Summer Holiday

1


 恋をすることが、どんな奇跡を産むかなんて、私は知らなかった。
 あれを恋だと言うのであれば、これからのものは恋なんかじゃない。
 これからのものは総てそうそう呼べないくらいに、私を舞い上がらせてくれた。
 よちよち歩きの赤ちゃんだった私を、ひとりの女に変えてしまうぐらいの、永遠の恋だった。

 熱い一日だった。
 アスファルトの上がふにゃふにゃになって歩けなくなるぐらいに、暑い。
 石畳の道はまだひんやりしていて、幾分かマシだった。
 石畳を歩きながらも、背中には汗が滝のように流れる。
 折角のシャツワンピースも汗でべとついてしまっていた。サンダルを履いているから涼しいはずなのに、それが慰めにならないぐらいに暑かった。
 遠くから背の高い誰かが歩いてくる。
 シルエットが石畳に映えて、夢のようにとても綺麗だ。アンジェリークは、つい夢中になって見つめてしまい、足元を疎かにした。
「あっ!」
 サンダルのピンヒールが、石畳の隙間に入り込み、これ以上先に進むことが許されない。
 足を隙間から勢いよく出そうとして、躰が揺れた。
「きゃあっ!」
 そのままぶざまにもカエルのように倒れてしまうかと思った。
 だが予想を裏切り、しっかりとしたものに上手く支えられる恰好になった。
 目の前には、白いシャツ。鍛えられた胸筋がうっすらと映っている。それが男性の胸だということに、気付くまで幾分か時間を要した。
 顔を上げると、長めの銀髪が視界に入ってくる。その後に認めたのは、細かいところまでこだわるように整った、容貌だった。
「大丈夫かよ!?」
「あ、有り難う…」
 かけられた声も、想像通りの甘いテノールで、アンジェリークは心臓が暴れ出すのではないかと思った。それぐらいにときめきを感じていた。
「ヒールが挟まったのか?」
「そうみたい」
 アンジェリークは青年を夢中になって見つめながら、自分の足元をぼんやりと見た。
 かっちりと隙間に嵌まったヒールは、どうあがいても取れそうにない。
「…せっかくのサンダルだったのに…。これ、下ろしたてだったもの…」
 アンジェリークが恨みがましく言うと、青年はヒールを見る。
「高くて、細いな、これ。こんなんで歩くから悪いんだよ。石畳なら、普通は嵌まるぜ? 誰が考えてもな。こんなヒールは、レッドカーペットを歩くようなときに使うんだな。エスコートされる時のみだ」
 青年の言い方は、まるでアンジェリークには似つかわしくないヒールだと、言っているようだった。
「脱げよ。一度、俺に外せるかやってみるから」
「本当?」
「ああ。片足でバランス取るのは難しいだろうが、少しぐらい我慢してくれ」
 青年は屈み込むと、アンジェリークに肩を貸してくれた。
 その姿勢で、アンジェリークのヒールを見てくれる。
「これは外しても、ヒール部分が傷ついて、取れてしまうかもしれねぇな」
 青年は目を険しく細めながら、アンジェリークのヒールを叩いた。
「いちおうやってはみるが、上手くいく保証はねえなからな。上手くいかなかったら、歩くのに相応しい、安いサンダルを買うしかないだろう」
 青年の指摘は事実を淡々と述べている。アンジェリークは小さく頷くしか出来なかった。
 気に入って買ったものだが、こればかりはしょうがない。
「お願いします」
「ああ」
 片足を素足にして、靴の様子を見ているなんて、まるでシンデレラみたいだ。あの時は、従者だったが、今度は王子様自らがフィッティングしてくれている。
 青年は、角度などを考え、アンジェリークのサンダルがうまく引き抜かれるのを模索している。
「一発勝負だ。祈ってくれよ」
「うん!」
 上手くいくのかいかないのか。アンジェリークにとって、そんなことはもうどうでも良かったのかもしれない。
 期待というよりも、茶目っ気たっぷりのおもしろがるような気分で見ていた。
「あっ!」
 青年はヒールを外してくれた。
 だが元々安物のサンダル。隙間から抜けたと同時に、ヒールもサンダルから外れた。
「すまねぇ」
 青年が汗を滴らせながら言う。そんなセクシーさを見せ付けられたら、許してしまうではないか。
「どうせ980円だから、大丈夫だよ」
 アンジェリークは意外なほどあっけらかんと呟いた。
「それを早く言え! おまえがあまりに深刻な顔をするから、俺はてっきり高いものだと思ったぜ」
 青年は呆れ返るように言うと、がっくりと溜め息をついた。
「もっとおまえらしいサンダルを選べよ。背伸びするんじゃなくてな」
「解ってたから、安いセール品を買ったのよ!」
 アンジェリークは拗ねながら本当のことを言うと、青年は喉を鳴らして笑う。
「だろうな。だからちゃんとおまえの足に馴染んでねぇんだよ。来いよ。このままじゃ帰れないだろ? 流石のおまえも」
「そうだけれど…」
 アンジェリークは困ってしまい、自分の足元を見た。ヒールがすっぽりと取れてしまったハイヒールほど、間抜けなものはない。
「ぺったんこのサンダルでも買うんだな」
「うん」
 アンジェリークは余りお金を持ち合わせてはいないので、どうにか安くならないかと思う。
 青年が自然とアンジェリークの手を取り、引っ張るようにして歩いてくれる。
 まるで恋人同士みたいだ。こんなことをするのは生まれて初めてのアンジェリークは、いつにも増して緊張をしていた。
 青年が連れていってくれたのは、品の良い靴屋さん。
 アンジェリークがいつも使う市場の靴屋とは、雰囲気が違っていた。
「黒のぺたんこで充分だろ?」
「はい」
 どうかそれが安く買えますように。アンジェリークは祈りながら、店のディスプレイを落ち着きなく見た。
「これ、履いてみろよ」
「う、うん」
 アンジェリークはそっと足をそこに入れると、ぴったりと治まった。
 まるで誂えたかと思うぐらいにフィットしている。
「これが良いんじゃないか。シンデレラの靴みてぇだし」
 アンジェリークがサンダルを脱ぐと、青年は店員に代金を支払ってくれた。
「あ、あの、払います!」
「かまわねぇさ。これぐらいはな」
 青年は何でもないことのように言うが、アンジェリークにとってはそんなことはなかった。
「気にするな」
 青年は精算してしまうと、アンジェリークにサンダルを履くように促した。
「そのヒールが取れたやつは捨ててしまえばいい」
「有り難う」
 アンジェリークは何度も頭を下げ礼を言う。
 フィットしたサンダルに、身も心も幸せな気分になっていた。
 店から出た後も、アンジェリークは礼を言った。
「本当にどうも有り難うございます。お陰で助かりました」
「じゃあ、お礼代わりに、俺に少し付き合ってくれねぇか?」
「付き合うって…?」
 何をすればいいのかと、アンジェリークは小首を傾げた。
「とっておきの休日を過ごすのに、手伝ってもらおうと思ってな」
「あ!」
 青年に強く手を引っ張られる。
 躰が浮き上がる。
 だが、そこには楽しいものが待っていることを、アンジェリークは知っているような気がした。
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夏の日の物語です。





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