中編
どうして玄徳がこんなところにいるのだろうか。 先ほどまであんなにも孫夫人と仲睦まじそうにしていたというのに、どうして声を掛けてくるのだろうか。 なんて仕打ちだと思いながら、花は泣きそうになった。 「…花、何をしていたんだ?」 よそよそしく感じるぐらいに優しい。 まるで腫れ物でも扱うかのようだ。 花はまた泣きそうになる。 息が出来ないぐらい胸が苦しくて、上手く返事をすることが出来ない。 曖昧に笑う事しか出来なかった。 「…花」 玄徳が呆れるように溜め息を吐いている。 どうしようもないと思っているのだろう。 「…空を見ていたんです…」 「空か…」 玄徳も花と同じように視線を上げる。 「…ああ。改めて見たら、空も綺麗なものだな…」 「はい。私の世界ではこんなにも綺麗な空は見られないんですよ。空の色を人間が汚してしまったんです。だから、こんなにも綺麗な空は私には珍しくて…。この青さは、いつまでも覚えていられているように…」 空の青さが、花の心を少しではあるが癒してくれている。 この空を忘れない。 だが、本当に忘れたくはないのは、劉玄徳だ。 だが、忘れなければならない。 いくら想ってももう届かないひとだ。 永遠に結ばれないひとなのだ。 「花、少し話さないか?」 玄徳は何を話すというのだろうか。 もう帰っても良いと言われるのだろうか。 花は不安でしょうがなかった。 玄徳は花と一緒に空を見上げる。 いつも見慣れているから、当たり前だと思っているから、玄徳は空をのんびりと見上げたことはなかった。 忙しかったということもあるが、空を見上げる余裕がなかったからかもしれない。 花が空の話をする。 生まれた世界の空の話を。 最初は、花が生まれた世界の話が楽しくてしょうがなかった。 なのに今は違う。 全く楽しくない。 楽しくないどころか、聞きたくないのだ。 花が元の世界を恋しがっているような気がするから。 花が元の世界に戻ってしまうような気がするから。 花を離したくはない。 花に戻って欲しくはない。 言葉にすればとても簡単なことなのに、なかなかそれが難しかった。 「…花…、この青空が気に入っているんだったら、いつまでもいると良い」 玄徳はさり気なく言うと、更に躰を反らせて青空を見上げた。 花の前なら無防備でいられる。 「…そうですね…」 花は心がこの場所にないように返事をする。 帰ってしまう。 花が行ってしまったら、もう誰も心から愛することが出来ないだろう。 「この青空を忘れません」 花は静かに言うと、玄徳に笑顔を向けた。 静かな笑顔だった。 寂しそうですらある。 そんな笑顔をさせているのは自分かもしれない。 そう思うと、玄徳は胸が苦しくなった。 「花、いつまでもいれば良い」 「有り難うございます。玄徳さんにそう言って貰えて嬉しいです」 花は笑顔で言うと、玄徳を真直ぐ見た。 「…私は為すべきことが終わったら…、その時は笑顔でここからお別れします。だから今、沢山の想い出を集めています。集め終わったら、その時が帰る時だと思っています」 花の言葉は、玄徳の喉から心臓にかけてを少しずつ傷つけている。 「集めなければ良いんだ。想い出なんて…」 玄徳は苦々しく呟くと、花を見た。 花は一瞬、驚いたように目を見開く。 大きな瞳が潤んでいる。 ショックだったようだ。 「…だったら…私…もう…やるべきことはない…」 花の声が掠れて、瞳が伏せられる。 華奢な躰が僅かに震えている。 とんでもない事を言ったと思っても、後の祭りだった。 ただ、花には帰って欲しくはなかっただけだ。 それだけなのに。 本当のことを言う事が、今は許されない。 それがこんなにも苦しい。 自分自身の立場は解っている。 戦がなくなり、漢王朝の下で誰もが笑顔で幸せに暮らす。 それを為すためには、愛する者すらも欺かなければならないことは。 自分が夢見ている未来は、花も夢見ている未来の筈だ。 玄徳はそう信じている。 だからこそ欺いている。 本当のことが言えない。 それがこんなにも苦しいなんて思ってもみなかった。 せめて、総てを打ち明けることが出来るまで、この世界にいて欲しい。 玄徳は苦しくも甘い感情が高まる余りに、花を抱き寄せた。 「…何処にも行かなくて良いんだ。お前はここにいろ…」 最後は感情の高ぶる余りに声が掠れてしまっている。 このまま抱き締めて離したくはなかった。 もっと強く抱き締めたい。 花を抱き締める以外の幸せなんて、喜びなんて他にあるだろうか。 玄徳は強く想った。 愛している。 どうしようもないぐらいに愛している。 抱き締めても、花を抱き締め足りない。 もっと強く花を抱き締めたい。 それだけだった。 まさか玄徳に抱き締められるなんて思ってもみなかった。 玄徳のただの戯れかもしれない。 なのに玄徳の抱擁からは、力強くて切ない想いだけを感じていた。 息が出来ない。 切なくて苦しい。 なのにどうしてこんなにも幸せなのだろうか。 「…何処にも行かなくて良い。ここにいたら良い。ずっと…」 玄徳の想いを受け入れたくて、花は思わずその広い背中に腕を回そうとした。 だが、玄徳には既に妻がいるのだ。 大切にしている妻が。 どうあがいても、花が決して敵うことのない相手だ。 それに。 玄徳の愛情を誰かとシェアすることも、花には難しいことだった。 この世界では当たり前のことであっても、花には当たり前ではない。 誰かと玄徳の寵愛を競い合うことなんて出来ない。 玄徳のことだから、無限の愛で、包み込んでくれるだろう。 それが解っているからこそ、切なくて痛いのかもしれない。 花は後一歩のところで、玄徳の背中に腕を回せなかった。 軍師としての役割はもう果たした。 女としての役割は永遠に来ないのだ。 だからこそ帰らなければならない。 このままズルズルとこの場所にいたら、恐らくはもっと辛いことになってしまうだろう。 だからもう何も言わない。 だからもう離れよう。 花は胸の奥に痛みが突き上げてきて、どうしようもないぐらいに息苦しくなった。 涙が瞳の奥からじわじわと滲んでくるのを何とか堪えると、花は笑顔でいられるように努めた。 花は深呼吸をする。 玄徳は、更に強く抱きすくめてくる。 息が出来ない。 まるで花を離せないとばかりに。 だが、玄徳ならば、花がいなくてももう大丈夫な筈だ。 妻と仲睦まじくやってゆける筈だ。 だからもういらないのだ。自分は。 ひとのものを欲しがることなんて、今の花には出来ない。 ましてや玄徳を不幸にするようなことは。 花は切なく思うと、浅く呼吸をした。 「…玄徳さん…。玄徳さんには尚香さんがいます…。私には、あなたのそばにいる資格はありません…。だから…」 花はなるべく冷静に告げられるよう努めた。 玄徳の躰が一瞬、固まる。 花は玄徳の瞳を見た。 とても哀しそうで、花は息が詰まる。 「…すまなかった…」 玄徳はそれだけを苦しげに言うと、花から離れていく。 その寂しげな背中を見送りながら、花は涙を零した。 「花、こんなところにいたんだ…探した…わっ、どうしたのよっ!?」 芙蓉姫の顔を見た瞬間に、花は想いが溢れて大泣きをしてしまう。 芙蓉姫に抱き着いた後の記憶は途切れてしまっていた。 |