、勝ち気な色を映し込んでいた。 「せいぜい無駄な抵抗を頑張るんだなァ」 「あなたもね! 私への調教は見事に失敗に終わるんだから、覚悟して!」 ふたりはお互いにしっかりと見つめ合う。 エンジュの瞳は挑戦的に、レオナードの瞳は自信を漲らせている。 ぶつかる眼差しに焔が燃え上がる。火花となって、辺りの者たちを圧倒していた * 劇団アルフォンシアでは、現在賭けが横行していた。はたして、レオナードがエンジュをきっぱりと調教が出来るのだろうか。ペトルーキオーのように。それともエンジュは、カタリーナよりも一枚上手で、調教されないのか。 『じゃじゃ馬ならし』の舞台は、ある意味新鮮な火花が飛び散った舞台になっている。 稽古の時から緊張が漲っているのだ。 きちんとした柔軟の後、お腹から声を出すボイストレーニングまで、エンジュは不本意ながらレオナードと組まなければならなかった。 「酒臭い口で私に命令しないで下さいね!」 「ったく、口の減らねえ女だな。おら、きっちりトレーニングだ!」 流石にレオナードは劇団の看板で、知られた舞台俳優であるので、基礎はきっちりと出来ている。それを身近で見ることが出来るというのは、新人のエンジュにとっては、貴重な体験だった。 「舞台は声がきちんと響かねェとダメだからなァ。しっかり腹筋だ」 「ふああい」 レオナードに足首をきっちり掴まれて、エンジュは腹筋をする。何度かすると馴れてきて、スムーズに上がれるようになった。 「きゃあっ!」 そうするとレオナードのイタズラが横行する。エンジュの足を撫でたりするのだ。 「セクハラです!」 「んな、カリカリすんなよ。コミュニケーションだぜェ」 横行する小さなセクハラには、全く溜息が出てしまう。愛嬌のあるセクハラだから、まだ許してしまえるなんて思える自分は、やっぱりレオナードに甘いと思う。 一通りのトレーニングが終わった後、先ずはレオナードが他の役者と合わせる。エンジュの役はほとんどレオナードとの絡みなので、その演技の技と呼吸を盗む為にも、目を凝らして見ていた。 レオナードの立ち姿は、本当に凛としていて美しい。背筋も伸び、胸も張られている。ただ姿勢が良いだけではなく、バレエダンサーのような柔軟さも持ち合わせている。あんなりがっしりとした長身なのに、優美とした貴族的な雰囲気を身に纏っていた。 エンジュは陶然とその姿を見つめる。 レオナードはペトルーキオーとその従者グルミオーとの場面を演じている。 『ヴェローナよ、暫くお別れだ。俺はヴァデュアの友達に会いたくなったのだ。中でも、一番親しい、心の友と頼むホーテンショー。ところで、確か、これがあの男の家だったな。 ……そうだ、グルミオー叩け!』 お腹の奥底から出てくる太くよく響く声は、その場にいる者に、圧倒的な存在感を示していた。 たった一言の台詞なのに。エンジュは鳥肌が立つような感動を覚える。あんなにちゃらちゃらした男だが、舞台俳優としては本当に凄いと思っていた。 動きを一つ取ってみても、台詞の声の通りも、セクハラ男とは思えない見事さだ。 エンジュはいち観客になって、魅入ってしまっていた。 「おい、俺様に惚れ直しただろ? エンジュちゃあん」 唐突に、隣りにどっかりとレオナードが腰を据えたものだから、エンジュは驚いて思わずお尻を浮かせてしまう。 我に還り、タオルで汗を拭うレオナードを見つめる。 「ん? 俺様にさては見惚れてたな?」 「ち、違うわよ!!」 全くの図星を指されて、腹を立てない人間はいないように、エンジュもやはり腹を立ててしまった。ぷりぷりとしながら、愉快そうに笑うレオナードを横目でちらり見る。 「俺様のをしっかりみただろうからな、しっかり頼んだぜェ。もうすぐカタリーナとペトルーキオーの場面だからなァ」 「はい」 少し緊張してきた。今日初めて、動きを付けて合わせるのだ。本当のプロならば、数回の稽古で本番を迎える。無様な状態を見せるわけにはいかない。 レオナードに知られないように躰を震わせていたにもかかわらず、直ぐに手を握られてしまった。 「あ…」 「大丈夫だ。いつもの調子で、な?」 レオナードが軽く目を瞑って粋なウィンクをしてきてくれる。エンジュは勇気を貰ったような気がして、にっこりと微笑んだ。 「その意気だ。エンジュちゃんは笑ってるのが似合ってるからなァ」 「レオナードさんをやっつけられるぐらいに頑張るから」 「お手柔らかに頼むぜェ」 エンジュはつんとしながらも、にんまりとした笑みを口元に浮かべる。レオナードのお陰で、緊張は随分と楽になり、固かった躰も柔らかくなった。 「次は、カタリーナとペトルーキオーが最初に相まみえる場面だ。第2幕第1場だ」 「はいっ!」 アリオスのかけ声にエンジュは緊張した声で返事をする。 「頑張ろうな」 レオナードにお尻をてろっと触られ、エンジュは唸るような悲鳴を上げた。 「ここは『じゃじゃ馬ならし』で一番有名な場面だ。いつものお前たちのようにやればいいんだからな。よし、やれ!」 演出のアリオスが手を大きく叩いたのと同時に、エンジュ演じるカタリーナが部屋に入って来るところから始まる。 『やあ、ケイトって言うのですね。今聴いたけれども』 『お聞きの通り。でも、聞き損ない。耳が聞こえないらしいわね。ちゃんとした方なら『カタリーナ』って呼んでいるわ」 声が少し震えていたが、途中までエンジュは首尾良く演じていた。いつもの調子で、平常心で。レオナード演じるペトルーキオーに突っかかるのも、楽しく思えてきた。 有名な、カタリーナを抱きかかえて、お尻を叩くシーンに入る。 レオナードの台詞の間、もがいたりひっかいたりしてエンジュは、逃げ出すことを模索するような動きをする。レオナードもそれに合わせて上手く立ち回ってくれるが、その手が偶然 「きゃあっ! 何をするのよレオナード!!」 エンジュは思い切りレオナードの顔を叩くと、その勢いで腕から逃れた。 胸をしっかりと触られてしまったのだ。 レオナードも驚いて、自分の掌を見ている。その後悪びれもせずに、目を細めてふっと笑った。 「なかなかの触り心地だったぜェ、エンジュちゃん」 レオナードが意地悪な笑みを浮かべる者だから、エンジュはついかっとなってその胸の叩いた。 「おっと、エンジュ、おまえはカタリーナかエンジュかどっちなんだ?ちゃんと役になりきって、私情は挟むな!」 レオナードの間に立ったアリオスがきつく睨み付け、冷たい雷を落としてくる。 「ご、ごめんなさい…」 すっかりしゅんとしてしまい、エンジュは好戦的な眼差しを引っ込めた。 その後は全く散々だった。つい自分の地が出ないように押さえて演技をすると、アリオスに迫力がないと駄目出しをされ、怒られてばかりのなか、最初の通し稽古が終わってしまった。 役者たちが散り散りに消えた稽古場の隅で、エンジュは膝小僧を抱え、小さくなって座る。唇から漏れるのは溜息ばかりだ。 ふとミネラルウォーターが差し出されて顔を上げると、そこにはレオナードがいた。 「休憩をしろよ。そうやって煮詰まって考えていても始まらねェ。心機一転でやらねェと良いものは出来ねえぜェ」 「うん…」 本当にレオナードの言う通りだ。エンジュは貰ったミネラルウォータのペットボトルを開けると、それで一気に喉を潤した。 「美味しい…」 「その清々しい気持ちを忘れなかったら、上手く出来る」 レオナードはエンジュの横に腰を下ろすと、稽古場の壁により掛かる。 「んなことでいちいち悔やむなよ。悔やむのは、本番で上手く出来なかったら悔やめ! 今は悔やむよりやらなければならねえことがあるだろうが」 レオナードは厳しい口調で言うと、喉を潤した。 確かにレオナードの言うことは正論だ。こうやってくよくよいじいじしている間にも、本番までの貴重な時間は過ぎてしまうのだから。 「しょうがねェな。一緒に練習してやるか」 レオナードは立ち上がり、エンジュに手を差し伸べてくれる。その手を取ると、信じられないぐらい温かくて、逞しかった。 「お願いします!!」 「じゃあ、始めるぜェ。おまえは可愛いカタリーナだ。そう信じろ! 俺は男らしい勇気のあるペトルーキオーだ」 エンジュは頷き、背筋を伸ばして立ち上がる。 「アクシデントがあったら、カタリーナならどうするかを、一生懸命考えれば良いだけだ。お前はカタリーナ、俺様はペトルーキオーだ!」 「はいっ!」 ふたりは稽古場をステージに、もう一度絡むところを通して練習する。 レオナードに引っ張って貰いながら、エンジュは自分なりのカタリーナを一生懸命演じる。 「もっと、偉そうに、お嬢様ぶっていいんだぜェ! 俺を思いきり打ったみてェにな!!」 「はいっ!」 先ほどの凍死稽古よりも、よりこなれてスムーズになってきたような気がする。 レオナードとの芝居も随分としっくりき始めていた。 「よし、最後のカタリーナの長い台詞だ」 「はい」 エンジュは一番難しい、カタリーナの2P以上に及ぶ台詞を言い始めた。 『 あたしたちの肌は、なぜ柔らかいのでしょう。なぜ滑らかで、弱くて……弱くて…』 ここまで折角言え、ゴールはもう少しなのに、エンジュはやはり詰まって、同じ事を何度か繰り返した。 「『この世の荒仕事に向かないのでしょう』だ」 レオナードが少し苛立ちを込めながら、台詞をそらんじてくれた。大きな舌打ちの音も入っている。 どうしても同じ場所で失敗してしまう自分に、エンジュは泣きそうになっていた。 「もう一度しっかりと台詞を覚えやがれ。最初に台詞ありきだ、古典はな。きちんと台詞を覚えられないお前が悪い」 「…ごめんなさい」 レオナードは全く容赦がない。事に演技に関しては、演出家のアリオス同様に厳しかった。 「この台詞でこの芝居は締まるんだぞ。この後、お床入りがあって、大団円だ! どんなに他の役者が一生懸命頑張って完璧な演技をしても、この芝居の成功はこの台詞にかかっているんだ。お前もそこをちゃんと考えろ」 レオナードの意気は上がり、今までに増してきつい調子だ。エンジュは全く反論出来なかった。出来ていない自分が悪いのだから。 「ごめんなさい…」 本当に謝罪の言葉以外に、エンジュは話すことが出来ない。項垂れて、俯くしかない。 「ったく、ちゃんと台詞ぐれえは覚えろ」 レオナードも、何度も辛抱して自分の演技に付き合ってくれたが、もう堪らないとばかりに、大きな溜息を吐いた。 「着替えてくる」 冷たく言い放つと、レオナードは稽古場を出て行ってしまった。 エンジュは大きな溜息を吐き、瞳に貯めた涙を今、ようやく滲ませた。ずっと我慢していた悔しい気持ちが、苦い気分になって広がる。 涙を流すのは余りにも割が合わないような気がして、エンジュはトレーニングウェアで子供のように乱暴に拭った。 稽古場の窓際に立って、夜空を見つめる。 悔しいぐらいに美しいまん丸な月が出ている。眩しいくらいに、エンジュを誘惑しているような気がする。 「…どうしてこんなに下手なんだろうな…」 CMに出ていい気になっていたかもしれない。まだ基礎をしている分際で、舞台俳優としては超一流のレオナードの相手役をするのは、全くおこがましいことだったかもしれない。 空をじっと見て心を落ち着けていると、稽古場の引き戸が開いた。振り返ると、そこには私服姿のレオナードがいる。 全身真っ黒で、コートも黒い。その上、もう暗いのにサングラスを掛けているので、どこかマフィアを思わせる。 「おい、グズグズするなァ。とっとと着替えてこい。送ってやるから」 レオナードは顎でひょいっと更衣室を指し、いかにも不機嫌そうにしている。 「は、はいっ!」 泣いてるのを見られたくなくて、エンジュは慌てて涙を引っ込めた。小走りでレオナードの横を取り抜けると、腕を強く掴まれた。 「早くな」 少し灰汁のある笑みをレオナードは向けてくると、エンジュの腕をすっと外す。 掴まれた腕の強さに眩暈をしそうな熱を感じた。 更衣室に入ると、偶然にもアンジェリークと顔をばったり合わせた。 「エンジュ! エンジュも今まで搾られてたの?」 アンジェリークは笑顔で言ったが、その表情には疲労を色濃く滲ませている。 自分だけじゃないんだ エンジュは強く感じた。自分が頑張ってへとへとになっている間、同じようにアンジェリークもへとへとになっていたのだ。 「アリオス先生にしぼられちゃった」 舌をお茶目にぺろりと出すところは、いかにもアンジェリークらしかった。 「私もレオナードさんに」 「だけどへたっぴだから仕方ないもの。一生懸命頑張らないとね。舞台は総合芸術で、ひとりひとりの力が舞台を作るんだって。そして、役者は過信せずに、重い部分を引き受けなければならないって。それが支えてくれる人への報いだって。一番スポットライトを浴びる者は、人一倍頑張って、素晴らしいものを見せなければならないって、アリオス先生が言ってた…。私もそういう風になれたらいいなあって、ちょっぴり思ってるけれど」 アンジェリークは疲れているくせに、それは柔らかで優しい笑みを浮かべた。 エンジュははっとする。今までで一番アンジェリークが綺麗に見えたから。輝いて見えたから。 自分も頑張らなければならないと思った。 「そうだよね! 一生懸命頑張って、私たちが出せる限りの力で、素晴らしい舞台を作ろうね」 ここにも自分と同じ悩みを持って、舞台にぶつかっている少女がいる。負けられない。お互いに切磋琢磨をして、ライバルになりうる舞台を作っていかなければならない。 「頑張ろう、エンジュ!」 「ええ、頑張ろう! アンジェ!」 ふたりはしっかりと手を握り合って、お互いの強い想いを誓い合った。 服を着替え終わり、更衣室を出る。 「ねえ、アンジェ、私、レオナードさんと一緒に帰るのだけれど、一緒にどう? 危ないし」 アンジェリークは嬉しそうに笑ったが、首を横に振った。 「有り難う、大丈夫よ。お邪魔したら悪いし」 ちらりと探るような眼差しを向けられて、エンジュは真っ赤になる。 「お、お邪魔じゃないよ!」 エンジュは真っ赤になりながら、慌てて妖しげに否定する。そんな態度を取ってしまえば、肯定もしたも同然だったりするのだが。 「それにね、私も…」 更衣室を出てアンジェリークがちらりと奥を見ると、煙草を銜えたアリオスが冷たい足音を響かせてやってくる。 「おせえ」 「すみません。着替え済みました」 「帰るぞ」 「はい!」 アンジェリークは明らかに輝いていた。アリオスの前にいる彼女は、CMに出てスポットライトを浴びている時よりも、絶対に綺麗だ。 「じゃあね、エンジュ」 「うん」 アリオスはアンジェリークしか見えていないようだったが、最後にちらりとエンジュを見た。 「レオナードが入り口で待ってるぜ?」 「はい」 エンジュは少しふたりに遠慮をして、一歩離れて歩き始める。心の機微は先ほどよりも上向いているようだった。 劇団の入り口を出ると、レオナードがぶっきらぼうに立って待っていた。 「待ってたぜェ。根が生えちまうかと思ったぜェ」 「生えて動かなくなったら力尽くでも引っこ抜いてあげます!」 エンジュがご機嫌を取り戻した声で言うと、レオナードも僅かに笑う。 「それでこそオトコマエなエンジュちゃんだぜェ! パワーあるのみ!」 レオナードはわざとムキムキキン肉マンの真似をするので、エンジュはあかんべーをしてやった。 「筋肉もりもりじゃないですよ〜だ」 「お前ならいつかそうなるかもしれねえなァ」 レオナードは歯をニシシと出しながら、笑う。先ほどの厳しいレオナードはどこかに行ってしまったようだ。 「ちょっと温まっていかねえか。コーヒーとか飲んだら落ち着くかもな」 「はい! お共します!」 車が行き交う幹線道路の脇を、のんびりゆったりと歩く。劇場を備えた劇団のビルは繁華街にあり、目抜き通りに面している。比較的、稽古の後もどこかに顔を出しやすい環境にあった。 「温かいコーヒーを飲んで、軽くメシを食ったら今日は布団に入って寝ちまうといい。明日はもっと良いエンジュちゃんが顔を出しているはずだぜ?」 「うん、どうも有り難う。頑張るわ」 レオナードがふと歩みを止めて、エンジュの顔をじっと覗き込む。余りにマジマジと凝視するものだから、エンジュはドキマギした。 「え!? あ、あの…」 「今、俺様に対して、初めて『有り難う』って言ったな? いつも『済みません』や『ごめんなさい』ばかりだったからな」 エンジュは自分でも驚いてしまい、その目を大きく丸くした。そんなに不遜だったのか。『有り難う』もきちんと言えないだなんて、役者以前にひとりの人間として、失格のような気がした。 「…私って、随分偉そう…」 「ああ。カタリーナに負けねェぐれェになァ」 レオナードは煙草を口に銜え、愉快そうに笑う。その笑みが余りに素敵すぎて、エンジュは少し臍を曲げて拗ねてしまった。 「ちゃんと礼を言えるようになっただけでも、少しは成功かもなァ。俺の調教もまんざらでもねェな」 「調教なんてされていませんよ〜だ」 わざと憎たらしいことを言ってしまうのは、そうしなければ心がレオナードに倒れていってしまうから。強情を張ってしまうのもそのせい。 「寒いなァ」 革の手袋で包まれたレオナードの手が、ふわふわの毛糸の手袋で包まれたエンジュの手にしっかりと重なった。 お互いに一枚通しているが、温もりはしっかりと感じる。 「今度はひっかいて来ねェんだな。エンジュは」 「そんなことしませんよ! だってそれなら、レオナードさんの思うつぼだもの」 「まあそうだ」 本当に可笑しそうに笑った後、レオナードはぎゅっと手を握って引いてくれた。 とっても温かくて気持ちがよい。 丁度自分の今の状況のような気がした。 レオナードにしっかり手を引かれて、この舞台を暗中模索している。こうやって引かれているのも悪くはないが、やっぱりいつかは対等に同じ舞台に立ちたいと思うのは、見果てぬ夢なのだろうか。 エンジュは、せめて今だけでも同じ歩幅で、同じ位置でしっかりと歩きたい。少し歩幅を広くしてみた。 「お? どうしたんだよ?」 「いつか、レオナードさんと対等にこうやって歩けたらって思います。女優として、きちんとレオナードさんの芝居を返せるようになりたい」 レオナードの眼差しが柔らかに細くなった。本当に優しい光を宿している。 「いつかな。でも俺もお前を待って同じ位置にいたら追い越されちまうから、常に早足で歩かせて貰うぜ。それでも構わねえんだったら、追いかけて来いよ」 「はい! そうします」 「おし、良い返事だぜェ」 エンジュはほんの少しだけ大股で、そして胸をしっかりと張って、コーヒーショップまで歩いた。 * レオナードが連れて行ってくれたコーヒー専門店は、ほんの小さなお店だった。そこは地下鉄の駅構内近くにあり、ガラス越しに電車の発着が見られ、慌ただしくも出発や到着のアナウンスを聴くことが出来る。 「ここのカツサンドとコーヒーは絶品なんだぜェ。俺様が自分で淹れたコーヒー以外で認めるのは、ここだけだ」 「そうなんだ…」 ひょいっとガラス窓に面したカウンター席のスツールに、ふたり並んで腰を掛けた。 「新人の頃、ここにはよく世話になったぜェ。演出家に怒られた時なんざぁ、ここで何処が悪かったか反省したりしてな。今でも、何かあったらここに来て気持ちを落ち着ける。すると、不思議と翌日の芝居も上手くいく」 「へえ」 レオナードのとっておきの隠れ家を見られたようで、エンジュはとても嬉しかった。レオナードは新人時代の心の故郷をこうして惜しげもなく見せてくれる。 その気持ちが、エンジュの心に真っ赤な炎を灯してくれる。 「ホントに不思議。ここにいると、落ち着いて色々見られるものですね。私も、何かあったら、ここに来ようかな」 「台詞もここにいると不思議に入ってくる。俺様はな? 煙草と極上のコーヒー、カツサンドがあれば、俺様だけの集中した空間が産まれる」 エンジュは早速台本を取りだし、自分が苦手な最後の長い台詞を読み始めた。 「そうだぜ、その意気だ」 レオナードの声も遠くに聞こえるぐらいに、台詞に集中することが出来る。 クスッと笑うと、レオナードは煙草に火をつけ、一生懸命様子を見てくれる。すると、苦手な台詞もするする入って、克服した気分になるから不思議だ。 余りに台詞に没頭してしまい、カツサンドとコーヒーの香ばしい匂いがするまで、全くここが何処であるかを気付かなかったぐらいだ。 「あ、コーヒー。気付かなかったです」 「ほら、食って元気を取り戻せ。今だけは台詞のことは忘れてな」 「はい!!」 エンジュは台本を音を立てて閉じると、鞄に仕舞い込んだ。 今集中するのは目の前のご馳走だ。 「美味しい! コーヒーも、カツサンドも!!」 「だろう?」 レオナードは満足そうに見守るように笑い、じっとエンジュを見つめる。余りに優しすぎる視線に、エンジュは照れてしまった。 「あ、あの…。あんまり見られちゃうと…、なんか、食べづらいと言うか…」 「見られるのを馴れるのも、仕事のうちだぜェ、エンジュちゃあん」 「だからって…」 カツサンドを妙にお上品に頬張りながら、エンジュはレオナードに対して、上目遣いを止めることが出来なかった。 お腹もいっぱいになって、ふたりはコーヒーショップを出て、そのまま駅の改札を通る。二人して同じ方向で最寄り駅も同じだとは、全く持って偶然だった。 「凄い偶然ですね」 「俺様は前から知っていたけど」 「え?」 エンジュが聞き返すように声を上げても、レオナードはただ微笑むだけだった。 ふたりで演劇論を闘わせながら、仲良く最寄りの駅まで帰った。途中熱くなったり笑ったり。とても有意義に使うことが出来る時間だった。 レオナードは遅くて道も暗いからと、わざわざ家まで送ってくれる。 「明日もまた頑張らねェとなァ。公演も近いことだし」 「そうですね。力を尽くして頑張ります。明日は今日よりも出来は良いと信じて!」 「俺も楽しみにしてるぜェ。最後の台詞、きっと明日の朝になれば覚えてるさ」 レオナードは視線を高く上げ、空を見上げる。 「星に願っておけば、きっと叶うぜ」 「うん、そうだといい」 エンジュもレオナードと同じように星の瞬きに目を凝らした。 「おい、エンジュ」 「え?」 声を掛けられたので、レオナードに顔を向ける。すると唇が耳を掠った。 「 !!」 「明日も頑張れよ。おやすみ」 レオナードは何事もなかったようにただ笑うと、エンジュからスッと離れていく。 「お、おやすみなさい」 小さく手を振ると、レオナードは高く手を上げて応えてくれる。 冬の深まった夜の空気は、切れるように冷たくて澄んでいる。 だが、エンジュの耳朶は、そんな冷たさすらも燃え尽くしてしまうぐらいに、熱かった |