*切ないこころ*

後編


「花!」

 明るい調子で芙蓉姫がやってきた。

 正直、有り難い。

 芙蓉姫がそばにいてくれるだけで、気分を紛らわせることが出来るのだから。

「花も明日、帰るんでしょう?」

 芙蓉姫に訊かれて、花は言葉を一瞬、詰まらせる。

 本当は公瑾のそばを離れるのが嫌だ。

 だが、離れなければもっと辛い思いをする。

 それが解っているから、離れなければならないと思って、花は公瑾には逢わないようにしてきた。

 明日、挨拶をしたらもう逢う事はないのだ。

 そう思うと、瞳の奥に涙が滲んでくる。

「どうしたの!? 花」

「だ、大丈夫。明日、皆と一緒に帰るよ」

 花は一生懸命笑おうとしたが、上手く笑えない自分に気付いた。

「…花…」

 芙蓉姫は痛いものを見るように花を見つめている。

 それが切ない。

 芙蓉姫は向こうにいる公瑾の姿を見つけると、花を真摯なまなざしで見つめた。

「花、本当は周都督のそばにいたいんじゃないの?」

「…そ、そんなこと…ないよ…。だって、公瑾さんには婚約者がいるし…」

 花は芙蓉姫のまなざしをまともに見ることが出来なくて、俯き加減で答える。

「小喬殿ね。確かに二喬ありと言われるだけあって、将来はさぞかし美しくなるでしょうね。だけど…まだ結婚していないじゃないっ! 諦めることはないよっ!」

 公瑾を愛していることを芙蓉姫にはバレてしまっている。

 こんなにも分かりやすい態度をしているから、当然なのかもしれない。

「…だけど帰るって決めたのだ。だって、公瑾さんは、あからさまに私のことが迷惑だって顔をしているし…。態度だってそうだし…。いつもキツいことばかり言われていたから」

 芙蓉姫に離していると、胸がキュッと締め付けられてしまう。

 花は息苦しさに卒倒してしまいそうになる。

 これが恋。

 しかも切ない恋なのだ。

「呆れた…! 仲謀軍の勝利の為にあんたを散々利用していたくせに! 玄徳様が様子を見に行っても逢わせなかったのは、あの男の差し金だったのよ! あんたを人質として体よく使ったのよ! 最低の男よ! しかもあんたの心まで盗んでいくなんて…!」

 芙蓉姫は心から怒ってくれていた。

 芙蓉姫の友情が嬉しくて、花はまた泣きそうになる。

「…離れたら…忘れられるかな…。だから、明日、皆と一緒に帰るよ…。だって…これ以上…一緒にいても辛くなるだけだから…」

 話しているそばから涙声になってしまう。

 いけないことだとは解ってはいても、上手くいかなかった。

「…花…」

 芙蓉姫も今すぐにでも泣きそうな顔になっている。

「あんた、なんて健気なのよ…! 花、私があの男を代わりにぶん殴ってやるわ! 花みたいに良い子の心を踏みにじるなんて許せないから!」

 芙蓉姫は心から怒って、公瑾をなじっている。

 花は力なく笑いながらも、やはり女の子の友達は良いと感じた。

 利用されていた。

 確かにそうかもしれない。

 だが、それ以上に公瑾は優しかった。

 花をしっかりと守ってくれた。

 自分の命を犠牲にしようとすらしてくれたのだ。

 そんなひとが利用していたなんて、花は思いたくはなかった。

「…だけど…いっぱい、いっぱい、公瑾さんは私を守ってくれたんだ…。それはとても感謝しているよ…。公瑾さんは、意地悪だったこともあったし、かなり厳しかったし、冷たかったけれど、それ以上に優しくしてくれたんだよ…。私を命懸けで守ってくれたんだよ…」

 公瑾のことを話しているうちに、花は顔をクシャクシャにして泣いてしまう。

 本当のことなのだ。

 公瑾は本当に優しかった

 公瑾を愛しく思っている。

 だからこそ苦しいのだから。

「もうっ、バカッ! どうして素直にならないのよ!? そんなにも好きだったんなら、諦めたらダメじゃないっ! 婚約者が何よっ! そんなものはくそくらえよっ! きちんと伝えなくちゃ、後で後悔するよ! 後悔するなんて、嫌でしょう!?」

「…芙蓉姫…」

 芙蓉姫の話を聞いていると元気が出て来る。

 確かにそうなのだ。

 当たってみなければならないところはある。

 だが、その勇気がなかなか湧いてはこなかった。

 だが、かと言って、公瑾の愛情を誰かと分け合うことは出来そうになかった。

 傷つくだけだということは、花も解っていたことだ。

 誰かと生涯愛情を分け合う。

 そんなことは出来ない。

 途中で苦しくておかしくなってしまいそうだ。

「有り難う、芙蓉姫。大丈夫だよ。明日、ちゃんと笑顔で挨拶をしてお別れをするよ…。それが一番だよ。私よりも小喬さんと結ばれたほうが、公瑾さんは幸せになれるから。これは本当だよ。公瑾さんが幸せであれば、私は本当に構わないんだ…」

 大好きなひとに出来ることは、もう幸せを祈ることしかないということは、花が一番解っている。

 だからこそ祈ってあげようと思う。

 大好きなひとが幸せになるために。

 花は、深呼吸をすると、芙蓉姫に笑いかけた。

「ホントっ、あんたって馬鹿だよ…。あんたみたいな良い子を振る公瑾殿は救いようがない馬鹿だけれどねっ!」

 芙蓉姫の言葉に、花は思わず苦笑いをする。

 そういう風に思って貰えるなんて、幸せだと思った。

「有り難う…。明日はちゃんと公瑾さんに有り難うを言うよ。お世話になったから」

 大丈夫。きっと笑顔でさよならを言える筈だから。

「玄徳様にはあなたが戻ることを伝えても構わないね」

「うん、それでお願いします」

「ったく。じゃあ、私は行くよ。あんた、その涙をどうかしてから戻っておいで」

「うん、有り難う」

 花が芙蓉姫を見送った後。ふと振り返る。

 そこには公瑾がいた。

「そんなところで油を売っているなんて、あなたは余程暇だとお見受けしますが」

 相変わらずの慇懃無礼ぶりに、花は苦笑いをする。

 いつかこれも懐かしく思えることだろう。

 それは何となく分かる。

「私が為すべきことは終わりましたから…」

 花はなるべく落ち着いた声で伝える。

 落ち着いた風に伝えなければ、泣きそうだったから。

 為すべきことは終わった。

 もう必要ない。

 公瑾に利用されることもないのだ。

 何だかそれすらも寂しくてしょうがなかった。

「…そうですか…。あなたはそう思われているのですね。まあ、うちと違って玄徳軍はお暇のようですからね」

 公瑾の嫌味にもいちいち反発することもなく、花はただ穏やかに微笑んだ。

「…私のすることは、もう何もありません。終わったんです…。何もかも…」

 笑顔で言うには、余りにも辛い言葉だった。

 ここにはいられない。

 これ以上一緒にいることは出来ない。

 花は軽く深呼吸をすると、戻ろうとした。

「戻ります」

「待って下さい」

 冷たい声が聞こえる。

 また意地悪なことでも言われるのだろうか。

 それですら今は懐かしい。

「…お帰りになるのですか? 明日…」

 公瑾のことだから、玄徳軍が明日出立することは解っているのだろう。

 だが答えられない。

 もし、公瑾が帰るなと、ずっと一緒にいたいと言うのであれば、間違なく残るのに。

 そんなことは有り得ないだろうから。

 花が言葉に詰まっていると、不意に公瑾に抱き締められる。

 余りにも突然のことで、花は一瞬戸惑う。

「…あ…」

 花が声を上げた瞬間に、公瑾は抱擁を解き、そのまま立ち去る。

 その後ろ姿を見つめながら、花は抱擁の意味を考える。

 どういう気持ちで抱き締めてきたのだろうか。

 花は胸の甘苦しい痛みに、躰を抱き締めた。



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