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アンジェリーク的に理想のキスはちゃんとある。 素敵な相手と恋に落ちて、キスをする。キスした瞬間、もうこのひと以外に必要がないと想えて、世界が一転する。キスした後は、もう、彼以外には何も感じなくなる。 世界が一変して、モノクロームからカラフルなで温かな春がやってくる。 だからキスの安売りはしたくない。 たとえどんな突発的な事故であったとしても。 体力作りとダイエットを兼ねてスポーツジムに通うのが、アンジェリークの日課になっている。 ストレス発散にもなるし、ボディラインを改善したり維持が出来るので一石二鳥だ。 自転車や筋肉を付ける為のマシーンやら色々とあるが、アンジェリークのお気に入りは水泳だった。 楽しい上に、本当に綺麗に筋肉を付けられて、しかも、労力は余りいらない。 元々泳ぐのが大好きなので、向いていると思う。 今日もスクール水着に毛が生えたような色気の微塵もない水着を着て、広いプールを泳ぐ。 アンジェリークは比較的空いていて安いデイタイム会員だ。高校生のアンジェリークにはこれが限界なのだ。 今日はむしゃくしゃしたかとがあり、来てからずっと飛び魚のように泳いでいる。それがまた気持ち良かった。 泳いでいる最初から、少し脚に違和感を感じたが、それでも楽しさは止められなくて、構わずに泳ぎ続けた。 更に大きな異変に気付いた時には既に手遅れ。後の祭り。 脚がぴんと吊ったかと想うと、言うことが効かなくなり、そのまま沈んでいく。 はい上がろうとしても、全く出来なかった。 ぶくぶくと不自然な泡だけが水面に浮かぶだけ。あがいても、あがいても全く言うことが効かなかった。 もうダメだ! 沈んでいく自分にもどかしく想いながら、半ば諦めた想いでいると、僅かに水面が煌めいたのが解った。 だが何が輝いたのか、アンジェリークには解らぬままに、そのまま闇に沈み込んでいってしまった。 ゆっくりと浮上しているような気がする。アンジェリークがゆらゆらと漂っていると、温かな感触を肌に感じた。 とても気持ちが良い。 もっと触れていて欲しい。 生暖かい風と、生々しい感触を感じて、アンジェリークは完全に意識を戻された。 重い瞼をゆっくりと開ける。 一瞬、綺麗な銀の髪をしたアポロンと目が合ったような気がした。思いがけずに、綺麗で精悍な男性。 夢のような光景に、アンジェリークは一瞬、天国にいるのではないかと勘違いしてしまった。 段々意識がはっきりとするにつれて、目の前の青年に纏わっていたきらきらとした感覚が、綺麗に消え去った。 すると、悪夢が現実に変わった。 生々しい男の横顔がそこにある。 精悍で綺麗ではあるけれど、全くリアル過ぎる。想像の世界とは違い過ぎる。 しかも。 もっと意識がはっきりとしてくると、リアルさが増す。 しかも。 生暖かな風が男の息で、温かな気持ち良さが唇と感じた日には! 唇が明らかにぴったりと重なっていた。 アンジェリークはその生々しい感触に、自分のファーストキスを奪われたことを知った。 正確には、人口呼吸なのだが。 全身がぞわわとして堪らなくなっていく。 最悪だとアンジェリークは思った。 目をぱちくりと大きく開けると、青年はアンジェリークの躰から離れてくれた。 「平気かよ?」 平気じゃない。全く持って平気じゃない! 夢にまで見て、ずっと大切にしていたファーストキスを奪われてしまったのだから。 アンジェリークは硬直して口が聞けないまま、ただ青年を見る。 確かに命の恩人だ。助けて貰ったことに、大いに恩義を感じているのは事実だ。 しかも、その辺にころがっている男ではなく、とても素敵な上に、煌めいて見える。 だが、どんな男にキスをされたって、アンジェリークのショックは変わらない。 夢見ていた、大切にしていた最初のキスを奪われてしまったのだから。 硬直して、瞳を潤ませていると、青年から溜め息が漏れた。 「しょうがねえな」 しょうがねえのはどっちよと、アンジェリークは言ってやりたかったが、ここは何とか堪え通した。 男はアンジェリークを軽々と抱き上げて、そのまま医務室に連れていく。 「医務室であったかいもん飲んだら落ち着くだろうよ」 それぐらいじゃ到底落ち着きそうにないのが、今の心境だった。 医務室の先生は女性の方で助かった。 直ぐにスタッフが着替えをロッカーから取って来てくれて、アンジェリークは下着とローブを切ることが出来た。 「溺れたらしいけれど、足でも吊った?」 温かなゆず茶を出してくれながら、美しい医師はアンジェリークに問診してきた。 「吊りました…」 「しっかり準備運動しなくっちゃね。後、体調管理もきちんとしておかないと、こういった結果になりがちだから注意をしてね。あなたの躰はあな たしか守れないんだから。水泳は意外に重労働だからね」 「はい…」 アンジェリークは子犬のように耳をくたりとさせて、うなだれた。 「アリオスさんに感謝なさいよ。あなたちゃんと御礼も言えなかったようだから。命の恩人なんだからね」 アリオス。 キス泥棒はそんな名前なのかと、アンジェリークはぼんやりと想っていた。 「少し休憩するといいわ。あ、アリオスさんが後で顔を出すって。ちゃんと御礼を言いなさいよ」 アンジェリークは唸るような声しか、出すことが出来ない。 大事な大事なファーストキスを奪われたのだ。人生ただ一度の。 素直に気持ち良く謝れない事情が乙女にはあるのだ。 お茶を飲んで、暫くほっこりとしていると、医務室をノックする音が響き渡った。 アリオスと言う名の男だ。 アンジェリークは、躰を一瞬強張らせた。 「おい、ショックの大きなお姫様の様子は?」 青年の声は、甘さとハードさが混在した不思議な声だったが、とても心地が良かった。 「ご機嫌は直っていないかもね。少しばかり不機嫌よ」 明らかに女医はときめいているのは、声の調子で解る。アンジェリークは鼻を鳴らした。 私はどんな男でも、良いわけではないのだから。 「そうか。邪魔するぜ」 声と仕切られたカーテンを開けるのはほぼ同時だった。なんて不躾な男だろうかと、アンジェリークは眉をヘの字に曲げた。 「具合はどうだ」 「ず、随分、ましです…。助けて下さって有難う」 アンジェリークはアリオスの顔を一切見る事なく、たどたどしく呟いてみせる。 正直不快だ。 命の恩人であることは認めるが、それ以外は認めることなんて出来ない。 「全然、俺には大丈夫そうには見えねえんだけれどな」 イキナリ肩を掴まれると、顔をアリオスに向き直される。 「おいっ! おまえ、ちゃんとこっちを向け! んな謝りかたしてると、俺以外のヤツはキレるぜ?」 俺以外というのは間違っていると、アンジェリークは思った。明らかにアリオスもキレている。 「…あなただけです。こんなことをするのは…」 「あんだと!? 何でだ?」 アリオスのこめかみがひくひくと動かしながら、眉間にシワを寄せて、思い切り不快な顔をしている。 「だって…、あんなに大切にしていたファーストキスをあなたが奪ったものっ!」 アンジェリークは早口になり、一気にまくし立てる。本当の事なのだから仕方がない。 「あれはマウストゥマウスだが、人口呼吸だぜ!? キスとは違うし関係あるかよ!?」 アリオスは呆れたような声を出し、アンジェリークを冷たい眼差しで捕らえてくる。なんでもないだろうとばかりに。 だが、アンジェリークにとっては大問題なのだ。 「だってファーストキスだもん! 初めてのは大好きなひととキスしたかったの」 「唇を合わせるのと、キスは違うぜ、栗女!」 アリオスはいらだたしそうに、面倒臭そうに吐き捨てる。 なんて酷い。 アンジェリークは口を尖らせた。 「唇を触れ合うのがキスなんです!」 「だったら俺が、マジキス、教えてやるぜ?」 不敵な笑みを浮かべながら、アリオスは偉そうに顎を突き出している。全く、ムカつくのはこの事だ。 「いらないっ! 消毒しなくちゃ…、だってアンジェ、ファーストキスは素敵なものだって想っていたんだもの…」 悔しさが込み上げて来て、涙が滲んでくる。とても切なくて辛い。 「…おい、泣くなよ。あったことはなかったことに出来ないぜ。おい、どうしたら泣き止んでくれるんだよ」 アリオスはほとほと困り果てた顔をすると、少し語気を柔らかくして言ってくれた。 「甘いものやけ食いしたい」 「解った。それで手を打とう」 アリオスに連れられてスポーツクラブからほど近い、カフェオランジュに向かった。 高級でしかも美味しいスウィーツが沢山あるので、アンジェリークは少しだけほくほく顔。だが、それでもファーストキスを奪われた悔しさは、埋まるものではない。 ほんの針先低度埋まったぐらいだ。 カフェオランジュの特別室に案内されて、アンジェリークは驚いた。特別室は一等高くて有名なのだ。 だが、そんなことでは許せないと感じるところが、心のどこかにあった。 「何でも好きなもんを食え」 「有難うございます」 少しばかり萎縮しながら、アンジェリークは小さく頷く。 アリオスの不機嫌な眼差しを見ていると、それだけでお尻がむずむずとした。何度も浮かせるぐらいに、居心地がかなり悪い。 だが、カラフルな写真が入ったメニューを見ると、愉しみにせずにはいられない。 「えっと…栗いっぱいの大盛パフェと、自分で払うので厳選丹波栗を使ったモンブラン」 「それも払ってやるよ。共食いだな、おまえは」 「共食いじゃあありません。私は人間だもん」 アンジェリークは断固とした自己主張をする。髪が栗色だけでそんな事を言われては堪らない。 「早く人間になりてえっ! てか」 「何ですか? それ?」 「ちっ、ジェネレーションギャップかよ」 アリオスは舌打ちをしながら、モノマネのまね事を引っ込めた。 「じゃあ、王子様のキスで、栗ん子は人間になったか」 ニヤリとからかうような意地悪な笑みを浮かべながら、アリオスはアンジェリークを見た。これなら解るだろうとばかりに。 「最初から人間ですっ!」 アンジェリークがぷりぷりと怒っていると、目の前に注文をした絶品デザートが運ばれてくる。途端に、アンジェリークの表情は明らかに崩れた。とろけるぐらいに甘く。 「ワーイ!」 満面に幸せを浮かべて、アンジェリークはパフェ用のフォークに手をかける。その前に、ちらりとアリオスを見た。 「どうぞ、食えよ」 「いただきます」 きちんと手を合わせた後、幸せの権化であるパフェからつつき始めた。 「なんて幸せ〜! 嬉しい!」 アンジェリークは音程のズレた鼻歌を歌いながら、ぱくぱく口に運ぶ 口に広がる素敵なハーモニィに、アンジェリークはとろけてしまいそうになる。 「良い顔をするな、栗」 「栗じゃないもん、アンジェリークだもん」 「じゃあ、アンジェリーク」 アリオスは今までとは違う、砂糖とチョコレートで出来た素敵な微笑みを、アンジェリークに浮かべてくる。 「なァ、おまえ、俺とホンモノのキスしてみてえとは思わねえか?」 「え?」 アンジェリークは、唐突過ぎる申し出に、思わず、生クリームを鼻の頭に付けていた。 |
| コメント 性懲りもなく、ロマンティックコメディをまた。 愉しんで読んで頂けると嬉しいです。 キスをテーマにしたお話し。 |