Thank You Mr.Right

6


 アリオスの傍で働くのも残り僅か。アンジェリークは休みの残りを思うと、切なくてしょうがなかった。
 だからこそひとつずつ言われた仕事を丁寧にこなそうと思う。
 それがアリオスへの唯一の恩返しのような気がしてならなかった。
 相変わらずアリオスは忙しい。大きな事件こそ最近は起こってはいないが、クオリティの高いニュースを送り出すために、アリオスは奮闘している。
 そんなアリオスの傍にいるのは、アンジェリークはとても勉強になった。この休みの間に、将来すべきことは決まっている。
「少し休憩を取ってくれていいぞ」
「有り難うございます」
 朝からニュースセンターとアリオスのデスクを行ったり来たりしていたので、この休憩はひどく嬉しかった。
 給茶機で紅茶を取りに行くと、久し振りに芸能デスクであるオスカーと出くわす。
「お嬢ちゃんじゃないか!」
「オスカーさん!」
 本当ならこの男性に付いて取材を敢行していたかもしれないのだ。
 それがアリオスに代わり、彼の下で働かせてもらうことになったのだから。
「もうすぐ休みも終わりだなあ。お嬢ちゃんの元気で走る姿が見られないかと思うと寂しくなるぜ」
 オスカーの言葉を聞くと、アンジェリークも先のことを考えて寂しくなる。
 もうすぐアリオスの傍を離れなければならない。それはかなりな心の拷問のような気がしてならなかった。
「勉強になったか?」
「はい、とっても」
 オスカーはそれは良いことだと何度か頷いてくれる。アンジェリークも思わず微笑んだ。
「アリオスは報道局のホープだからな。あいつはすげえジャーナリストになると思うぜ。俺は好きで芸能畑を歩いているから、同期として、負けないようにと思っている」
 甘い笑顔だったオスカーのそれが、引き締まったものに変わる。お互いに切磋琢磨できるふたりの関係が、アンジェリークは少し羨ましく感じた。
「アリオスの傍にいたら、いやがおうでも報道関係、しかも硬派なニュース関係に付きたくなるだろ?」
 苦笑いしながら頷くと、良いことだとばかりに、オスカーが微笑んでくれる。
「…大学でもジャーナリズムを専行したいと思っています」
「だな。お嬢ちゃんなら、キャスターが向いていると思うぜ。キャスターはあれでもすげえ大変だし、アリオスとずっと信頼関係を築きながら仕事が出来る…」
 オスカーに意味深な視線を投げ掛けられて、アンジェリークは真っ赤になって俯いた。
「キャスターとプロデューサーやディレクターは、かなり蜜な信頼関係を築かないといけねえからな」
「キャスターはとても華やかだと思っていましたが、ここでアルバイトをさせていただくことで、考え方は変わりました。キャスターはニュースを現場で作っていく人達と強い信頼がなければ出来ないって…」
「良いキャスターになるには、良い記者で、良いジャーナリストであること! だから奥深いんだぜ」
 アンジェリークは真摯な表情で頷くと、オスカーを見る。
「お嬢ちゃんがうちのテレビ局に入社する頃には、アリオスは円熟した報道マンになっているさ。もっと沢山のことをお嬢ちゃんなら学べるさ。大学に入ったら、ここにバイトに来るといい。勉強がてら、アリオスに会えるだろう?」
 なにもかもおみ通しとばかりにオスカーがウィンクをしたので、恥ずかしさのあまりに真っ赤になる。
「最も…、お嬢ちゃんが一番似合っているのは、誰かさんの幼妻なのかもしれねえけれどな」
 オスカーにくつくつと笑われて、アンジェリークはあまりにも恥ずかしくて返す言葉もなかった。
「じゃあな、お嬢ちゃん」
「はい、また」
 オスカーの後ろ姿を見送りながら、手の中の冷めた紅茶がどこか心地良く感じた。

 アリオスのもとに戻り、再び仕事が始まる。雑用ばかりかもしれないが、ひどく勉強になる仕事だ。
 アリオスの傍にいられる貴重な時間に、沢山の報道のノウハウを吸い込んでいく。
 この貴重な様々な事項が、アンジェリークを成長させていった。
 そして…。
 アンジェリークはとうとう最終日を迎えた。
 この短すぎる間に、人生自体がすっかりひっくりかえってしまったような気がする。
 漠然と考えていたジャーナリストへの道が、大きな形になって明確に捕らえることが出来るようになったのだ。
「今日は俺もはや上がりだからな。おまえのささやかな旅立ちのセレモニーぐらいはしてやれるぜ」
「はい。有り難うございます」
 最終日。そう考えるだけで、ひどくセンチメンタルな気分になる。時計を戻すことが出来るのであれば、いくらでもそうするのにと、アンジェリークは思わずにはいられない。
 だが時は無情だ。
 アンジェリークは時間よ止まれと願いながら、最後の日を過ごす。
 そして…。願えば願うほど、時間というのは加速して感じ、とうとう、アンジェリークが去らなければならない時がやってきた。
「…時間か…」
 アリオスが時計を見上げると、アンジェリークの動きはピタリと止まる。
「おい、会議室に来い。俺達が最初に出会った場所に」
「はい」
 アンジェリークはアリオスに連れられるまま、会議室に向かう。アリオスの背中を見ながら、ここを通ったのは、ついこの間のような気がする。
 だが、確実に時間は過ぎたのだ。
 部屋に入り、アンジェリークは不思議な気概感を覚えた。
 またあの日々が再び巡ってくるようなそんな気がする。
「アンジェリーク、短い間だったがご苦労さん。有り難うな。色々と俺の世話をしてくれてな」
 いつも仕事場では厳しいアリオスの表情が、甘く優しいものになる。瞳から溢れる優しさにアンジェリークは泣きたくなる。
「有り難うな、アンジェリーク」
 アリオスはそれだけを言うと、美しい白い薔薇の花束をおもむろに差し出した。
「有り難うございます…」
 アンジェリークはそれを受け取ると、花の香りに埋もれて咽び泣いた。
 この短い間の思い出が、ジェットコースターのように怒涛に蘇る。
 アリオスが拍手をしてくれる。たったひとりの拍手だが、アンジェリークにとってはなによりもの惜別のプレゼントになった。
「また、帰って来いよ。大学生になったらアルバイトで雇ってやるから。大学出たらうちに来いよ? 雇ってやるからさ、必ずな」
 アンジェリークは鼻を啜りながら何度も頷く。花束からは中々顔を出すことが出来ずにいた。
「また顔を見せに来てくれていいぜ。ただし、明後日から一月ほど俺もこっちにはいねえから。急遽出張が入っちまったからな」
「どちらに?」
「サルバドル」
 アンジェリークは驚きの余りに顔を上げる。泣いた顔を見られたくないだとか、そんなことは言っていられなかった。サルバドルと言えば、未だ世界のニュースの感心事になっている、激しい内戦の地であった。
「特派員がケガをしちまって、代わりが決まるまで、俺が行くことになった」
 アンジェリークは言葉も出ない。あんな危険な場所に行けば、何があってもおかしくはないと言うのに。
「…危険なんでしょ…」
「俺はジャーナリストだ。何も最前線に行くわけじゃない。内戦が生む悲惨な状況を多くの人間に正確に伝えたいだけだ。だから、人間を伝えたい。正確な事実だけを、歪められない事実だけを伝えたい。おまえなら解るよな?」
 アンジェリークは解らないと首を振ることも出来た。そんなことでなによりも大切な命を失うことはないと。以前のアンジェリークなら泣いてそう言ったかもしれない。だが、アリオスと共に働いたせいか、その気持ちもまた、痛いほどよく解る。アンジェリークは静かに思うままに頷いた。
「サンキュ」
 アリオスは嬉しそうに穏やかな笑顔を向けてくれる。そのどこか少年のような眼差しがアンジェリークは大好きだった。
「俺は真実は歪められずに伝えるべきだと思っている。発言や記事にするなら、きちんと相手に取材しなければならない。自分が感じた想いだけで、憶測で発言をしたり、記事にしたりというのが一番始末が終えねえ。おまえはその現場を見たのかよ、相手に直接聞いたのかよ。そういうやつが最近は報道界にも氾濫している。だからこそ、俺だけでも、取材をして、自分の見解なんかはどうでもいいから、ただありのままの取材をしたい。憶測で人の気持ちを言うような、そんなジャーナリストだけにはなりたくない」
 アリオスはアンジェリークをしっかりと見つめる。いつもの彼に比べると、随分真摯な光が宿っていた。
「俺はサルバドルのきちんとした状態を伝えたい。真実のみを伝えたいから、俺はちゃんと現地に乗り込む」
 アリオスの決意は岩のように硬く、きっとアンジェリークには砕くことは難しい。
「……無事に帰ってきて下さい…」
「アンジェリーク…」
 アリオスがゆっくりと近付いてくる。顔を上げると、いきなり抱きすくめられた。
「アンジェリーク…。待っていてくれないか…?」
「…アリオスさん…」
「俺が帰って来たら、正式に付き合ってくれねえか?」
 アンジェリークは嬉し涙をぽろぽろと零しながら、素直に頷く。
 ずっと言われたかった言葉。
 それが現実に降りてきて、アンジェリークは歓喜の中にいた。今なら素直に自分の気持ちが言えるような気がする。
「…ずっと、ずっと好きだったの…」
「愛してる」
 抱きしめられたままで、アリオスは唇を近づけてきた。甘い旋律を感じるキスに溺れながら、アンジェリークは至福を感じる。今までで一番心が近い感じがする。
「待ってますから…」
「ああ…」
 ふたりは時間が許される限り、ずっと抱き合っていた。


 翌日、アリオスはサルバドルに旅立っていった。アンジェリークは彼の無事を祈りながら待つ身になる。
 お互いのメールアドレスと携帯電話番号を交換した。これで可能な限り、連絡を取り合おうと誓ったのだ。
 アリオスの局のニュース番組は必ず見て、サルバドルが出る際は、元気なアリオスをチェックする。その精悍さに惚れ直したりもした。

…そして。
 人生で一番長かった一月が過ぎ、アンジェリークは空港にいた。アリオスが帰ってくるのだ。
 そわそわとして見つめるアンジェリークの視界に、あの姿が映った。
 再会したときには、こんな言葉を言おうと、色々考えていたが、今は思い付かない。今、出来ることと言えば、抱き着くことだけ。
「…ただいま。アンジェリーク…」
アリオスの深い眼差しに感極まり、アンジェリークは抱き着いた。
「おかえりなさい…」
コメント

新しい、アリコレのカップルものを立ち上げたくて書きました。
ジャーナリストと女子高生。
今回は出逢い〜恋に落ちて編です。
完結です。




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