後編
花が気を失って倒れた。 それを聞くなり、玄徳は苦しくてどうにかなってしまいそうだった。 花をここまで追い込んだのは、自分ではないだろうか。 そんなことすら思ってしまう。 玄徳は花の部屋に向かった。 「玄徳だ」 名乗ると芙蓉が扉を開けてくれたが、玄徳を冷たく見た。 いままでこんなことはなかったというのに。 「花の様子は?」 「眠っています。色々な疲れが溜まったからじゃないかと先生が」 「…そうか」 玄徳は頷くと、静かに花が眠る寝台に向かう。 目の下のクマも凄くて、痛々しかった。 だが、無邪気に目を閉じている姿は、とても可愛らしかった。 玄徳は花を見つめながら胸が痛くて堪らなくなる。花は随分と傷ついてしまったのではないだろうか。 そんなことすら考えてしまう。 花が追い詰められているのならば、元いた世界に帰してやるのが一番ではなかろうか。 なのにそうすることが出来ないのは、それほどまでに愛しているということだろう。 そう考えると、やはり苦しい。 花がいなくなるまで、帰るまでは、全力で守り、笑顔で元の世界に送り出してやろうと思っていたのに。 無理だ。 帰したくない。 玄徳は口に出せないジレンマで、かなり苛々していた。 「…花…」 玄徳は小さな花の手をギュッと握り締める。 こんなにも小さくて、心許無い手だったのかと、改めて思う。だが、温かさはとても優しかった。 「…玄徳様…」 先ほどまではあんなにも冷たいまなざしをしていた芙蓉が、何処か切なそうに見つめている。 「…玄徳様…、やっぱり…花のことを…」 芙蓉もまた苦しげに言うと、今にも泣きそうなまなざしで玄徳を見ている。 「…今の俺が花にしてやれることは…、こうして見守ることだけなのかもしれん」 「玄徳様…」 花を愛していることを、芙蓉に知られても良いと思った。 それが事実なのだからしょうがない。 「花のことは頼む。俺は仕事に向かう」 玄徳は優しい声で言うと、部屋から出た。 「待って下さい! 玄徳様!」 声を掛けられて振り返ると、芙蓉が切なくも真摯なまなざしを浮かべていた。 「玄徳様、やはり花を愛しているんですね?」 芙蓉の問いには上手く答えられない。 愛している。 だが、今は、愛していると呟くことが、憚られるのだ。 ただじっと芙蓉を見る。 芙蓉ならば、それだけで察してくれると思ったのだ。 「…芙蓉…」 「愛しているのなら…、花を大切にしているのなら…、どうして他のひとを妻としたんですか!? そのことであの子がどれぐらい傷ついたのか、解りますか!?」 芙蓉は責めるように玄徳を見つめてくる。 それが苦しい。 民のため、戦を終わらせるため、漢王朝を安定させるためには、必要なことなのだ。 花は解っていたからこそ、受け入れてくれたのだ。 「…あの子は玄徳様が考える以上に軍師として冷静です。あの子は自分が傷ついてボロボロになったとしても、あなたにとって必要なことだと分かっていたら、黙ってその選択を選んでしまうんです。…だから、あの子を裏切るようなことはしないで下さい…! お願いです!」 芙蓉が言うことは、充分に分かっている。 だが、それを覆すことは一切出来なかった。 「…芙蓉、有り難うな」 玄徳はただ静かに礼を言うと、芙蓉の肩をポンと叩いた。 「…玄徳様…」 芙蓉は今にも泣きそうなまなざしを玄徳に向けると、首を真横に振った。 「花を宜しく頼む」 玄徳は静かに微笑むと、執務室室へと向かった。 目覚めるといつもの寝台の上だった。 直前まで手が優しく温かくて、花に甘い気持ちを思い出させる。 ひょっとして玄徳がそばにいてくれたのかもしれない。 それならばこんなにも嬉しいことはないのに。 「…花…、あ、あのね、今さっきまで、玄徳様がいたんだよ…」 「玄徳さんが…」 玄徳がすぐそばで手を握ってくれていたのかもしれない。 花は自分の手をそっと頬に宛ててみる。 玄徳の優しい温もりを感じた。 「玄徳様がそばにいて、あなたのことを見てくれていたんだ…」 芙蓉姫の言葉に、花の胸は温かくなる。 ただここにいてくれていた。 それだけで花は嬉しくてしょうがなくなる。 ほんの小さなことでときめいてしまうなんて、何処まで玄徳に恋をしているのだろうか。 愛している。 だから今の状況が辛いのだ。 玄徳が他の女性のものだということが、堪らなく辛いのだ。 それがなければ、こんなにも嬉しいことはないのに。 花は瞳から涙をつい零してしまう。 「花…!」 芙蓉姫は花の涙に驚いてしまい、直ぐに駆け寄ってくれた。 「…大丈夫…!?」 「うん…大丈夫だよ…。本当に平気なんだよ…本当に…」 花は何とか話そうとはするが、なかなか上手く出来なかった。 「…もうっ! 素直になりなよ? そんなに肩肘張らないで」 芙蓉姫は涙をポロポロと零すと、花を思い切り抱き締めて来る。 芙蓉姫の熱い友情が有り難い。 この世界にきて、芙蓉姫と友達になれたことも嬉しかった。 一番の友達もこの世界で見つけられた。 本当にラッキーだったと思う。 同時に、心から愛することが出来る男性と出会えたことも奇蹟だ。 こんなにも愛せるひとはもう現れないだろう。 そんな恋が出来たのは幸せだった。 花はそれだけで充分に幸せだと思う。 これで帰ることが出来る。 もう居場所はないのだから。 「馬鹿だよっ! 花も! 玄徳様もっ!」 芙蓉姫はジレンマを抱えるように言うと、花を更に強く抱き締めてくれた。 「…もう馬鹿なんだから…」 分かっている。 馬鹿なことは。 いくら好きになったとしても報われない相手を好きになったのだから。 花が黙っていると、芙蓉姫が背中を撫でてくれた。 「意地っ張り」 「周りのことを考えているんだよ。伏龍の弟子として、外から来た者として…」 いずれは帰らなければならないから。 そこだけは言葉を飲み込む。 明日には帰るのだから。 「…芙蓉姫や、玄徳軍のみんなと出会えて、私は幸せだったよ。本当にそう思っているよ」 「花…。なんだか何処かへ行ってしまうような台詞は言わないでよ…! お願いだから…」 芙蓉姫は苦しげに顔をしかめている。 「あなたはもう立派に玄徳軍の一員よ。あなたがいなければ、私たちはここまで勝ち上がれなかった。あなたがいる場所はここだよっ! それを忘れないで」 「…有り難う」 帰る場所はここだと言われて嬉しい。 だが分かっている。 自分に残された仕事は帰ることだけだということを。 明日には帰ろう。 きちんと挨拶をして。 笑顔でこの世界から立ち去ろう。 素晴らしいひとたちと一緒に過ごせたこの時間を、永遠に忘れないから。 「芙蓉姫、色々と有り難う。疲れたから休んで良いかな?」 「うん、ゆっくりと休んで」 「有り難う」 花は笑顔で言うと、そのまま寝台に沈む。 明日、帰ることを伝えよう。 そう決めてしまえば、後は安心して眠ることが出来た。 玄徳は芙蓉を呼び出した。 花の様子を訊くためだ。 「芙蓉、花の様子はどうだった?」 「いきなりですね…。花は、恐らく…、帰ろうとしていると思います。自分のやるべきことはないと、そう思っているようです。口には出しませんが…恐らく…」 芙蓉の言葉に、玄徳は少なからずショックを受ける。 花が手の届かないところに行ってしまう。 際になってやはり受け入れられない事実だ。 帰したくはない。 花が帰らないための起死回生はないものかと、ただ考えるだけだ。 何も思い付かなかった。 運命は動き出す。 賽はもう投げられた。 |