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恋をすることが、どんな奇跡を産むかなんて、私は知らなかった。 あれを恋だと言うのであれば、これからのものは恋なんかじゃない。 これからのものは総てそうそう呼べないくらいに、私を舞い上がらせてくれた。 よちよち歩きの赤ちゃんだった私を、ひとりの女に変えてしまうぐらいの、永遠の恋だった。 熱い一日だった。 アスファルトの上がふにゃふにゃになって歩けなくなるぐらいに、暑い。 石畳の道はまだひんやりしていて、幾分かマシだった。 石畳を歩きながらも、背中には汗が滝のように流れる。 折角のシャツワンピースも汗でべとついてしまっていた。サンダルを履いているから涼しいはずなのに、それが慰めにならないぐらいに暑かった。 遠くから背の高い誰かが歩いてくる。 シルエットが石畳に映えて、夢のようにとても綺麗だ。アンジェリークは、つい夢中になって見つめてしまい、足元を疎かにした。 「あっ!」 サンダルのピンヒールが、石畳の隙間に入り込み、これ以上先に進むことが許されない。 足を隙間から勢いよく出そうとして、躰が揺れた。 「きゃあっ!」 そのままぶざまにもカエルのように倒れてしまうかと思った。 だが予想を裏切り、しっかりとしたものに上手く支えられる恰好になった。 目の前には、白いシャツ。鍛えられた胸筋がうっすらと映っている。それが男性の胸だということに、気付くまで幾分か時間を要した。 顔を上げると、長めの銀髪が視界に入ってくる。その後に認めたのは、細かいところまでこだわるように整った、容貌だった。 「大丈夫かよ!?」 「あ、有り難う…」 かけられた声も、想像通りの甘いテノールで、アンジェリークは心臓が暴れ出すのではないかと思った。それぐらいにときめきを感じていた。 「ヒールが挟まったのか?」 「そうみたい」 アンジェリークは青年を夢中になって見つめながら、自分の足元をぼんやりと見た。 かっちりと隙間に嵌まったヒールは、どうあがいても取れそうにない。 「…せっかくのサンダルだったのに…。これ、下ろしたてだったもの…」 アンジェリークが恨みがましく言うと、青年はヒールを見る。 「高くて、細いな、これ。こんなんで歩くから悪いんだよ。石畳なら、普通は嵌まるぜ? 誰が考えてもな。こんなヒールは、レッドカーペットを歩くようなときに使うんだな。エスコートされる時のみだ」 青年の言い方は、まるでアンジェリークには似つかわしくないヒールだと、言っているようだった。 「脱げよ。一度、俺に外せるかやってみるから」 「本当?」 「ああ。片足でバランス取るのは難しいだろうが、少しぐらい我慢してくれ」 青年は屈み込むと、アンジェリークに肩を貸してくれた。 その姿勢で、アンジェリークのヒールを見てくれる。 「これは外しても、ヒール部分が傷ついて、取れてしまうかもしれねぇな」 青年は目を険しく細めながら、アンジェリークのヒールを叩いた。 「いちおうやってはみるが、上手くいく保証はねえなからな。上手くいかなかったら、歩くのに相応しい、安いサンダルを買うしかないだろう」 青年の指摘は事実を淡々と述べている。アンジェリークは小さく頷くしか出来なかった。 気に入って買ったものだが、こればかりはしょうがない。 「お願いします」 「ああ」 片足を素足にして、靴の様子を見ているなんて、まるでシンデレラみたいだ。あの時は、従者だったが、今度は王子様自らがフィッティングしてくれている。 青年は、角度などを考え、アンジェリークのサンダルがうまく引き抜かれるのを模索している。 「一発勝負だ。祈ってくれよ」 「うん!」 上手くいくのかいかないのか。アンジェリークにとって、そんなことはもうどうでも良かったのかもしれない。 期待というよりも、茶目っ気たっぷりのおもしろがるような気分で見ていた。 「あっ!」 青年はヒールを外してくれた。 だが元々安物のサンダル。隙間から抜けたと同時に、ヒールもサンダルから外れた。 「すまねぇ」 青年が汗を滴らせながら言う。そんなセクシーさを見せ付けられたら、許してしまうではないか。 「どうせ980円だから、大丈夫だよ」 アンジェリークは意外なほどあっけらかんと呟いた。 「それを早く言え! おまえがあまりに深刻な顔をするから、俺はてっきり高いものだと思ったぜ」 青年は呆れ返るように言うと、がっくりと溜め息をついた。 「もっとおまえらしいサンダルを選べよ。背伸びするんじゃなくてな」 「解ってたから、安いセール品を買ったのよ!」 アンジェリークは拗ねながら本当のことを言うと、青年は喉を鳴らして笑う。 「だろうな。だからちゃんとおまえの足に馴染んでねぇんだよ。来いよ。このままじゃ帰れないだろ? 流石のおまえも」 「そうだけれど…」 アンジェリークは困ってしまい、自分の足元を見た。ヒールがすっぽりと取れてしまったハイヒールほど、間抜けなものはない。 「ぺったんこのサンダルでも買うんだな」 「うん」 アンジェリークは余りお金を持ち合わせてはいないので、どうにか安くならないかと思う。 青年が自然とアンジェリークの手を取り、引っ張るようにして歩いてくれる。 まるで恋人同士みたいだ。こんなことをするのは生まれて初めてのアンジェリークは、いつにも増して緊張をしていた。 青年が連れていってくれたのは、品の良い靴屋さん。 アンジェリークがいつも使う市場の靴屋とは、雰囲気が違っていた。 「黒のぺたんこで充分だろ?」 「はい」 どうかそれが安く買えますように。アンジェリークは祈りながら、店のディスプレイを落ち着きなく見た。 「これ、履いてみろよ」 「う、うん」 アンジェリークはそっと足をそこに入れると、ぴったりと治まった。 まるで誂えたかと思うぐらいにフィットしている。 「これが良いんじゃないか。シンデレラの靴みてぇだし」 アンジェリークがサンダルを脱ぐと、青年は店員に代金を支払ってくれた。 「あ、あの、払います!」 「かまわねぇさ。これぐらいはな」 青年は何でもないことのように言うが、アンジェリークにとってはそんなことはなかった。 「気にするな」 青年は精算してしまうと、アンジェリークにサンダルを履くように促した。 「そのヒールが取れたやつは捨ててしまえばいい」 「有り難う」 アンジェリークは何度も頭を下げ礼を言う。 フィットしたサンダルに、身も心も幸せな気分になっていた。 店から出た後も、アンジェリークは礼を言った。 「本当にどうも有り難うございます。お陰で助かりました」 「じゃあ、お礼代わりに、俺に少し付き合ってくれねぇか?」 「付き合うって…?」 何をすればいいのかと、アンジェリークは小首を傾げた。 「とっておきの休日を過ごすのに、手伝ってもらおうと思ってな」 「あ!」 青年に強く手を引っ張られる。 躰が浮き上がる。 だが、そこには楽しいものが待っていることを、アンジェリークは知っているような気がした。 |
| コメント 夏の日の物語です。 |