前編
大好きなひとはもう他の人のものだ。 だからこれ以上は好きになってはいけない。 大好きなひとをこれ以上は困らすことは出来ないから。 出来ることと言えば、幸せであることを祈ること。 そして、いち早く、離れてあげること。 しつこくそばにいても迷惑をかけるだけなのだから。 大好きなひとにはこれ以上、迷惑をかけることは出来なかった。 だからせめて、為すべきことが終わったら、静かに帰ろうと思う。 黙って帰るのは余りに恩知らずだと思うから、ただお礼だけを言って帰ろうと思う。 大好きなひとが幸せでありますように。 大好きなひとが好ましい相手と結ばれて幸せである。 それだけでとても幸せなことであるはずなのに、それを祝福することが出来ない。 祝福出来ないなんて、なんて度量が狭いのだろうか。 だからこそ大好きなひとと釣り合わないと、神様が言ったのかもしれない。 最初から釣り合わない相手に恋をしたのだ。 しかもこの世界の人間ではないのだから、自分はかなり質が悪いと花は思った。 少しずつ準備をしよう。 帰る準備を。 ここにいたという気配すらも消してしまえば、それで良いと花は思った。 帰る準備をこっそりと始めている。 間も無くここにいる理由がなくなるのだから。 大好きなひとから、最近は拒絶するような態度を取られてしまった。 ここにいても目障りなのだろう。 解っている。 だからこそ、早く帰らなければならないと思っていた。 帰る準備を少しずつする度に、花の胸はズタズタに引き裂かれてしまうような痛みを感じた。 大丈夫。 元の世界に戻ったら、忘れられるから。 大人の女性になったら、素晴らしい恋をしたと、思えるようになるかもしれない。 花はそう思うようにした。 だが、そこを割り切るけとが出来ないのはやはり乙女心の未熟さだ。 もうこれ以上は苦しい想いをしたくはないから、大好きなひとには逢いにいかない。 ダメージは最小限に止どめたかった。 花は一段落ついて、中庭に散歩に出かけた。 芙蓉姫は恋人と楽しい時間を過ごしているから、花は完全にひとりだ。 今はこうしてひとりでぼんやりとしていたい。 今の自分にはそれが必要だと、花は思った。 澄んだ青空を大きく見上げる。 光化学スモッグなんて、全く関係ないから、涙が滲むぐらいに空が碧くて綺麗だ。 この空を見上げるのも、あと僅かなのだ。 もう決めたのだ。 帰ることを。 ふと、中庭の向こうで玄徳と孫夫人が仲睦まじそうに歩いているのが見えた。 玄徳ならば尚香を大切にして幸せにするだろう。 そして明るい尚香も、玄徳を幸せにすることだろう。 玄徳軍には師匠もいる。 もう、花が出来ることも、しなければならないことも何もないのだ。 帰る方法が解った以上、ここに止まることもないだろう。 そう考えると、胸が焼けるぐらいに熱くなって、切ない苦さを作り出す。 また泣きそうになる。 もう泣かないと決めたのだ。 最初から結ばれることは決してないひとを愛してしまったのだから。 花はこうなることが予想出来ことだと、自分自身に言い聞かせる。 明日にはきちんとみんなに話をしよう。 そして午後には帰るのだ。 精一杯の感謝の気持ちとお礼の気持ちを、一緒に闘った仲間たちに伝えたかった。 深呼吸をすると、花は空を見上げる。 この世界で見上げた、素晴らしく澄んで明るい青空を、決して忘れることがないように。 いつまでも覚えていられるように。 花は瞼に焼き付けておこうと思った。 有り難う、忘れないよ。 そう小さく語りかけていた。 玄徳は厳しいまなざしで、尚香の偽者を監視していた。 いつまでもこの茶番を続ける訳にはいかない。 どこかで突破口はないかと探す日々だ。 いつもならばこんなにグズグズすることはないのに、今回に限っては、時期を見極めるのに慎重になっている。 見極めるタイミングが悪いと、戦になるのは解っている。 それは花が最も望まないことだ。 花が望むような世界が実現出来たら、これ以上のことはないのではないかと、玄徳は思う。 民も幸せだ。 ふと、遠くに花の姿が見えた。 のんびりと散歩でもしているのだろう。 最近、花は全く顔を出さなくなってしまった。 逢いたいのに逢えない。 玄徳の胸は剣で切り裂かれるよりも痛んでいた。 毎日、逢いたい。 毎日、そばにいたい。 ずっとそばにいてくれたら、世界一幸せな男になれるのに。 妻にすれば残ってくれるのだろうか。 そばにいて欲しい。 玄徳は、あまりにもの苦しみに息が出来なくなっていた。 離れていれば、諦めがつくと思っていた。 だから冷たくしたり、逢わないようにしてきた。 だが、そうすればするほど、花への想いは募り、もうどうしようも出来ないところまで来ていた。 愛し過ぎている。 花が帰る時には、引き止めることなく見送ることが出来ると思っていたのに。 それはもう出来そうになかった。 全く勝手だ。 花とは違う女と結婚したふりをしているのは、自分だというのに。 花をもっと近くで見つめたい。 最近の花は本当に美しくて透明感がある。 出会った時は、まだまだ子供の“女の子”だったのに、今は立派な女性だ。 ひとりの異性として、堂々と玄徳を引きつけている。 あまりに綺麗だから、玄徳はこのまま花が消えてしまうのではないかと思った。 自分には何も言わずに、本を使って帰ってしまったら。 それこそ切ない痛みに切り裂かれて、もう恋することなんて出来なくなるのかもしれない。 玄徳はゆっくりと花に近付いてゆく。 「劉玄徳の弱点は、やはり軍師か…」 尚香の偽者は意味深で冷たい笑みを浮かべる。 「花は関係ない」 「どうだか…。お前のことだ、第二、第三の夫人を持っても許されるだろう」 偽者は冷笑を浮かべながら言い放つ。 花は駄目だ。 そんなことをすれば酷く傷つくだろう。 花がいれば他の女なんか必要ない。 だから花を妻に出来るのならば、他の妻は必要としないのに。 「…軍師を抱いたことはないようだな…」 喉をクツクツと鳴しながら、尚香の偽者は玄徳に意地の悪い問いをする。 「…大切過ぎて手を出せない…。そういうことか…」 偽者は、冷徹に言いながら、玄徳を嘲笑する。 玄徳は答えなかった。 答えたくもなかった。 偽者が言うことが、真実のような気がするからだ。 花が大切過ぎる。 全くその通りだ。 玄徳は否定することなんて出来ない。 花を愛しているから、心から大切に思っている。 だからこそずっと花を自分のものにすることが出来なかったのだ。 「おや、軍師殿がこちらに気付いたようだ。余り厳しい表情をされると、軍師殿はあらぬ誤解をされるのではないでしょうか」 尚香の偽者は、玄徳の頬をゆっくりと撫でる。 玄徳は一緒、花を見る。 花は目を僅かに伏せると、そのまま玄徳に背中を向けてしまった。 その背中がとても心許無くて可哀相で、思わずキツく抱き締めたくなった。 「私はこれで…。玄徳殿…また…」 底意地の悪い笑みを浮かべながら、尚香は何処かへ行ってしまった。 今なら花に近付けるだろうか。 玄徳はただ花に向かって歩いてきた。 玄徳と孫夫人をもう見てはいられない。 帰りたい。 帰ろう。 花は瞳に涙を溜めると、部屋に戻ろうとする。 気配がして振り返ると、そこには玄徳がいた。 |