前編
一月後に、レイチェルが結婚する。親友の結婚に、感慨深いものを感じながら、ブライズメイドとしてアンジェリークは機敏な動きを見せている。 「えっと…、遠方の友人達や親戚には、往復交通チケットと…、ホテルの宿泊クーポンを本日発送完了、後はこの後、メイクっヘアスタイルの打ち合わせ…」 レイチェルは、予め自分が手帳に記した順番がぬかりないかと、何度もチェックをしている。 「エルはきちんとしているんだけれど、こういった手配はワタシになっちゃうのよねー。研究に没頭しちゃうと、周りが見えなくなってしまうからさ」 レイチェルの言葉に、アンジェリークは相槌を打ちながら、視線は招待客の席順表に釘づけだった。たった一点と言ってもいい。 アリオス。 アンジェリークがかつて恋をした相手。もう二年は逢っていないだろうか。 アリオスはアンジェリークの初めての恋の相手であり、女にしてくれた初めての男でもあった。 あの頃のアンジェリークは余りにも幼く、そして無邪気だった。それ故に恋をして、そして破れた。 アリオスの残酷な一言で、恋は終わりを告げ、彼は遠く離れたビジネスの中心街に行ってしまったのだ。 アンジェリークはその名前を見るだけで、二年経った今でも、目頭が熱くなる。胸の傷が目に見えるのであれば、アリオスと言う名の深い十字に刻まれた傷がそこにはあるのだろう。 窓の外にはそぼ降る雨。あの日と同じ春の涙が、アンジェリークの記憶を呼び起こし始めた。 あの日、アリオスとピクニックに出掛けた帰り、ふたりで雨に濡れ、小さな小屋で雨宿りをしていた。 花冷えで背筋に寒さが走る日中、互いに躰を温めあううちに、いつしかふたりして重なり合うように床に沈んだ。 背中が痛いだとか、そんなことは一切感じない。雨に濡れた髪の雫と、温かいお互いの肌と唇。 アリオスの背中に腕を回せば、逞しさの余りに総てを託して、しがみついた。筋肉がしなやかについた肩のラインの精悍さも、うっとりするぐらいに滑らかだった背中も、総てがこの掌に刻みつけられた。 吐息ですらも、誰にも渡したくはなくて、アンジェリークはアリオスを抱きしめて離さないようにするすかなかった。 残像が二年経った今でも瞼に焼き付いて、離れることはない。 この身を裂かれるような情熱的な痛みも、今でも鮮烈に思い出すことが出来る。 だが、むつみ合いが終わった後、アンジェリークには信じがたい結末が待ち構えていた。 「…犯罪みてえな気分になるな…。おまえとやったら」 アリオスが後悔するような一言をふと漏らし、アンジェリークは甘い感情に冷水を浴びせかけられた気分になった。 「…服を着ろ」 アリオスに咎めるように言われ、もう胸がずたずたになった気分だった。こちらは後悔の感情はかけらもないどころか、とても幸せな気分だったと言うのに。 アンジェリークは顔色を蒼白にさせながら、下着姿のままて、じっとうずくまっていた。下着すらどうやって着たのか覚えてはいないほどの酷い状態だった。 既に服を身につけたアリオスはアンジェリークに手を差し延べたが、そこにはいつもの優しさのかけらすら感じられなかった。 「…今日のことは忘れろ。俺も誓って忘れる」 なんてことを言うのだろうか。 こんなロマンティックな体験を、女が忘れられるはずはないのに。女は初めての男を忘れられるはずはないというのに。 アンジェリークはアリオスの手を取ることなどなく、ただ機械的に服を着た。 最高に祝福された春の雨になるはずだったのにーただの涙雨になってしまった。 アンジェリークはアリオスの後ろを歩き、惨めな気分になりながら帰路につく。 アリオスの言葉の意味が残酷に響き渡り、アンジェリークは完全なショック状態に陥った。 あれからアンジェリークが鬱のような状態でずっと泣き暮らしている間、アリオスは一度として連絡をくれなかった。アンジェリークが ようやく起き上がることが出来た時には、既にアリオスはアンジェリークのカテゴリーには住んでいなかった。 新進のIT企業家として名を馳せ、モデルや女優と浮名を流し始めていた。 もう、戻らない青春の恋。 憎みたくても憎めずに、アンジェリークにとっては、もう永遠に手に入らない、遠い存在の忘れられないひとになった。 アンジェリークが記憶をゆるやかに戻していくと、また胸が苦しくなった。 ウェディングバンケットの席はかなり近く、新郎側にいるアリオスと顔を合わさなければならないのは辛い。 だがもう二年前の子供ではない。ちゃんと成長しているつもりだ。ひとりの大人の女として、きちんとアリオスに逢うことが出来ない訳がない。 「アンジェ、アンジェ?」 心配そうにレイチェルが名前を呼ぶものだから、アンジェリークはニッコリと笑顔で応えた。 「なあに?」 何気もないように装うと、レイチェルは眉根を寄せ、気遣うようにこちらを見ている。 「アンジェ…、アリオスのこと黙っていてごめん」 レイチェルは本当に済まないと言った雰囲気で、アンジェリークを見ている。 だか怒る気など、全く起きない。エルンストとアリオスが友人関係にあることは、事実なのだから。 「大丈夫よ。あれから二年も経っているし、私はもう大丈夫。だってあんなにもう子供じゃないわ。子供じみた真似もする年齢じゃないもの。アリオスには昔の知り合いとして、笑って会えるはずだから…」 「だったらいいんだけれどね…。ワタシの式が終わったらアナタはお見合いをするから、アリオスのことを引きずっていなければいいんだ」 「大丈夫…」 大丈夫。 まるで言葉自体が、アンジェリークの周りでぐるぐると回っているような気がする。それはある意味、自分に言い聞かせている言葉だった。 「レイチェル、いよいよ髪とメイクの打ち合わせじゃない? あなたのブロンズでマットな肌と金髪がどれぐらい綺麗に仕上がるか、とっても楽しみだわ!」 「そう!? ワタシの美しさで更にエルを悩殺してあげるんだから!」 「そうよ!」 レイチェルは先ほどまで曇らせていた顔を華やいだものに変え、期待に満ちた瞳を輝かせている。 アンジェリークはその瞳ごと包み込むような眼差しを親友に向けた。幾分かの羨望を交えて。 レイチェルが美しく変わっていく姿を見るのはとても楽しい。 花嫁になる女性というのは、なんて美しいのだと想う。愛するひとと永遠を誓う行為は、崇高でかつ美しい。 アンジェリークはレイチェルの輝きが眩し過ぎて、くらくらするほどだ。 永遠に自分には訪れることのない瞬間だと、アンジェリークはつくづく思わずにはいられない。 もし、お見合いが上手くいき、結婚することになったとしても、こんなには輝けない。 かけらはもうアリオスに置いて来てしまったのだから。 「アンジェ! 当日のカクテルドレスは髪を上げて、サイドをこうやって少し垂らすのはどう?」 「うん! レイチェルはブロンドだからそのヘアーメイクはよく似合うよ?」 「ありがと、アンジェ。本番もこんな感じよね」 「それいいよ、ホントに。レイチェルはプレーンなウェディングドレスが凄く似合っているから、このヘアスタイルにしたら、本当に綺麗だもん」 「ありがと。アンジェと一緒にいると自信を持っちゃうよ」 「どんどん自信持っていいよー! レイチェル綺麗だもんそれぐらい持って当然っ!」 アンジェリークは、輝くレイチェルが更に幸せなオーラを持って微笑むのが、凄く嬉しい。ダイヤモンドのような美しさに、目が眩んだ。 きっと素敵にブライズメイドを務められるだろう。こんなに幸せに輝いた美しい花嫁であれば。 「アンジェ」 「なあに?」 「ワタシのブーケはアンジェに上げるからね! ちゃんと受け取ってよ!」 「うん、有り難う…」 素直に飛び上がって喜ぶことが、今のアンジェリークには出来なかった。ただ、口角を上げた静かな微笑みしか、奏でることが出来ないでいた。 レイチェルの式の当日は、その性格を表すかのような、すっきりと晴れた美しい日となった。 アンジェリークはとっておきのお洒落をして、ブライズメイドを勤める。ブラックのプレーンなワンピースに、ウエスト部分は白いコサージュが付いたサテンのブラックベルトをしている。首には四連の真珠のチョーカーがしっかりと巻かれている。 忙しくアンジェリークは準備にあけて、レイチェルの世話をしっかりする。 「何だかエキサイトし過ぎて、暑いよ」 パタパタと手で顔を扇ぐ仕種をレイチェルがするので、アンジェリークはしっかりと扇子で扇いでやる。 「レイチェル、ホントに綺麗。リハーサルよりもずっとずっとね!」 「だってワタシは本番に強いからね!」 レイチェルの茶目っ気のあるウィンクに、アンジェリークは微笑まずにはいられなかった。 「喉渇いた!だって暑いんだもん!」 「じゃあ、私が取ってくるわ」 レイチェルが喉の渇きを訴えたので、アンジェリークはミネラルウォーターを貰いに行った。 ペットボトルで貰って来た水を大切そうに運んでいた時、思いがけない相手と遭遇した。 「----久しぶりだな、アンジェリーク」 突然現れた衝撃に、アンジェリークは思わずペットボトルを手から滑り落とす。 姿を見せたのは、アリオスだった。 |
| コメント 結婚式のシーズンに、書きたかったものです。 |