前編
この時空に、公瑾の元に残ることにしてから、早、三か月が経過しようとしている。 孟徳軍、玄徳軍、そして仲謀軍が上手くバランスを取り、平和を維持し始めている。 花はそれがとても喜ばしく思っている。 戦がない。 それだけでも民は幸せなのだ。 だから花が幸せな気分に浸っているかといえば、そうではない。 公瑾とは、想いを確かめあったとはいえ、その先が進展しているかと言えば、そうではない。 なかなか次の一歩が進めない。 公瑾は、相変わらずクールで厳しいし、仕事に関しては花には容赦がない。 解っている。 公瑾は仕事に関してはかなり厳しい目を持っていることを。 だからこそ、花は、更に勉強をしなければならないと、連日、頑張っている。 公瑾のそばにいたい。 公瑾の役に立って、対等なパートナーとして認められたい。 ただ、それだけだ。 花は、それゆえに頑張るが、公瑾の足を引っ張ってしまうのもしばしばだ。 「…花…、あなたはどうしてこれぐらいのことが理解出来ないのですか?」 「ごめんなさい、公瑾さん。もっと勉強しますね」 花はそれだけしか笑顔で言えなかった。 苦しい。 切ない。 胸が痛い。 そんな想いがぐるぐると頭の中を巡ってしまい、花は溜め息を吐くしかなかった。 公瑾のそばでひたすら頑張る。 今の花にはそれしか出来そうになかった。 公瑾は厳しいが、きちんと仕事は教えてくれる。 一度しか仕事は教えてはくれないが、それでも花には有り難いことだった。 公瑾がわざわざ手を止めて仕事を教えてくれるのだから。 花はそのさり気ない優しさに心を寄せながら、ただ勉強と仕事に頑張る。 すっかり、公瑾のアシスタントのようだと、自分でもつい苦笑いをしてしまっていた。 仲謀軍には優秀な軍師が二人いる。 だから花の出る幕はない。 そのため、どうして花がいつまでも仲謀軍に止どまっているのかと、厳しい意見を言う者もいる。 その視線が痛いのは確かだった。 だからこそ、そばにいて価値があることを、認めて貰う必要があった。 そのためには勉強が必要だ。 だが、なかなか思うようには進まない。 花は勉強を頑張る余りに、かなりの疲労を感じていたが、それを直隠しにしていた。 「今日はこれまでです。ご苦労様でした、花。ゆっくりお休みになって下さい」 「はい、公瑾さん。有り難うございました」 花はそれだけを言うと、立ち上がる。 最近、仕事の後に、公瑾とのんびりとお茶をすることがなくなってしまった。 花はそれは自分が不甲斐ないからだと思っている。 一緒にお茶を飲んだり、琵琶を聴かせて貰ったりするのが、何よりも楽しかった。 それが今はない。 苦しくて、辛い。 それは自分が出来ないから。 花はいつしか自分自身を追い込んでいった。 公瑾の部屋を出ると、噂話をしている武官を見掛けた。 「公瑾様は近々ご結婚されるのではないか?」 「ああ。あれ程の地位の方ならば、いつ結婚されてもおかしくはないからな。何処かの良家の女性を娶られるのではないか?」 「そうかもしれぬな」 二人の噂話は、花の心をストレートに攻撃してくる。 解っている。 公瑾程の地位を持つ者は、しかるべき結婚をしなければならないことぐらい。 いくら恋人がいてもだ。 恋人は第二夫人にでもすれば良い。 それがこの世界の考え方なのだろう。 それは流石にキツい。 ずっと一夫一妻であることを当たり前に生きてきた花にとっては。 なかなか受け入れがたい事実ではある。 花は噂話を聞きながら、俯くと、自室に入った。 今日はひとりで静かに過ごしたかった。 食事もせずに、寝台に横たわると、不意に本が視界に入る。 あれを開けば、まだ帰ることが出来るのだ。 公瑾からの永遠の別れを意味しているから、花には踏ん切りがつかなかった。 このままだと、あの本を開けるのは時間の問題だろう。 花は本をじっと見つめながら、切ない涙を流した。 花の様子がおかしいことに気付いたからか、翌日、公瑾の元に行く前に、尚香に呼ばれた。 「…花殿…、最近、余り元気がないようですが、大丈夫ですか? 公瑾と何かあったのではないですか?」 尚香は花を心配そうな瞳で見つめてくる。 流石は同性だけあり鋭いと花は思った。 「大丈夫ですよ…。ただ…、疲れているのかもしれないですね…」 「そうですか…。花、余り無理はされないように…。…花、玄徳様の所へ里帰りしてはいかがですか?」 「え?」 思いがけない申し出に、花は逆に驚いてしまった。 確かに、今の花には気分転換が必要だ。 玄徳軍にいた頃は、厳しいことも多くあったが、それでも楽しかった。 一日一度は大笑いをしていた。 花は懐かしく思いながら、つい微笑んだ。 懐かしくて優しくておおらかな場所だ。 里帰りなんて、同盟をしているからこそ言えるのだと、花は思った。 里帰りとは戻ること。 玄徳は受け入れてくれるだろう。 優しい兄のような人だった。 「…少し、考えてみます。色々とお気遣いを有り難うございます」 「遠慮なく何でも言って下さいね。あなたはもううちの一員なんですからね」 「有り難うございます。尚香さん」 尚香の優しい心根が嬉しくて、花は笑顔で礼を言った。 花より少し前に、公瑾は仲謀と尚香に呼ばれた。 あくまで仲謀は、ただそこにいるだけのようだった。 「ごめんなさい、公瑾殿。お呼び立てをして」 「構いませんよ、尚香殿」 公瑾は以前のような作った笑みではなく、柔らかな笑みを向ける。 「お話は花殿についてです。彼女が大好きだからこそ、あなたに進言します。最近の花殿は何だか元気がなくて、切なそうです。無理をしているような気がして…」 尚香の心配そうな話を聞きながら、公瑾は胸が激しく痛むのを感じた。 花が疲れていることも、何処か愁いがあることも、公瑾は気付いていた。 だが、なかなか花に休ませるような一言が言えなくて、ここまできたのだ。 花を愛している。 だからこそ誰よりも気遣ってやりたい。 だが、仕事を本気になって学ぼうとしている花には、多少厳しくしなければと、思っていた。 だが、それがかえって負担になってしまっているのであれば、公瑾としつはかなり心苦しかった。 「…公瑾殿…、花殿を、一度、玄徳様のところに帰してはいかがでしょうか? 里帰りということで」 尚香の言葉に、公瑾は顔色を変えた。 花を玄徳のところに帰すなど、到底、承服しかねることだ。 花をそばに置いておきたい。 何処にも行かせたくはない。 花を玄徳軍に帰してしまえば、二度と自分の所には帰って来ないような気がするのだ。 しかし。 だからと言って、花をこのままにしておくことは出来ない。 ずっとつらそうなのは解っていたから。 「…分りました。花が望むのならば考えても構いません。しかし、それはあくまで彼女が望めば…、です。お話はこれだけでしょうか?」 「…ええ…」 「では、失礼致します」 公瑾は丁寧に礼を言った後で、部屋を辞した。 ひとり仕事をしながら花を待つ。 花が尚香に呼ばれているのは解っている。 花に選択は任せるとは言いながらも、本当は離したくはなかった。 どうかずっとそばにいて欲しい。 それだけを思いながら待った。 ゆっくりと扉を叩く音がする。 「公瑾さん、花です」 「どうぞ」 花が扉をゆっくりと開ける。 公瑾が振り返った時だった。 「……!」
花はそのままその場に倒れた。 |