18
アリオスと送る最後のひと時。 アンジェリークは時間にしがみつくように、アリオスにしがみついていた。 肌を合わせ、しっかりとアリオスの温もりを肌に刻み付ける。これがきっと最後なのは解り過ぎるほど解っていたから。 アリオスの腕も、唇も、胸も…。総ての熱とディテールをアンジェリークは刻み付ける。 「…大好き…、大好きよ、アリオス…」 何度も譫言のようにアリオスに繰り返し伝え、アンジェリークは自分の想いを精一杯に表現する。 手をしっかりと握り締めあって、魂を近く寄せ合い、お互いの極限な愛を引きだし合う。 アンジェリークは改めて感じる。アリオスのことをこんなに愛していた自分にようやく気付いた。 愛しているのは、かなり前から自覚をしていたが、ここまで愛しているとは想わなかった。 頭の先から足の先まで、総てでアリオスを想っている。 この一瞬、一瞬を永遠として刻み付ける。 「アンジェ」と呼んでくれる声も、温かさがほとばしる唇や指先も…。 同棲をした短い期間の間では、とうとう「愛している」とは言って貰えなかったけれども、切ないがそれでも傍にいられるだけで幸福であった。 アリオスに最後の感謝を込めてしっかりと抱きしめると、眦から涙が零れ落ちた。熱い涙は、アンジェリークが深く、深く、アリオスを愛したことの何よりもの証だった。 アリオスと激しく愛し合った後、アンジェリークは眠れなかった。横で寝息を立てて眠るアリオスをじっと見つめていると、涙が零れ落ちてくる。 切羽詰まったアリオスへの想いが、アンジェリークの心を切なく苦しくしていた。 大好きよ…、アリオス…。 けれどもあなたからは離れなければならないもの…。 あなたを束縛したくない…。 あなたを私の一方的な愛情で、縛りたくないから…。 アンジェリークは朝陽が射してくるまで、じっと待っていた。 最後の朝だ。 いつもなら、愛し合った後は、心地よい疲労で眠ることが出来るというのに、今ははっきりと目が覚めてしまっていた。 時計を確認する。 始発が走り始めた時刻を確認すると、アンジェリークはベッドからむくりと起きだし、手早く衣服を着た。 のろのろとしてはいられない。 部屋に戻り、鞄を手に取ると、予め用意がしてあった手紙とカードキー、婚約指輪、そして手付かずだった婚約者としての報酬の入ったキャッシュカードを机の上に置き、アンジェリークはそれを見つめる。 アリオスを愛してしまった以上、婚約者としての報酬は受け取る訳にはいかなかった。 様々な記憶が去来してきて、苦しさの余り、アンジェリークは泣きそうになっていた。いや、本当は泣いていたかもしれない。 アンジェリークは思い出が詰まった部屋に一瞥を投げ掛けると、部屋を静かに出て行った。 朝まだ早い朝陽は、アンジェリークには眩し過ぎる。だが、新たな旅立ちではあるはずだった。 それなのに心が酷く沈んでいる。アリオスが側にいないから、これからは雨ばかりのような気がする。 けれども、想い出を胸に、これからも生きていかなければならないのだ。 涙が出た。 だが、朝陽が目にしみるから涙が出るのだと、アンジェリークは必死に思い込もうとしていた。 電車に乗り込み、アパートに向かう。そこでも考える事と言えば、アリオスのことばかりだ。 今ぐらいに目が覚めただろうか。手紙を見て、少しは哀しんでくれているだろうか。それとも寂しく想ってくれているだろうか。ひょっとしたら、せいせいしていると想われているかもしれない…。 後者だと辛くてしょうがない。 様々な感情に、アンジェリークは未だに心が乱されていた。 アリオスだけが総てだったと、改めて感じた。 アパートに戻り、余りにも様子が寒々としていてアンジェリークは先ずは驚いた。 自分的には清潔にしても、狭く汚い部屋だったが、安堵できる安らぎの空間だったのだ。 それが今はどうだろうか。 以前と比べて、暗くて冷たい空間に思える。 理由なんかは解っている。アリオスがいないからだ。 ただ息を吸っているだけでもいいから、やはり側にいてもらいたかった。 アンジェリークはようやく激しく泣いた。 ここには自分以外に誰もいないから、アンジェリークは想う存分泣いた。 躰の中から総ての水分が出尽くすかと想うほど泣いたせいか、後は疲れて眠ってしまった。 目が覚めたのは昼過ぎだった。 目覚めればアリオスが側にいてくれるような気がして、目が覚めたのだ。 だが、現実はそんなに上手くいくはずはない。 やはり目覚めればいつもの冷たいアパートの部屋で、アリオスなどは存在しなかった。 やはりと想いながらも、大いなる期待をした自分にアンジェリークは苦笑する。 良く読んでいる、ハッピーエンドがお約束のロマンス小説ならば、ここで必ずヒーローがやってきて、「愛している」と告白してくれる。 だが、現実にはそんなロマンチックなことなんて、起こるはずも無かった。 アンジェリークはつくづく自分は、”夢見るユメコ”の性質が抜けないと想う。 だけれど、ひょっとしてアリオスが迎えに来てくれるかもしれないと、アンジェリークは期待せずにはいられなかった。 現実に戻らなければならないと想う。 だが流石に鏡の前にいる自分の酷い顔を見ると、今すぐは現実には戻れないような気がした。 結局、今日は一日、部屋の中でぼんやりとしてしまった。 部屋の前を通る革靴の足音に、アンジェリークは何度も期待を持ったが、それが通り過ぎる度に、絶望だけが掌に残った。 アリオスであったらいいのに…。 全くの受け身の自分に辟易しながらも、受け身にしかなり得ない自分自身に苦笑していた。 結局。 夢見心地なアンジェリークの想いは叶う事なく、アリオスは迎えになんて来てはくれなかった。 翌朝、アンジェリークはしっかりと現実というものを噛み締めていた。 いつかアリオスが迎えに来てくれると言ったような、幻想にしがみついていてはいけない。 現実に行動を起こさなければならない。 アンジェリークは、先ず、以前、掃除婦として雇ってくれていた清掃会社に赴き、再び契約を交わした。 今度は一般の家庭を掃除するのではなく、企業のオフィスの清掃だ。 こちらのほうが気にしなくても良い。アンジェリークは楽天的な気分になりつつあった。 再び契約をすることが出来て良かった…。 これで頑張って、また通信制の高校に行くことが出来るだろう。 少しだけは明るい見通しがたった。 安堵は確かにあるが、やはり喜びなどは全くない。アンジェリークは自分から少しだけ早く招いた結果なのは解っているが、それが今は重くのしかかっていた。 遅かれ早かれこうなってしまっただろう。だから、深く傷を付く前に上手くそれを回避したのだと、そう思い込むようになっていた。 波風の立たない日々が始まった。 喜びもないが哀しみもない日々。 毎日が淡々と過ぎていく。 心の痛みや喪失の空しさが時間が経てばなくなると思っていたのに、日々深くなるばかりだ。 アリオスに逢いたいという感情を何とか押さえ込んで、アンジェリークは日々を生きていた。 アリオスは、もちろん迎えには来てはくれない。 時間が経つにつれて、ロマンス小説の中で起こるのは、本当に夢物語であることを知った。 リアルな厳しさを、アンジェリークはようやく肌で感じることが出来る。 アリオスとの生活は、総て夢だと思えるようになってきた。 今日も何時もの掃除が始まる。 頭に三角巾を巻いて、エプロンに白いゴム長靴を穿いて、掃除を始めた。 一生懸命汗をかいて掃除をすれば、総てを忘れることが出来るような気がした。 長い廊下の掃除をしていると、足音が聞こえる。アンジェリークは端に酔って、邪魔にならないように掃除をした。 足音が近づいて来たので、きちんと頭を下げながら掃除をする。 不意に足音が自分の前で止まった。 脚だけが見え、暫く経っても動かないので、アンジェリークは今度は声を出して謝った。 「済みません、通行の邪魔をして…」 そこまで言って顔を上げると、アンジェリークは驚きの余りに硬直する。 「久し振りだな、アンジェリーク」 そこにいるのはアリオスだった。 アンジェリークは心臓が止まるのではないかと想うほど驚き、反射的に逃げようとする。 だが、アリオスに腕を掴まれて、逃げることは出来ない。 「…離して下さい…。お願いです…」 アンジェリークは胸が締め付けられる余りに、爆発してしまうのではないかとすら思った。 「…もう、私はあなたの婚約者じゃありません…」 「離さねえ…」 アリオスは静かに言ったが、その声は低くて、アンジェリークには充分に恐ろしく感じる。 「迎えにきたんだ」 アンジェリークはただ泣いて頭をぷるぷると横に振るだけ。 「俺はおまえを離さないから、おまえに嫌われても、とりあえずは連れていく!」 「…いやっ…! もう偽物の婚約生活なんてしたくないっ!」 アンジェリークはあくまでもアリオスに抵抗し、逃げようと必死になる。だがアリオスも、それぐらいで怯む男ではないことは、解っている。だが逃げずにはいられない。 「偽物は嫌なの…。絶対…!」 「それを本物にしようと来たんだ!!」 アンジェリークは一瞬、動きを止めた。 アリオスが今何て言ったのか。ドキドキしながら心の中で反芻する。 「…今、何て…」 「おまえは偽者の婚約者なんかじゃねえ…。これを見てみろ」 「あ…」 アリオスがポケットから取り出したのは、アンジェリークと同じロザリオだった。 アンジェリークは一瞬、自分の胸にかかっているか確認する。 だがアンジェリークの物は確かにある。 「同じものだが、これは俺が生まれた時に、祖父が記念にプレゼントしてくれたものだ。後ろには、”アリオスへ”と書いてある」 アリオスの掌の中にあるロザリオを見つめると、確かにそう書かれている。 「おまえの物は”アリアーヌへ”と書かれているはずだ。そいつは俺の祖母の名前だ。結婚式の時に渡したそうだ…」 アリオスの視線が、しっかりと真摯にアンジェリークを捕らえた。 もう動けなくなる。 「俺の祖父は、俺の結婚相手に相応しいと想う相手に、このロザリオを託した。つまり、おまえだ」 アンジェリークは全身が震えるのを感じる。まだ信じられなくて、アンジェリークはアリオスを見上げた。 「嘘…」 「俺達家族は、祖父からおまえの特長を聞いていた。栗色の髪、大きな青緑の瞳、そして”アンジェリーク”と言う名前。だからレイチェルはおまえがぴったりだと言ったんだ」 アリオスは確かに誠意を持って話してくれる。 信じる? 信じられない? そんな想いがまだアンジェリークを支配していた。 「…でも、アリオス…。婚約を本物にはしたくないでしょう? だって、婚約や結婚なんて面倒なことはしたくないんでしょ」 アンジェリークは盗み聞きした話を思い出し、涙を潤ませる。アリオスはそっと頬を撫でてくれた。 「確かに今まではそう思っていた…。だが、おまえと出会って、おまえならって思えるようになっていった。勿論、時間はかかったがな。おまえは主語を飛ばして、立ち聞きしていたんだよ」 やはりアリオスにはばれていたのだ。 「あの時、おいかけてきたのはあなた?」 「そうだ」 アリオスはきっぱりと言い切った。 「…これでも戻る気はねえか?」 アンジェリークはそれでも頭を縦に振る。戻る気はないと明確な意思表示だった。 「なぜ?」 「…どうして私をあなたの元に戻したいのか、明確な理由がないわ…。それによっては戻るかもしれないし、戻らないかもしれないわ」 アンジェリークが心の中で出した条件はたったひとつ。 アリオスに愛されるのが条件だ。 「んなことは決まってるじゃねえか! 一度しか言わねえ。おまえに惚れちまったからじゃねえだろうか!」 アリオスは半ば喧嘩腰だった。だが、アンジェリークの心にはファンファーレが鳴り響く。 「どうだ? 掃除婦を辞めて俺の婚約者にならねえか? 本物のな?」 答えはたったひとつだけ。アンジェリークはそれを答える為にアリオスにしっかりと抱き着く。 「なる!」 「よし…!」 涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、アリオスの胸に顔を埋める。幸福を噛み締めたかった。 「アリオス!?」 余韻に浸りたいのに、アリオスはひょいっとアンジェリークを肩に抱える。 「帰るぞ!」 「何処に?」 「俺達の家だ」 「掃除が!」 「ちゃんと後釜を頼んである」 アリオスはクールに言ってのけると、アンジェリークと一緒にエレベーターに乗り込んだ。 扉が閉まると、アリオスは床にとんと降ろしてくれる。 「言うのを忘れてたからな」 「何を?」 アリオスはアンジェリークの左手を手に取ると、婚約指輪を再び填める。 「おまえとずっと一緒にいたい。一緒になってくれるか?」 アンジェリークはこれが本当に現実で起こっているのか信じられなくて、一瞬頬を抓ってみた。 「痛いっ!」 「ちゃんと現実だから、心配するな」 アリオスは苦笑すると、少し赤くなったアンジェリークの頬を指先で優しく撫でてくれる。 それだけでも胸が甘酸っぱくてきゅんとなる。 「おい、返事は?」 「へ、返事って…」 「俺と一緒になるか否かだ。今から10数えるまでに言えよ? 1.2.3…」 「好きです!! 一緒にいます!!!」 アンジェリークは焦ってしまい、慌てて早口で言う。 その途端に、アリオスの表情が軟らかくなった。 アリオスはぎゅっとアンジェリークを抱きしめると、唇を近付けていく。 「------愛してる…」 アンジェリークが感激の余りに瞳に涙が光ったが、アリオスが唇で受け止めてくれるので流れることはない。 これまでにない幸せを噛みしめながら、アンジェリークは思い出に残るキスを噛みしめていた------ 本当の意味でシンデレラになったアンジェリークの幸せは未来永劫色褪せることはない。 そんな甘い予感を感じながら、ふたりは幸せの一歩を踏み出した。 誰もいなくなった廊下に、青年が楽しそうに溜息を吐きながらいた。 「まったく、世話の焼ける人たちです。この私が掃除を引き受けるなんて思いませんでしたけどね。 マイレディエンジュ、掃除を始めましょうか?」 「はい!」 フランシスは彼の大切なレディと共に、アリオスとアンジェリークをくっつけたのを満足に思いながら、掃除を始めた。 |
| コメント シンデレラ物語の最終回です。 大団円になりました〜。 |