Cinderella Bowl

4


 熱い唇の余韻に浸ったまま、夜の川を駆け抜ける馬のように走る車に、ロマンティックに揺られていた。
「このドレスで家に帰るなんて、何だかバランスが悪いです」
 まるで魔法が解けてアンバランスなシンデレラのようだと感じていると、アリオスが意外な言葉を突きつけてくる。
「おまえは家には戻らない-----」
「え!?」
 一瞬、耳が可笑しくなったかと感じてアリオスを見たが、それが本当のことだと言うことは、その顔を見れば直ぐに判った。
「今からデビュタントボウルの翌日まで、うちに住み込んでマナーをみっちりたたき込んで貰う。つけやきばかもしれねえが、おまえは立派な淑女になれる」
「-----でも…」
「でもは訊かねえ。おまえは俺の家に戻るそれだけだ」
「きゃあっ!」
 アンジェリークの身体がジャガーの助手席で揺れるほどに、アリオスはアクセルを踏み、強引に屋敷へと連れ去る。
 どんな抵抗をしてもこの男の前では無だろう。
 つい先ほどまただの庶民だった自分を思いながら、アンジェリークは瞳を閉じ、溜息を吐いた。

 連れて行かれた屋敷は、想像通りの場所だった。
 映画やロマンス小説に出てきそうな、瀟洒な屋敷だ。白亜の殿堂といえば聞こえが良いだとうか。だが、決してラブホテルのように安っぽいものではなく、正真正銘の本物だった。
 リアルな豪華さが目の前に広がる。
 きっと、アンジェリークなど想像出来ないほどに大金持ちなのだろう。富豪なんて言葉は、アンジェチークの中では、虚偽の世界のものでしかなかったというのに、今やリアルな姿となって目の前にある。
 得に目の前にいる男が現実として見せている。
 荒っぽい運転に耐えて、屋敷の駐車場にたどり着いたかと思うと、アリオスに逃げないようにしっかりと手を掴まれて、屋敷の中に連れて行かれる。
 もう暗くて屋敷の全貌などは目で確認することなど出来やしなかったが、そのシルエットだけでも、部屋がいくつあるか解らないほどの大きさに感じられた。
「おまえの部屋は二階だ。あいにくバルコニーとかはねえが、部屋にはバスとトイレが完備されていて、生活に師匠はないはずだ。おまえの生活に必要な者は、既にロザリアに言って部屋に用意させているから」
 アンジェリークは、映画に出てきそうな螺旋階段を引きずるように上がりながら、上手く返事が出来ない。
 このまま「マイ・フェア・レディ」のイライザのように熱湯風呂に入れられるのだろうか。まるで者みたいに、綺麗にされるのだろうか。
「お前の部屋はここ」
 アリオスが鍵を開けて招き入れてくれた場所は、アンジェリークの住むアパートの、優に3倍はある広さだ。
 天蓋付きのベッドも、照明も、ドレッサーも、きら星となってアンジェリークの視界に飛び込んでくる。
 そのスピードといえばサブミナル効果の映像よりも素早い。
「ここを自由に使って良い。風呂はボタンを押せば使える、シャワーはいつでも快適なお湯が出るようになっている」
 アンジェリークは一気に入ってくる情報が余りに多すぎて、きちんと生理が出来ていない。ただ頭の中をごちゃごちゃとさせながら、ぼんやりと見つめているだけだ。
「じゃあおやすみ」
「あ…」
 アリオスの唇が一瞬触れたかと思うと、風のように離れ、ドアが閉じられる。
 アリオスとデビュタントボウル、そして自分の世界が切り離されたような気がした。
「これは夢なの…?」
 アンジェリークは部屋にひとり佇んでいた。何もかもが夢であってくれたなら。でも夢なら覚めないで欲しい。
 複雑な感情が、アンジェリークの内面にこだまする。
 成り行きでアリオスの家に住むようになってから、まだ馴れた感じにはならない。
 落ち着かない気分で唇に触れた。
 唇が熱い。
 何度触れても熱い。
 アンジェリークは部屋に入ってからも、部屋を見渡すことも、ドレスを脱ぐことが出来なかった。
頭がぼんやりとする。
 触れただけなのに、こんなに切なくて熱い。
 アンジェリークは暫くは天上を見上げることしか出来なかった。
 宛われた部屋の豪奢さに感動している間もなく、キスの余韻が激し過ぎて、アンジェリークはぼんやりとしている。
 部屋にはバスルームまで完備されているから、時間を気にする必要はないから、ぼんやり出来るのだが。
 不意に力強いノックが部屋に響き渡り、アンジェリークは現実世界に強く押し戻された。
「はい」
 アンジェリークが部屋のドアを開けると、アリオスが立っている。既に着替えたアリオスは、タキシードよりもスーツよりも、ラフなブラックジーンズとシャツが似合っている。
 アリオスが着替えるぐらいの時間、時間を忘れてぼんやりとしていたかと思うと、何だか恥ずかしくて、顔を赤らめた。
「どうせおまえな腹はかなり空いているだろ?」
 アリオスはサンドイッチと紅茶ポットをトレーに置いて、片手でしっかりと持っている。
「おら」
「…有り難う…」
 アンジェリークはたどたどしく礼を言うと、遠慮がちにトレーを受け取った。野良猫が人間から餌を貰うのに、一瞬、戸惑うような視線を送りながら。
「部屋は、気に入ったか?」
「まあ、まあ、まあ」
 ちゃんと見ていないのだから、曖昧さは当然の返事ではあるのだが、アリオスは眉を上げる。
「あんまり気に入らなかったか?」
「そ、そんなんじゃなくて、何となく、その…ちゃんと見てないから、言葉に困って…。だけど、私には少しばかり豪華過ぎるかな、とは、思いますが…」
 アンジェリークはしどろもどろになりながら、アリオスにストレートな気持ちを言った。嘘、偽りが無い自分の気持ちを。
「おまえはいつも真っ直ぐだな。見ていて気持ちが良い」
「あ、有り難うございます…」
 素直になれるのは、アリオスがいつもありのままで相手をしてくれるからだと、アンジェリークは心の奥底で思いながら、照れを隠すように笑う。
 アリオスの宝石を埋め込んだような瞳が、アンジェリークの心の奥を照らすように光る。
 絡めあった眼差しに、ふわふわとした息苦しさを感じた。
 胸の鼓動が、胸を揺らそうとした瞬間に、タイミングが良く、アンジェリークの空腹を知らせる音が鳴る。アリオスは本当に可笑しいとばかりに喉を鳴らした。
「おまえがそういつもストレートでいてくれたら、俺も凄く助かるけれどな」
 アリオスはご機嫌に笑いながら、アンジェリークの小さな鼻を、指で弾いてくる。
 痛くないのに、何だか痛いような気がした。思わず眉間にシワを寄せて、すっぱいしかめっつらをする。
「とっとと腹に収めて、風呂に入って今夜は寝てしまえ。デビュタントには色々とやってもらわなければならねえことが、満載だからな」
「はい」
「睡眠不足も肌には大敵だぜ? アンジェリーク」
「はい」
 最もだと思いながら素直に返事をしていると、アリオスがじっと顔を凝視してくる。
 アリオスのように調った顔に見つめられると、やはりアンジェリークの乙女心は激しく針を動かしてしまう。
「その素直さで、俺のベッドで”夜のデビュタント”になる気はねえか?」
 耳元から、染み入るような低い声で囁かれて、アンジェリークは一瞬フリーズしてしまった。躰は固まっているのに、心は、激しいポリネシアンダンスを踊り狂ってしまっている。
 真っ赤になったまま、どうしていいのか解らないでいると、アリオスがまたからかうような魅力的な笑みを、アンジェリークに突き付けてきた。
「まあ、素直に頷いてくれたら嬉しかったところだが、今日はここまでだな。まあ、期待してるぜ?」
 明らかに経験豊かな男特有の雰囲気を醸し出しながら、アリオスはアンジェリークの頬にキスをする。
「おやすみ」
 また、キスをされた。
 躰が近付いた瞬間、逞しい肩のラインがアンジェリークの柔らかなラインに当たり、意識を激しくせずにはいられない。
 ムスクの神秘的な香りが、アンジェリークの鼻孔を柔らかく刺激をした。
 そのまま静かに部屋のドアが閉められ、アンジェリークは暫くドアの前でぼんやりとしなければならなかった。
 ぼんやり散々した後に、アリオスが持ってきてくれたサンドイッチをベッドの上でばくつく。
 確かにこのサンドイッチも、かなりの美味しさだろう。だが、アンジェリークにはサンドイッチの味等を感じる余裕は無く、ただアリオスの逞しい躰とムスクの香りしか、考えることが出来なかった。


 だが朝は優雅にやってくる。
 アンジェリークは良く眠れなかったので、優雅とはほど遠い朝を迎えていた。
 アリオスと朝食の同席を求められていたので、目をこすりながら何とか参加した。
「寝不足か? それが俺のせいだったら、すげえ嬉しいけれどな」
「違います」
 アリオスのからかう視線が恥ずかしくて、アンジェリークは俯きながら否定した。だがその態度は、半分アリオスのせいだと言っていることを、勿論、アンジェリークは気付かない。
「とりあえず、朝食も食事マナーの練習だ。基本的に俺と同じ食卓に上がる時は、そう考えてくれてかまわねえから」
「はい」
 急に食道が唯の配管のように思えてきた。栄養分を流すだけのただの管だ。そう考えると、自分が機械のように思えて、アンジェリークは切なかった。
「しっかりと味わえよ。ただマナーを綺麗に遂行しても意味はねえ。そこのところはきちんと考えろよ」
「はい」
「解らなかったら、いつでもきけ」
「はい」
 まるで機械のように素直に返事することしか出来ない。それは逆に、アリオスに対してストレートではないだろう。だが、アンジェリークにはこういった対応しか出来ないでいた。
 アリオスの真似をして丁寧に上品に朝食を取った後、今度はマナー講座が待っていた。
 アリオスは仕事に行ってしまい、何だか手持ちぶたさのやる気のない気分になる。
 社交界の様々なしがらみを勉強する度に、なんて面倒臭いものなのかと、改めて感じた。
 ダンス、エステ、メイク、接遇マナー…。社交界の独特のマナーまで学ばなければならず、アンジェリークはぐったりとした気分になっていた。
 そんなレッスンばかりの日々が、しばらくの間続く----

 疲れが頂点に達する頃、週末を迎えた。これほどまで、休みを欲したのは久しぶりだ。
「この週末は、俺がしっかりとレッスンしてやるから、そのつもりでな」
「えっ!?」
 アンジェリークはくたくたでしょうがないのに、まだレッスンをするつもりかと、思わず不平の溜め息をはいた。
「時間がねえからな。明日にはドレスの寸法を取って、至急作らせる。エレガントに美しく、デビュタントボウルには出るぞ」
「はい」
 素直に返事をして良いものかと迷ったが、真っ直ぐが信条なのでしっかりと返事をしておいた。
「でも、これだけしっかりとレッスンをしてまで、私をデビュタントにしようとなさったんですか? だって、もっと手っ取り早くて、短い期間にも焦らずに済むでしょう?」
 アンジェリークは当初からずっと疑念に思っていたことを、素直に口にしてみた。
 すると、いつもはクールビューティなアリオスが、困ったように目を細めた。
「出来上がった女をデビュタントにするのは、おもしろくねえだろ?」
「面白くねえって、アリオスさん」
 アンジェリークは呆れ返りながら、アリオスをじっと見る。本当に何を考えているのか、全く解らない。
「おまえをデビュタントに選んだのは、もちろん、やり遂げることが出来る逸材だと解っているからだ。おまえしか、うちのデビュタントは考えられねえな。んな、作られた人形みてえなデビュタントなんて、糞喰らえだぜ。人間らしいデビュタントが、俺達が考えている理想のデビュタントだ」
 アリオスに珍しく饒舌で語られると、その気になってしまうのが不思議だ。
 上手くごまかされて乗せられたような気もしないではないが、だが、これ以上きくことはないだろう。今は。
「終わったら、教えて下さいますか?」
 アリオスは一瞬逡巡したように見えたが、頷いてくれた。だが、どこかにすっきりはっきりしない曇りがある。
「ああ」
「良かった」
 アンジェリークは小さく呟く。
 本当は良くなんかないのに。アンジェリークはアリオスに笑うことしか出来なかった。
「私の出来る範囲内で頑張ります。未熟だけれど」
「大丈夫だ。おまえだから選んだ」
「アリオス…」
 魔法のように心に染み渡るアリオスの声に、アンジェリークは瞳に涙を貯めながら頷く。
 心も躰も優しい震えに支配されていると、しっかりと抱きしめられた。
 声が出ない。だが春色の吐息がアンジェリークの唇から出る。
 それが総ての気持ちを現していた。
 唇が触れる。
 それだけで、アリオスに全幅の信頼を置いた。
 唇を触れているあいだだけは、デビュタントボウルのことは忘れさせて…。
コメント

アリコレの社交界シンデレラものです。
年始のロマンスです。





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