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余りに気持ちが良い朝だったから、寝ているのが勿体ないような気がして、アンジェリークは早々とベッドから下りた。 身支度を手早く済ませて庭に出ると、白い子猫がひょこひょことやってきた。 「可愛いにゃんこちゃんだ」 アンジェリークは猫の視線の高さになるために屈むと、そっと指を伸ばした。 「可愛いね、お前」 「なんだ、もう起きたのかよ」 低くよく通る声に振り返ると、そこには眠そうに欠伸をしているアリオスが立っていた。 朝陽が最も似合わなそうで似合っている。銀色の髪が陽の光が弾いて、とても綺麗だ。この世のものではないと思うぐらいに美しい。 ドキリとしながら、アンジェリークはアリオスを見つめた。 「ねぇアリオスさん、この猫なんて名前?」 「にゃんこ」 「え?」 「うちの庭に居着いている野良猫だ。適当ににゃんこと呼んでる」 アリオスはさらりと言うと、眩しそうに太陽を見上げた。 「じゃあ名前を付けて良い?」 「ああ。お前の好きなようにしろよ」 「うん」 猫の名前をつけるなんて始めてで、アンジェリークは色々と頭を悩ませる。 名前はなかなか簡単につけることは出来ない。じっくりと考えなければ難しい。 「学校に行っている間に考えるよ」 「まるで宿題だな」 アリオスは苦笑いを浮かべると、廊下を突っ切って歩いていく。 「あ、あのアリオスさんっ! 何処へ!」 「あー? 朝メシ作りに行くだけだ」 「手伝いますっ!」 アンジェリークが慌ててテラス戸からなかに入ると、アリオスは薄く笑う。 「今日は俺がやるから構わねぇ。明日からは交替でやろうぜ」 「あ、はいっ!」 それでも悠長に庭で猫と遊んでいるわけにはいかなくて、アンジェリークはアリオスの後を追った。 リノベーションされた住宅ということもあり、古き良きものと新しき良きものが同居しているキッチンになっている。 今のようにリビングダイニングと繋がっているものではなく、キッチンは独立した空間になっている。小さなテーブルも置かれていて、そこで簡単な食事を取れるようにもなっている。 古いのに綺麗な白い木のシステムキッチン。程よく光が入る窓も、ご機嫌なぐらいに快適に思えた。 アリオスなら洋風の朝食が似合うと思っていたのに、その好みは意外とシンプルでどこか家庭的だ。 出された朝食は、焼き魚、味噌汁、温泉卵、ホウレン草のお浸し。まるで旅館の朝食としか思えない。 「とっとと食って学校に行け」 「はい」 向かい合ってこうしてアリオスと朝食を取るのは緊張する。まるで自分を邪魔だと思っているのではないかと、勘ぐってしまうから。 朝食はアンジェリークが作るものよりも、かなり美味しかった。 こういうそつのないことをされると、女の子としてはかなり哀しくなる。 しかも居候なのに。 居候が家主よりも何も出来ないなんて、これほど肩身の狭いことはないと思った。 殆ど何も話す事なく朝食を終えると、アンジェリークは手早く片付けて家を出る。 「いってきます」 「ああ」 挨拶をしてもアリオスは素っ気無くて、煙草を咥えたままで、新聞を読み耽っている。 アリオスの関心がなさそうな対応に、アンジェリークはまた溜め息をひとつ吐いた。 アリオスと仲良くしていく自信がない。 いつか棄てられてしまうのではないかという怯えが、こころから拭い去る事が出来ない。 アリオスはふらりとアンジェリークをどこかへ捨て置いてしまうような雰囲気があったから、ずっと自分を潜めて生活をしていた。 学校から帰ると、家は静まり返っていた。 アリオスは、自宅を設計事務所にしているから家にいることが多いと思っていた。 だが一向に気配が無い。 「しかし不用心だよね。家の鍵をかけていないなんて…」 アンジェリークが家に入ると、事務所側から鉛筆を走らせるような規則正しい音が聞こえて来た。 「…アリオスさん、ただいま帰りました…」 小さな声でこっそりと声を掛けると、部屋の向こうには製図板に向かうアリオスの姿があった。 ドラフターを使わずに、スケールだけで丁寧に図面をかきあげている。 その真剣なまなざしに、アンジェリークの魂は吸い込まれそうになってしまった。 気持ちが切ないほど高まってドキドキする。こんなにも何かに夢中になって見つめた事は、今まででなかったかもしれない。 指先も、こころも何もかもが震えてしまい、息が出来なくなる。 昼の気怠い光を浴びながら図面を描くアリオスは、誰よりも綺麗で美しかった。 こんなに素敵で素晴らしいと思った男性は他にいないかもしれない。 まるでスクリーンに映った影でも見つめるように、アンジェリークはアリオスを見つめた。 アンジェリークがじっと見つめているのに気付いたのか、アリオスがゆっくりとこちらを向く。 だがそれは一瞬で、直ぐに図面へと向かった。 「…何だ、帰っていたのか」 「ただいまです」 「ああ」 アリオスの返事は相変わらず素っ気無くて、挨拶をした後、鉛筆を置いた。 「この近所の市場を教えておく。スーパーよりも新鮮で便利だから覚えておくんだな。行くぞ」 「あ、あの、着替えて来ます」 「ああ、手早くな」 アリオスは煙草を口に咥えると、それに火をつけて待ち構える。 大人の男らしい仕草だとアンジェリークは思った。 「おら、とっとと行け。俺が煙草を吸い終わるまでにはちゃんと戻ってこいよ」 「は、はいっ!」 アリオスに慌てて返事をすると、アンジェリークはバタバタと自室へと向かった。 何もないけれど、今や唯一自分の居場所になったテリトリーだ。 アンジェリークにとっては、隠れることが出来るただひとつの場所といっても過言ではない。 手早く着替えると、アンジェリークは慌ててアリオスの仕事場に戻った。 「お待たせしました」 「ああ、行くぜ」 アリオスが一服をちょうど終えて、エコバッグを手にする。 「今日はラム肉の特売だった筈だから、ラムシチューだな」 「アリオスさんも、特売に行くんですか?」 「アホ、特売は基本だろ? 朝の新聞をしっかりと読んで、広告チェックをして、買い物に行くのが基本だろっ!」 「は、はいっ!」 アリオスが厳しく鋭く言うものだから、アンジェリークは躰を小さくしながら返事をした。 市場は、この地域の新鮮な野菜や肉、魚介類を扱っており、どれもスーパーに比べると安くて、品物も抱負だった。 アリオスは、肉、野菜、魚介類の見分け方を、少しばかり乱暴ながらもレクチャーしてくれた。 「お前が買い物当番の時は今の事を踏まえるんだぜ」 「はい」 アリオスのレクチャーは、見た目のクールさからは想像出来ないほどに意外だったが、楽しくもあった。 「今日はとても楽しくてためになりました」 「ちゃんと買い物をしてくれよ」 「ちゃんと…きゃあっ!」 アンジェリークの横をスレスレに車が走り抜け、危うく飛ばされそうになった。 倒れそうな躰をアリオスの鍛えられた腕が、しっかりと支えてくれる。 「…あ、有り難うございます…」 アンジェリークはアリオスの顔を見上げる。こんなに近い距離で見た事はなくて、ドキドキが激しくなる。 こんなに素敵で、こんなに綺麗なひとだったなんて…。 クールそうに見えるアリオスの奥にある温かな部分に触れたような気がする。 そう思った瞬間、ときめきのドキドキでどうかなりそうだった。 恋をしてしまったかも。 |