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髪を伸ばすのは、恋をした時と決めていました。 あなたに本当に恋をした日、私はこの髪の長さから卒業を決めたのです---- 桜がまるで天蓋のように、エンジェルタウンを覆い尽くした日、アンジェリークは緊張した面持ちで駅前に佇んでいた。 胸に抱いている愛猫しかいない。本当に心細い旅立ちだった。 視線が昊や町の雰囲気に泳いでいる。 アンジェリークが暮らした町よりもほんの少しのんびりはしているが、首都からも誓い、美しい古都として知られているエンジェルタウン。 今日からこの町で暮らす。 綺麗な教会の尖塔がとてもロマンティックで、緑が素晴らしく多いこの町で。 あちこちから聞こえる教会の鐘の音や、賛美歌がとても心地良い。 両親を亡くしたのは、まだ一週間足らず前だというのに、遠い昔のような気がした。 横にいるのは一見柄が悪そうに見えるが、とても親身になってくれる典型的な庶民の味方の弁護士。 新しくアンジェリークの後見人となった男と逢わせてくれるのだ。 「おっせーな。また何処かで昼寝でもぶっこいてるんじゃねぇかぁ? あいつは!」 アンジェリークのために奔走してくれた弁護士レオナードは、何本目か解らない煙草に火をつけた。 「…確かに、遅いですよね…」 アンジェリークは時計を見つめながら、そっと溜め息を吐いた。 「…仕事にはルーズなヤツじゃねぇんだが、こういう時はどっかで寝てたりするんだよな…。あの男…」 不意に先ほどからアンジェリークのジャケットから顔を出していた愛猫のアルフォンシアが大きく躰を乗り出してきた。 「あっ! アルフォンシアっ!」 アルフォンシアは勇気を掻き集めた結果、アンジェリークの腕のなかから見事なダイビングを決める。 そのまま一心不乱に駆け出していった。 「ちょ、ちょっとアルフォンシアっ!」 アンジェリークは慌てて愛猫の後を追いかけて行くが、敵はかなりすばしっこくて、なかなか追いつけない。 「もうっ! アルフォンシアのばかっ! どうして大事なときに逃げ出しちゃうのかなあ」 アルフォンシアの白い影を何とか追いかけて、アンジェリークは息を切らしながら露地へと入っていった。 「もう。迷子になって戻れなくなっちゃったらどうするのよ…」 アンジェリークは困ってしまい、また大きな溜め息を吐いた。 アルフォンシアの行方が掴めない。焦りそうになったところで、アルフォンシアが愛らしく鳴く声を聴いた。 「アルフォンシア…」 鳴き声を頼りに、アンジェリークはゆっくりと近付いていく。するといきなり明るい袋小路に出てしまい、思わず目をすがめた。 「…あっ…!」 目を光に慣らすようにゆっくりと開けてみる。すると太陽の光をきらびやかに浴びた桜が、宝石よりも美しく輝いているのが視界に入って来た。 きらきら輝く、まるでそこだけがリアルではないような風景に、アンジェリークはうっとりと魅入った。 「…綺麗…」 アルフォンシアが自分を主張すりように、可愛いくしゃみを一回した。 心地よい風がふわりと起こり、桜の花びらが舞い落ちて行く。 子猫の小さな小さなくしゃみですらも堪えきられない桜が、哀れな美しさを放っていた。 はらり、はらりと舞い落ちる桜の花びらの行く末を視線で追い掛けていると、綺麗な妖精が目に入った。 「…あ、男の人…」 桜の木の下には妖精と見間違えてしまいそうなほどに綺麗な男。 アンジェリークはその姿をじっと瞼に焼き付けるように見つめた。 乱れている銀色の髪はなまめかしく、無心に目を閉じた姿は、記憶のなかにじっと閉じ込めたくなるほどに 麗しい。 桜の下でただ眠っているだけなのに、それだけでどんな絵画よりも美しく見えた。 モノトーンの雰囲気に、桜の薄紅がとてもよく似合う。 綺麗すぎて触れたいような触れたくないような、見ているだけで激しいドキドキを感じていた。 アンジェリークは今自分が何をしていたのかだとか、何をしなければならないかなんて、すっかり忘れてしまっていた。 意識にあるのは、目の前にいる男のことだけだ。それ以外に何もない。 男の美しさにただ見惚れ、魂までも奪われていた。 細かいディテールまで整っている男の顔立ちは、アンジェリークのこころを激しく焦がしていく。 見つめ過ぎても見つめ足りない。まるで男を見つめている間、時間が止まってしまったかのように思えてならなかった。 僅かに男の睫毛が動いた。 じっと見つめていたのがバレてしまう。逃げなければならないシチュエーションのはずなのに、アンジェリークは 逃げられない。 男の瞼が更に大きく動いて、ゆっくりと開かれていく。 開かれた瞳が、想像する以上に綺麗だったから、アンジェリークは息を呑んでしまった。 なんて麗しくてなんて純粋に綺麗な瞳なのだろうか。 開かれた瞳は、金と緑のオッドアイ。それがまた目の前の男にはとても似合っていた。 男は目を何度かしばたいた後、面倒臭そうに長めの前髪をかきあげると、欠伸をしながら躰を起こした。 「…アンジェリーク…か。大きくなったな」 「え、あっ、へ?」 いきなり懐かしそうに面倒臭そうな口調で言われても、アンジェリークは戸惑ってしまう。 少なくともアンジェリークの記憶のなかには、これほど綺麗で独特な雰囲気を持っている男は、今までいなかった。 アンジェリークがどうして良いか解らずに、うろたえている間、男は平然と煙草を唇に押し込める。 「レオナードは?」 「へ?」 「お前さんと一緒に来るはずの、熊みてぇな弁護士」 男は甘さが含んだ無機質なテノールで呟きながら、煙草の煙を宙に舞い上がらせる。 「あ、レオナードさん。駅前で一緒に待っていたんですけれど…」 「ああ、解った。じゃあ行くか」 男は面倒臭そうに呟くと、ジャケットを持って立ち上がる。桜の花びらが髪の毛に絡んで、とても綺麗だった。 「おい、その足下に転がってるのはお前の猫か?」 「はい」 「ちゃんと回収しとけよ」 アンジェリークはアルフォンシアを慌てて抱き上げると、男の後に着いていく。 立ち上がった男の身長は、想像していたよりもかなり豊かで、躰は抜き身の剣のようにしなやかに筋肉がついていた。 「あ、あのっ! あなたはどなたですか? 私のことをご存じのようですが?」 アンジェリークが声を掛けると、男はゆっくりと振り返る。 「ああ。言っていなかったか…」 男はアンジェリークを見ると、冷ややかな表情を向けて来る。 「…アリオス。お前の義理の叔父で、後見人だ」 さらりと言われて、アンジェリークは目を見開く。 こんなに若くて、どこか厭世的ですらある男が、自分の叔父だとは、アンジェリークは俄かに信じられなかった。 アリオスは冷たい笑みを浮かべると、アンジェリークに背中を向けて歩いていく。 「あっ、あの!」 「とっとと来い。レオナードが待っている」 質問をしようとしても、アリオスは全く取り合ってはくれないかのような雰囲気を醸し出している。 まるでアンジェリークの総てを否定しているような雰囲気に、思わずたじろいだ。 声を掛けようとも掛けられない。 冷たい、なのにとても魅力的なひと。 一緒にやっていけるのかという不安が、アンジェリークのこころのなかで擡げてきた。 「アリオス! お前、遅過ぎだっつーのっ!」 駅前で待ちくたびれていたレオナードは、あからさまに不機嫌そうにアリオスを睨み付ける。だが、アリオスは平然と受け流していた。 「悪いな。太陽が黄色かったんでな」 「んなのは、言い訳にならねぇ! バカっ!」 アンジェリークがふたりの様子をおろおろと見つめていると、アリオスがポンと肩を叩いた。 「俺たちの間じゃいつものことだ。気にするな」 「はい」 肩に一瞬だけ乗せられた手。 それはとてつもなく温かくて素敵なもののように思えた。 |